- 【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第1回 「自分とは何者か」を作るルネサンス人文学
- 【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第3回 オセローは、どこまでヴェニス人だった?(『オセロー』)
- 【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第4回 “Nobody, I myself” に隠されたメッセージ(『オセロー』)
- 【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第5回 歴史に命を吹き込んだ『リチャード三世』
【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第2回 ユダヤ人シャイロックをどう読む?(『ヴェニスの商人』)
2015/09/29 10:00
シェイクスピア作品には、忘れがたく魅力的な脇役がたくさん登場しますが、『ヴェニスの商人』(1596頃)に出てくるユダヤ人高利貸しシャイロックは、間違いなくその一人でしょう。
このお芝居は、バッサーニオという貧しい貴族が親しい豪商のもとへ、ポーシャという貴婦人へ求婚するための借金を申し込むところから始まります。ところがあいにく、ヴェニスの商人アントーニオにも、自分の商船が帰港するまでは自由になる現金はありません。そこで彼は、ユダヤ人の高利貸しシャイロックに、親友のための借金を申し込みます。おかげで求婚は成功するものの、喜ぶバッサーニオにアントーニオの船が沈んだという報せが届きます。貸し付けた3,000ダカットの担保として、シャイロックがアントーニオの人肉1ポンドを要求する「人肉裁判」のことは、この作品を読んだことがない人でも、耳にしたことがあるのではないでしょうか。
ここで「おや?」と思った方もいるかも知れません。表題で言及される「ヴェニスの商人」がシャイロックだという誤解は、現代日本では(現代のイギリスですら)珍しくないからです。実際、アル・パチーノがシャイロック役を務めた2004年の英伊合作映画版は、シャイロックを完全に主役の扱いにして、彼が当時のヴェニスにおいて住居や職業の制限を受けた被差別人種であったことを、前面に押し出す悲劇としました。
ところがこれは現代的な読み方で、当時の人にとっての『ヴェニスの商人』とは、アントーニオ、バッサーニオ、ポーシャという3人の主役の善玉が、シャイロックという悪役を撃退してハッピー・エンドに至る喜劇でした。けれど、第二次大戦後の世界を生きる我々には、何だか人種差別的で、お尻の座りの悪い「喜劇」に感じられます。法律家に変装したヒロインのポーシャが、シャイロックに「肉は取っても血を取ってはならぬ」と告げてアントーニオを救う場面に、やんやと喝采を送る気持ちにはなれません。
しかし、だからと言って、シェイクスピアが特に人種差別的な人物だった訳でもないのです。ユダヤ人を悪役として描くことは、中世以来の文学的伝統として確立されていました。例えば、英詩の父と言われるジェフリー・チョーサーによる『カンタベリー物語』(1387-1400)にも、ユダヤ人に咽喉を掻き切られて捨てられた子供の遺体が聖母マリアを讃える賛美歌を歌って、罪を世に暴くという説話が紹介されています(「女子修道院長の話」)。シェイクスピアは、彼が材源としたイタリアの説話集に従っただけなのです。
では、シャイロックを悲劇的に考えることは、現代人の過剰な深読みなのでしょうか。ややこしい話ですが、それもまたちょっと違うのです。シェイクスピアは用意周到に第1幕で、アントーニオが普段からシャイロックに敵対的な態度を取っていることを明らかにしており、彼がアントーニオを憎む心理的動機を示してあります。自動的にユダヤ人を悪魔として描く中世の説話とは違って、シャイロックは近代的な自我を持っているように見えるため、観客は彼に共感しやすいのです。
シャイロックが、特に自我を主張するのは、3幕1場です。アントーニオの商船が難破したという報せを聞き、心配した彼の友人たちは、シャイロックに向かい本気で人肉を取る気かと尋ねます。この時シャイロックは、自分は本気だと告げ、自分がこれまでキリスト教徒から受けてきた仕打ちを滔々と訴えるのです。
とはいえ、彼はロミオやハムレットのように華麗な韻文で語るのではありません。何しろ当時は、韻文で語るのはヒーローやヒロインなど、いわゆる格上のキャラクターに限られていたからです。しかしシャイロックは、中学英語レベルの簡単な語彙と文法の散文で、驚くほど私たちの胸を打つのです。長い台詞ですが(これでも一部に過ぎません)、‘hath’ が ‘has’ の古い綴りであることさえ了解しておけば、問題なく原文で味わえると思います。
ユダヤ人には目がないか? 手がないか? 内臓が、四肢が、五感が、感情が、激情がないのか? 同じ食物で育ち、同じ武器で傷つき、同じ病気に罹患し、同じ薬で治り、冬や夏には同じ暑さ寒さを感じるじゃないか、キリスト教徒がそうであるように! お前らが針で刺して、我々が血を流さないとでも? お前らがくすぐって、我々が笑わないとでも? お前らが毒を盛って、我々が死なないとでも言うのか?
(Hath not a Jew eyes? Hath not a Jew hands, organs, dimensions, senses, affections, passions? Fed with the same food, hurt with the same weapons, subject to the same diseases, healed by the same means, warmed and cooled by the same winter and summer, as a Christian is? If you prick us, do we not bleed? If you tickle us, do we not laugh? If you poison us, do we not die?)
いかがでしょうか。単純な構造の短文を連発しながら、彼は聞き手が息苦しくなるほどの迫力を生み出しています。「ユダヤ人にも目はあるぞ」と平叙文で断定するのではなく、修辞疑問文で問いかけ続けるため、こちらが聞き流せない(心で応答せざるを得ない)ようになっているからです。
また彼は、「夏や冬には同じ暑さ寒さを感じる」といえば平凡な対句になるところを、相応する単語の順番を引っくり返して「冬や夏には同じ暑さ寒さを感じる」とし、聞き手の注意を引きつけます(これは交差配列法という修辞技法です)。
シャイロックの言葉は、人がいかにシンプルな言葉で雄弁になり得るかを示してくれます。現代的な政治的配慮よりも何よりも、まず彼自身のその雄弁さのために、私たちはシャイロックを笑い飛ばすことができないのです。
実際、アル・パチーノより200年も前に、すでにエドマンド・キーンという俳優が、1814年にシャイロックを悲劇的に演じて大きな話題となりました。シャイロックという人物の豊かさが、単一的な解釈を拒み、私たちにこの難しいキャラクターとどう向き合うかを、考えさせ続けているのです。
次回は「第3回 オセローは、どこまでヴェニス人だった?(『オセロー』)」です。
配信日程:9月30日(水)午前10時ごろ配信予定
【プロフィール】
岩田 美喜(いわた みき)
東北大学大学院文学研究科准教授
使用言語とアイデンティティの観点から、イギリスとアイルランドの演劇を研究している。
編著書に『ライオンとハムレット』(松柏社、2003年)、『ポストコロニアル批評の諸相』(東北大学出版会、2008年)など。
趣味 演劇鑑賞、油絵、スキー