「アナ・ログ」
アナウンサーリレーエッセイ

私の好きな宮城県
佐藤 拓雄
(2015/06/05)


私が宮城県にやってきたのは、大学に入学した1989年。平成で言うと元年です。
それ以来、宮城に住んで27年目。もう人生の半分をとっくに超える時を、宮城県民として生きているので、生まれ育った出身地よりも、私にとっての地元は、宮城県としか思えません。

生活の本拠としても、宮城県には、本当に何の不満もありません。
アナウンス部の皆さんがこれまでに書いているように、食べ物はおいしい、なんでも近くにある、自然も豊かで気候もおだやか、人は優しい・・・挙げればきりがありません。

私が宮城県に住み続けているのは、もちろん、就職で仙台放送に入ったことで決定づけられたわけですが、実はそれ以前の学生時代から、宮城に住み続けたいと強く思っていました。

今挙げたような魅力の他にも、父親が福島県郡山市出身で、祖父母の住む実家があり、仙台は郡山のちょっと先、くらいの感覚で、もともと親しみがあったこと。そんな孫の私が東北地方に来たことを、祖父母がとてもとても喜んでくれたということ。それほどちょくちょく顔を出すことはありませんでしたが、近くにいる、という思いは、祖父母にも届いていたような気がします。

そして、当時もう一つ大きな動機づけになっていた、ちょっとセコい理由もありました。
宮城に移り住んだ平成の初めは、バブル経済真っ只中。不動産が高騰し、学生ながら、ぼんやりと、将来自分で家を持つなんてことはできないものなんだろうなあ、と思っていました。
それが、こっちに来て、新聞の折り込みチラシを何気なく見て、びっくり。ここなら自分の家が持てるかも、と現実味はないながらも期待を持ったことを今でも憶えています。
実際には、東京の高騰が異常過ぎたんでしょうけどね・・・

ともかく、そんなこともあったりして、来てすぐから、宮城こそ自分の住むまち、この土地が好きだ、という思いを持ち、今に至っています。
この仙台放送の就職試験では、宮城に一生住みたい、ということをアピールした記憶もありますが、宮城で就職することができて、めでたしめでたし。
学生時代の妄想(?)どおり、ここで家族を得て、自分の家も手に入れました。
そういうふうに考えると、恵まれた人生を送れているんですね。感謝です。

写真は、ひと月程前の青葉通。ビルの谷間の新緑が◎

次は、福島県出身の寺田さんです。

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