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【単語をとおして見る言葉の世界】第1回 単語は記号
東北大学
2016/05/09 10:29
第1回 単語は記号
春は新しい外国語を始めるのにぴったりの季節です。英語に再挑戦しようという方も多くいらっしゃるでしょう。
成功の鍵は「単語に親しむこと」。
単語テストを思い出し、単語学習=苦行という自動反応を感じる向きもあるかもしれませんね。しかし、単語こそ外国語学習の醍醐味 ―「他者の世界を知り、翻って自分の世界を知ること」― であるともいえるのです。
このコラムでは、外国語を学ぶにあたり、単語のどういう点に注目すると苦行を発見に変えられるか、考えていきたいと思います。
私の場合、単語学習の手ごわさを予感したのは中1の春でした。
九州は福岡の普通の公立の小学校、中学校、高校と進みましたので、英語に初めて触れたのは中学校に入学した時でした。
egg = たまご
英語の時間にこう教わりました。中1の私はこれで大いに考え込んでしまったのです。日本語で「たまご」と呼ばれるあのモノ、あのモノは英語ではeggと呼ばれるらしい。
「なぜ、アレをeggと呼ぶのだろうか?」
あのモノをeggと呼び、このモノをdeskと呼び、そのモノをpenと呼ぶ。ここには規則があるに違いない。規則がないとしたら、どれほど大変なことになるだろう!
先生には聞けず、家に帰り、同じ中学に通う中3の兄に聞いてみることにしました。中3生なら答えを知っているはずです。アレとeggという英単語を結びつける規則を教えてくれるに違いない。
「さあ… なんでかはわからんバッテン、そげえなっとうっタイ。覚えりゃよかっタイ。」
(訳:さあ… なぜかはわからないけど、そうなってるんだよ。覚えればいいんだよ。)
なぜかはわからないが、英語ではたまごをeggと呼ぶことになっている。机をdeskと呼び、鉛筆をpenと呼ぶことになっている。私はそれを1つ1つ覚えていくしかない。
この時感じた、眩暈のするような絶望感(大げさですが)は、今でもありありと覚えています。
「疑問文を作るには主語と動詞を入れ替える」(例:You are a doctor. ⇒ Are you a doctor?)「一般動詞の場合はdoを分身として使う」(例:You like music. ⇒ Do you like music?)等々。
こういった、『英文法』として教わる規則は、単語同士を並べるための規則です。個々の単語を成り立たせる意味と音のつながり ― なぜ聞き手をyouと呼ぶか、なぜ医者をdoctorと呼ぶか ― そこにはパターン化できるような規則(推論のための規則)はないのです。英語を学ぶ者は、「なぜかはわからないがそういうことになっている」無数の対を1つ1つ覚えていかねばならない。中1の私にはそれは途方もない困難であるように予感されたのでした。
様々な言語の「卵」たち
大学に入り、言語学 (linguistics) を学び始め、中1の時の疑問は、フェルディナン・ド・ソシュール (Ferdinand de Saussure, 1857-1913, スイスの言語学者) の唱えた「記号体系としての言語」の特性に辿り着くことを知りました。いわく、
1. 人間は世界を「分節化」して生きている。
2. 分節化の基盤は「言語」(ソシュールの術語で「ラング」。「パロール」と区別される)である。
3. 言語の基本単位は「記号」である。
4. 個々の記号は、音(のような知覚可能な表現媒体)と意味を同時に持つ二重の存在であり、前者を「シニフィアン」(記号表現)、後者を「シニフィエ」(記号内容)という。
5.記号およびその体系(つまりラング)は共同体で共有されている慣習である。
例えば、eggは英語という言語を構成する記号であり、「たまご」というシニフィアンと シニフィエとしての [ɛɡ] という音が分かち難く結びついています。この結合は、英語話者に共有される約束事、社会的な慣習であり、英語を使う限りはそれに従わねばなりません。
とすると、なぜたまごをeggと呼ぶのか、それは、「それが英語話者の間の取り決めだから」であり、慣習とは独立した論理的な理由はないということになります。このことをもって、記号のシニフィアンとシニフィエの結合は「恣意的」(arbitrary) である、といいます。
中1の私は、eggの音と意味の結合を前に、外国人でもわかるような、一般的パターンとしての「規則」を求めたのですが、そこに働いているのは、英語話者だけが共有する、話者間のしきたりとしての「規則」だったのです。
あの時の兄の回答は、単語の記号性を捉えたものであり、慧眼だったといわねばならないかもしれません。
<もっと知りたい人のために>
山口裕之『人間科学の哲学―自由と創造性はどこへいくのか』勁草書房,2005年.
次回は 「第2回 苦行感はどこから来るか」です。
配信日程:5月10日(火) 予定
プロフィール
長野 明子(ながの あきこ)
東北大学大学院情報科学研究科准教授
単語の構造・歴史・使用、単語を作り出す方法(語形成)について、英語を中心に研究している。
主著に Conversion and Back-Formation in English (Kaitakusha, 2008).
