- 【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第1回 「自分とは何者か」を作るルネサンス人文学
- 【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第2回 ユダヤ人シャイロックをどう読む?(『ヴェニスの商人』)
- 【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第4回 “Nobody, I myself” に隠されたメッセージ(『オセロー』)
- 【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第5回 歴史に命を吹き込んだ『リチャード三世』
【セリフで分析シェイクスピアの世界 Part2】第3回 オセローは、どこまでヴェニス人だった?(『オセロー』)
2015/09/30 10:00
前回は、シャイロックという、当時のイタリア都市国家社会での異端児について述べました。本日は、別の意味でヴェニスの「内なる他者」とでもいうべき存在、『オセロー』(1604頃)の主人公オセロー将軍について話をしたいと思います。
オセローは、ヴェニス共和国軍の総指揮を執るムーア人の隊長で、共和国元老員議員ブラバンショーの娘デズデモーナを妻としています(芝居が始まった時には、二人は既に結婚しています)。しかし、彼に不満を抱く古参の騎手イアーゴーは、口八丁手八丁で彼女がオセローの副官キャシオーと不倫をしているかのように思い込ませてしまいます。嫉妬に判断力が狂った彼は、ついに寝室で妻を扼殺し、おのれも自殺して芝居は幕を閉じます。
人格高潔にして英雄的な武人とされるオセローが、なぜこうも安々とイアーゴーの奸計に引っかかってしまうのでしょうか? 作品の端々から得られる手がかりを元に、オセローの置かれた立場を少し探ってみたいと思います。
まず、彼が「ムーア人」とされていることについて考えてみましょう。ムーア人とは元来、アフリカ北部に先住していた人々(および彼らとアラビア人の混血)を指し、いわゆる大陸アフリカ人とは区別されていました。
ロマン派の詩人サミュエル・テイラー・コールリッジ(1772-1834)などは、この違いをとても重視して、その理由を「一度でも奴隷となった民族には、奴隷根性が染み付いてしまうから」と、自身のシェイクスピア連続講義で述べています。北アフリカであれば、ローマ帝国と死闘を繰り広げたカルタゴの将軍ハンニバルらを生んだ地だから分かるけれども、いわゆるネグロイドが主役を務める悲劇はちょっと想像できない、という訳です。
彼が生きた時代の制約の元にあるコールリッジの意見(偏見?)をそのまま受け入れることは、私たちにはもうできませんが、これはオセローの人種問題に光を当ててくれる点で、良い足がかりとなります。つまり、ヨーロッパ人にとっては長い間、ムーア黒人であるか大陸黒人であるかが、文化的に大きな違いを持っていたということです。
しかもややこしいことに、『オックスフォード英語辞典』によれば、実際は「中世から17世紀まで、ムーア人は幅広い黒人および褐色人種を指して」いました。『オセロー』の執筆が17世紀頭ですから、シェイクスピア自身はコールリッジのような細かい区別をおそらくつけていなかったでしょう。実際、イアーゴーや他の人物たちはしばしばオセローのことを「あの唇の分厚い野郎」とか「黒んぼオセロー」とか、ネグロイド黒人種に対する蔑称で呼びます。彼の人種と、ヴェニス社会での立ち位置は、どうも曖昧なのです。
しかし(あるいはそれゆえにこそ)、オセロー自身はヨーロッパ的価値観を内面化し、積極的に白人社会に同化したがっているようです。例えば、2幕3場で彼の部下たちが飲み過ぎて喧嘩を始めると、彼は「我らはトルコ人にでもなったのか?……キリスト教徒の恥だ、その野蛮な喧嘩をすぐやめろ」と言って叱りつけます。この場合の「トルコ人」というのは、人種というよりはイスラム教徒を指す包括的な語ですが、要するにこうやって諌めることでオセローは暗に、自分がキリスト教徒であることを強調しているのです。
うがった見方をすると、彼はどうも、表面的にヴェニス社会で名声を得た自分と、裏側で疎外され、差別される自分の間で板挟みになり、その「裏側」を恐れていたのかもしれません。逆説的ですが、人の裏側に対してどこか疑心暗鬼だったからこそ、イアーゴーの嘘を簡単に信じ切ってしまったのではないでしょうか。自身の立ち位置が曖昧であればあるほど、人は分かりやすいものに飛びついてしまうものです。
デズデモーナの殺害後に、全てはイアーゴーの奸計であったと知らされたオセローは、19行にも及ぶ長い弁明の独白をして自刃します。彼は、自分という人間が何者かを分かりやすく周囲に説明し、理解してもらうまでは、死ぬに死ねないのでしょう——これを共感的に受け止めるか、自分を美化する醜いエゴと取るかは、私たち次第ですが。
あなた方がこの不幸な事件について語るとき、
私について、ありのままに伝えてほしい。何一つ情状酌量せず、
また悪意から罪を重くすることも一切よしてくれ。そしてこう言って欲しい、
愚かな愛し方をした男の話ではなく、ただあまりに愛しすぎた男の話だと。
簡単に嫉妬するような男ではなく、ただ生まれつき極度の
激情に駆られやすかった男なのだと。
(5幕2場)
皆さんの耳には、オセローの弁明はどう響いたでしょうか。明日は、加害者である夫と対照的に、罪もないまま何の弁明もせずに死んでいく妻デズデモーナの立場から、この芝居を見直したいと思います。
次回は「第4回 “Nobody, I myself” に隠されたメッセージ(『オセロー』)」です。
配信日程:10月1日(木)午前10時ごろ配信予定
【プロフィール】
岩田 美喜(いわた みき)
東北大学大学院文学研究科准教授
使用言語とアイデンティティの観点から、イギリスとアイルランドの演劇を研究している。
編著書に『ライオンとハムレット』(松柏社、2003年)、『ポストコロニアル批評の諸相』(東北大学出版会、2008年)など。
趣味 演劇鑑賞、油絵、スキー