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【セリフで分析 シェイクスピアの世界】 第5回 『リア王』と否定主語構文

2015/08/28 10:00


英語ではよく用いられるけれど、日本語にはない構文のひとつに、「できることは何もない」(Nothing can be done)のような、否定の意味を含む不定代名詞を主語にして、否定文を作る構文があります。


しかしこれは、よくよく考えると妙な言い方ですね。「無をすることができる」とも読めますが、「無をする」って一体どういうことでしょう? 


こうした一見ごく普通の英語表現の背後にある、一種の無気味さを、シェイクスピアは後年の作品『リア王』(1605頃)で、悲劇的な世界観を描出するためのスパイスにしました。リアは、古代ブリテンの伝説上の王様です。娘たちに国を譲って隠居しようとするものの、人を見る目がなかったために、貪欲な姉娘たちに領土を与え、心優しい末娘コーディリアを勘当してしまいます。


当時、リア王の伝説は人口に膾炙していたため、シェイクスピア以前にも戯曲として上演されていました。先行作品では、リア王が、彼の苦境を見て駆けつけた末娘とともに、姉娘たちの軍勢を打ち負かし、国土を取り戻してハッピー・エンドとなります。ところがシェイクスピアは、これを戦に負けたリアとコーディリアが共に死ぬ結末に書き換えてしまいました。さらに、グロスター公という廷臣が、主君同様に子供の本心を見誤って悲惨な末路をたどるサブプロットまで書き加え、徹底的な悲劇にしてしまったのです。




そのあまりの救いのなさに、18〜19世紀には「老王の絶望を実際に舞台のうえで表現することは不可能」と、上演不能(芝居なのに!)の太鼓判まで捺されてしまった『リア王』の虚無的な世界観——これは、実は芝居の冒頭からほのめかされているのです。


1幕1場で、リア王は3人の娘たちに、それぞれ自分のことをどれだけ愛しているか言わせようとします。愛情の大きさに従って領土をもらえると聞いて、父への愛を大げさに言い募る二人の姉に対し、寡黙で潔癖なコーディリアは「特にありません」(Nothing)とだけ答えます。


意外な返答に驚いたリアは、彼女を促します。


「無からは何も生まれないぞ。もう一度言え」(Nothing will come of nothing. Speak again)と。


「無からは何も生まれない」−−この英語表現は、一義的にはそう訳すべきですし、リア自身もそのつもりで口にしています。しかし、この表現の背後には「無からは無が生まれるだろう」 という、恐ろしい予言のような意味も込められているのではないでしょうか。


実際、この作品では、コーディリアの “Nothing” という一言がリアの愚かな癇癪を生み、そこからまた雪だるま式に膨れ上がる一連の悲劇が紡ぎ出され、最後には舞台上に多くの死体が転がる圧倒的な虚無感に、劇世界が覆い尽くされてしまうのです。


文学においては、ことばは決して還元主義的に使われるものではありません。複数の(時には互いに矛盾すらする)意味が多層的に絡み合い、簡単に「こうだ」とは言い切ることができない、複雑で曖昧な気持ちや状況を、匠の技で表現しようとしているのです。


第1回の話題に戻れば、中世からルネサンスにおいて、文法・修辞学・論理学の三科目は、教養教育(liberal arts)の中核を成す重要な学問とみなされていました。ことばをきちんと使いこなせない者は、その他の学問分野についてもまともな議論ができるはずがないからです。


シェイクスピアの時代から400年、21世紀に生きるわたしたちも、母語であれ外国語であれ、ことばというものを大切に読み、使いこなす力を身につけていきたいものです。最終的にどのようなことを一生の仕事に選ぶにしても、「ことばの匠」であることは、きっとわたしたちの大いなる助けになってくれるはずです。





来週は「存続の危機!東北地方の郷土芸能をデジタルで救え!」です。

配信日程:8月31日(月)午前10時ごろ配信予定


※本日のコラムは2015年7月17日に配信したものをアンコール企画として再配信しています。



プロフィール

岩田 美喜(いわた みき)

東北大学大学院文学研究科准教授

使用言語とアイデンティティの観点から、イギリスとアイルランドの演劇を研究している。

編著書に『ライオンとハムレット』(松柏社、2003年)、『ポストコロニアル批評の諸相』(東北大学出版会、2008年)など。

趣味 演劇鑑賞、油絵、スキー