「アナ・ログ」
アナウンサーリレーエッセイ

2019年を振り返って
佐藤 拓雄
(2019/12/17)


戦争と平和について、考えたり感じたりできた一年でした。

大きかったのは、いずれも出張の合間でしたが、広島と沖縄で戦争の跡に触れられたことです。

とりわけ、沖縄県南風原町にある「旧陸軍病院壕(ごう)跡」は、百聞は一見に如かず、感じること・考えることの多い場所でした。

沖縄の旧陸軍病院が、戦争が激しくなるに従い、建物ではなく、山の中に狭い横穴を掘り、「病院」として使用します。
1.8m四方の狭くて真っ暗なトンネルに、粗末な患者用の二段ベッドがあるだけの施設。医療物資も乏しく、著しく不衛生な環境下で、次々に運び込まれる傷病兵の世話をさせられたのが、戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる、女生徒たちでした。
壕の中は空気も薄く、暑さや悪臭もすさまじかったようです。外は銃弾が飛び交う戦場そのもので、極めて危険な状態。そのなかで、生徒たちは、仮眠もとれないほど働かされたそうです。

現在、その壕の一つが修復・整備され、ガイドの案内で入ることができます。
文字通り山を掘った長い横穴で、ここを「病院」ということ自体信じがたい空間です。【写真】のように懐中電灯がないと何も見えません。
今はベッドがありませんが、当時は、患者であふれかえる中、ベッドの脇をすり抜けるように移動していたと想像すると、天井の低さもあり、狭さや閉塞感は、今感じる以上だったことでしょう。

戦況のさらなる悪化で、陸軍病院はその病院壕も捨て、南へ撤退。今度は、「ガマ」という自然の洞窟を「病院」としますが、最後は、病院が「解散」、生徒たちは突然戦場に放り出されることになります。多くの生徒は、この「解散命令」後に命を落としたそうです。

敗色濃厚の中、「本土」への攻撃を遅らせる「時間稼ぎ」として利用され、多数の民間人が戦闘に巻き込まれた沖縄。
その歴史的事実の一端を、恥ずかしながら、この年齢にしてやっと、「肌感覚」として理解できた気がしました。

来年で戦後75年。
いつまでも「戦後」であり続けるように、戦争をもっと知っていかなければいけないとの思いを強くした2019年でした。

ちなみに、「病院壕跡」の脇には「憲法九条の碑」というのがあり、その意味は実に重いと感じました。

明日は、飯田アナウンサーです。

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