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【単語をとおして見る言葉の世界】第2回 苦行感はどこから来るか

東北大学

2016/05/10 10:07

第2回 苦行感はどこから来るか

皆さん、こんにちは。
前回の内容、覚えておられますか。
① 単語は記号であり、シニフィアン(音や文字)とシニフィエ(意味)の結合であること、② シニフィアンとシニフィエの結合を支えるのは、論理的な規則ではなく、話者の社会慣習であること、この2点を学んだのでした。

これを踏まえて、今日は、外国語の単語学習に対して感じる「苦行感」について考えてみましょう。

その前に、「シニフィアン」と「シニフィエ」が混ぜこぜになるという方へ。「アン」=能動(~する)、「エ」= 受動(~される)と考えてください。すると、「シニフィアン」= 表現するもの = 音・文字、「シニフィエ」=表現されるもの=意味、という対応が見えてきます。

それでは本題。
前回登場した中学1年生は、「eggのシニフィアンとシニフィエを論理的につなぐ規則はないこと」を知り、大仰にも絶望を感じたのでした。Eggのみならずdesk, pen, you, doctor… これから出てくる単語ごとに、逐一、音と意味の対応を覚えていくよりほかはないということに。そして、今後、単語は限りなく出てくるのであろうことに。

しかし、この中学生が気づいていないのは、「日本語の単語については、何の困難も感じていない」ということです。

母語 (native language) ― 言語学では「母国語」より「母語」という術語を使います。アイヌ語やバスク語のように国と言語は必ずしも対応するわけではないからです ― である

日本語でも、「たまご」という単語のシニフィアンとシニフィエは恣意的な結合を成しています。つまり、今皆さんの頭の中に浮かんでいるあのモノと、[ta・ma・go] という音の結合には、論理的な対応関係は存在しません。外国人から見れば、日本語の「たまご」も、英語のeggと同じくらい、「非論理的」な記号なのです。

いかがでしょう? たまごを見て「たまご」と呼ぶ。これは、日本語を母語とする我々には、いかなる天変地異が起きようといかなる政局の変化に巻き込まれようと不変の、当然のことであるように思われますね。

日本語母語話者にとってあのモノは「たまご」という単語で呼ぶのが「当然で自然」であり、なぜそうするのかを問うことは、件の中学生同様、ありません。この感覚を、哲学者の野矢茂樹氏は、次のように表現しておられます。

一本のキュウリを手にとり、自問してみていただきたい。その色を「赤」と呼びたくなるか。あるいは、手に持ったそれを「揚げまんじゅう」と呼びたくなるか。なりはしないだろう。けっきょくのところあなたはそれを「キュウリ」と呼び、その色を「緑」と呼びたいのである。[…] ここにあるのは「そうしたい」という気持ちとそれに従った反応だけであり、「そうすべき」に対応する何ごとかなど、見出されない。
(野矢茂樹『語りえぬものを語る』講談社、p. 283)

私見では、単語という記号の恣意性をこのような身体感覚に変えることこそ、母語における単語習得の真髄です。我々にとってアレを「たまご」と呼ぶのが自然であるように思われるのは、子供の頃に、このシニフィエとシニフィアンの対応を、それを共有する社会(他者)の中に身を置いて、試行錯誤しながら、体を使って覚えたからです。今、大人になって振り返ると、母語は外国語と異なり、苦もなく習得できたように感じられるかもしれません。

実際、数だけを問題にするならば、母語習得のピーク時には子供は相当数の単語を短期間で習得することが知られています。また、子供の推論を助けるような発見的方法(heuristics)があることもわかっています。

しかしながら、これは、既に大人として完成された知性による要約的記述であって、子供本人にしてみれば、生まれ落ちた社会 ― まずは親兄弟などの家族、次に近所の地域や幼稚園などへと拡大していく― の中で、「たまご」にまつわる振る舞いや「たまご」にまつわる伝統や価値観を、日々体を使って、意識的に、失敗に失敗を重ねながら、学んでいくのではないでしょうか。

子供が自身の経験から引き出すからこそ、「いい」や「美しい」や「懐かしい」のように、目に見えるようなシニフィエをもたない単語でさえ、学べるのではないでしょうか。母語での単語の恣意性とは、まさに、体得されるものであると思います。体で覚えた知識だからこそ、母語の単語の知識には厚みがあるのです。

一方、外国語の場合。
ここまで来ると、外国語の単語の習得の苦行感がどこに由来するか、わかりますね。
そうです。外国語の単語の学習が苦行であるのは、身体を伴わない学習であるからです。ひたすら、頭だけを用いてシニフィアンとシニフィエを結び付けていくのです。記号の恣意性を考えた場合、これは丸暗記 (rote learning) に等しく、大人になった頭には苦行以外の何ものでもありません。

外国語の単語の学習は、子供の頃、我々が日本語についてやったように、周りの話者と共同してコトに当たるなかで「ああ、こういうことを『いい』とよぶのだな」と体感し、自分でも「いい」を使ってみてそれが相手にちゃんと伝わるかどうかを試し、使い方を微調整していくような、そういう学習ではありません。辞書をはじめとする文字情報を介しての、机の上での学習です。

もちろん、言語の翻訳可能性(translatability)を考えれば、母語の知識が助けにはなります。翻訳可能性とは、シニフィエの共通性です。外国語の単語を学ぶ時には、母語の対応物に置き換えて理解するというのが、おそらく最も基本的なやりかたでしょう。

egg = たまご
good = いい
miss = 懐かしい

という具合に。
しかし、このように置き換えても、シニフィエが完全には一致しないという可能性があります。この点は次回考えることにして、ここでは、翻訳しても、「たまご」「いい」「懐かしい」を使う時には伴う身体的実感までは、egg, good, missに継承させることにできないという点に注目しましょう。

「こういうことを “good” とよぶのだ」という実感と確信は、英語話者の共同体の中で経験を積んで培っていくものですので、外国語で話す時にはいつまでたっても心元ない感じが付きまとうわけです。

「母語の単語は体で、外国語の単語は頭で学ぶ。」

今日学んだこのことについて、最後に一言。この違いは、言語の語彙の体系(レキシコン;lexicon)にも影響を及ぼします。日本語の語彙には、(A) 和語層と (B) 漢語層の区別があり、英語の語彙にも、(A) ゲルマン語層と (B) ラテン語・フランス語層という区別があります。そして日英に共通して、 (A) 層は日常生活語彙であるのに対し (B) 層は抽象領域語彙であるという違いがあります。これは、日英語それぞれにおいて、(A) は体で学ばれた語彙であるのに対し、(B) は頭で学ばれた語彙だからである、といえるでしょう。

<もっと知りたい人のために>
今井むつみ・針生悦子『レキシコンの構築:子どもはどのように語と概念を学んでいくのか』岩波書店,2008年.

次回は「第3回 比較すると楽しい」です。
配信日程:5月11日(水) 予定

プロフィール
長野 明子(ながの あきこ)
東北大学大学院情報科学研究科准教授
単語の構造・歴史・使用、単語を作り出す方法(語形成)について、英語を中心に研究している。
主著に Conversion and Back-Formation in English (Kaitakusha, 2008).
趣味 映画・音楽鑑賞、ラグビー・相撲・マラソン観戦、カレー屋めぐり