趣味 映画・音楽鑑賞、ラグビー・相撲・マラソン観戦、カレー屋めぐり
春は新しい外国語を始めるのにぴったりの季節です。英語に再挑戦しようという方も多くいらっしゃるでしょう。
成功の鍵は「単語に親しむこと」。
単語テストを思い出し、単語学習=苦行という自動反応を感じる向きもあるかもしれませんね。しかし、単語こそ外国語学習の醍醐味 ―「他者の世界を知り、翻って自分の世界を知ること」― であるともいえるのです。
このコラムでは、外国語を学ぶにあたり、単語のどういう点に注目すると苦行を発見に変えられるか、考えていきたいと思います。
私の場合、単語学習の手ごわさを予感したのは中1の春でした。
九州は福岡の普通の公立の小学校、中学校、高校と進みましたので、英語に初めて触れたのは中学校に入学した時でした。
egg = たまご
英語の時間にこう教わりました。中1の私はこれで大いに考え込んでしまったのです。日本語で「たまご」と呼ばれるあのモノ、あのモノは英語ではeggと呼ばれるらしい。
「なぜ、アレをeggと呼ぶのだろうか?」
あのモノをeggと呼び、このモノをdeskと呼び、そのモノをpenと呼ぶ。ここには規則があるに違いない。規則がないとしたら、どれほど大変なことになるだろう!
先生には聞けず、家に帰り、同じ中学に通う中3の兄に聞いてみることにしました。中3生なら答えを知っているはずです。アレとeggという英単語を結びつける規則を教えてくれるに違いない。
「さあ… なんでかはわからんバッテン、そげえなっとうっタイ。覚えりゃよかっタイ。」
(訳:さあ… なぜかはわからないけど、そうなってるんだよ。覚えればいいんだよ。)
なぜかはわからないが、英語ではたまごをeggと呼ぶことになっている。机をdeskと呼び、鉛筆をpenと呼ぶことになっている。私はそれを1つ1つ覚えていくしかない。
この時感じた、眩暈のするような絶望感(大げさですが)は、今でもありありと覚えています。
「疑問文を作るには主語と動詞を入れ替える」(例:You are a doctor. ⇒ Are you a doctor?)「一般動詞の場合はdoを分身として使う」(例:You like music. ⇒ Do you like music?)等々。
こういった、『英文法』として教わる規則は、単語同士を並べるための規則です。個々の単語を成り立たせる意味と音のつながり ― なぜ聞き手をyouと呼ぶか、なぜ医者をdoctorと呼ぶか ― そこにはパターン化できるような規則(推論のための規則)はないのです。英語を学ぶ者は、「なぜかはわからないがそういうことになっている」無数の対を1つ1つ覚えていかねばならない。中1の私にはそれは途方もない困難であるように予感されたのでした。
様々な言語の「卵」たち
大学に入り、言語学 (linguistics) を学び始め、中1の時の疑問は、フェルディナン・ド・ソシュール (Ferdinand de Saussure, 1857-1913, スイスの言語学者) の唱えた「記号体系としての言語」の特性に辿り着くことを知りました。いわく、
1. 人間は世界を「分節化」して生きている。
2. 分節化の基盤は「言語」(ソシュールの術語で「ラング」。「パロール」と区別される)である。
3. 言語の基本単位は「記号」である。
4. 個々の記号は、音(のような知覚可能な表現媒体)と意味を同時に持つ二重の存在であり、前者を「シニフィアン」(記号表現)、後者を「シニフィエ」(記号内容)という。
5.記号およびその体系(つまりラング)は共同体で共有されている慣習である。
例えば、eggは英語という言語を構成する記号であり、「たまご」というシニフィアンと シニフィエとしての [ɛɡ] という音が分かち難く結びついています。この結合は、英語話者に共有される約束事、社会的な慣習であり、英語を使う限りはそれに従わねばなりません。
とすると、なぜたまごをeggと呼ぶのか、それは、「それが英語話者の間の取り決めだから」であり、慣習とは独立した論理的な理由はないということになります。このことをもって、記号のシニフィアンとシニフィエの結合は「恣意的」(arbitrary) である、といいます。
中1の私は、eggの音と意味の結合を前に、外国人でもわかるような、一般的パターンとしての「規則」を求めたのですが、そこに働いているのは、英語話者だけが共有する、話者間のしきたりとしての「規則」だったのです。
あの時の兄の回答は、単語の記号性を捉えたものであり、慧眼だったといわねばならないかもしれません。
<もっと知りたい人のために>
山口裕之『人間科学の哲学―自由と創造性はどこへいくのか』勁草書房,2005年.
次回は 「第2回 苦行感はどこから来るか」です。
配信日程:5月10日(火) 予定
プロフィール
長野 明子(ながの あきこ)
東北大学大学院情報科学研究科准教授
単語の構造・歴史・使用、単語を作り出す方法(語形成)について、英語を中心に研究している。
主著に Conversion and Back-Formation in English (Kaitakusha, 2008).
趣味 映画・音楽鑑賞、ラグビー・相撲・マラソン観戦、カレー屋めぐり