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「津波被災地の幽霊を小学生から研究者まで考える」第5回 従来の救済システムからの離脱
東北学院大学
2016/06/17 10:15
第5回 従来の救済システムからの離脱
いよいよ最終回となりました。みんなのゼミということで学問的な理論になるだけ落としていきましょう。理論は現場から新たに作られていくものです。
私どもは幽霊の実在の有無についてはペンディングつまり保留してきました。
幽霊はいるかもしれないし、いないかもしれない。けれどもそれはどちらでもよい話で、そうではなく、当事者がそのように考えていることに寄り添って考えてみると、そこにどういう意味と実践的な意味が込められているのか、ということを民衆の宗教観から見いだすことができます。
そして、その事象が世界や共時的(同じ空間や世界)・継時的(過去の世界)に比較して位置づけを行います。つまり、まったく独立してオリジナリティの研究というものはなく、過去の研究に照らしてどういう位置づけができるのかを探索していきます。
たとえば、戦争や災害においては、大量死という現実を避けて通ることはできない。9・11テロや戦争など行方不明者について長らく調査した研究者であり、家族療法家でもあるポーリン・ボスは、「曖昧な喪失」という概念を用いて、死者がいてお葬式などの象徴的な儀礼によって送り出される遺族の「明確な喪失」と区別して、その状態が最終的か一時的か不明であるため、残された人びとは困惑し、問題解決に向かうことができない状態を定式化させました。
また、幽霊を宗教論として読むとすればどういうことになるのか。ある定式があるように思われます。私たちが通常接する死者との関係でいえば、葬儀などの儀式は、死者を生者側が日常性(この世)から切り離し、非日常的領域(あの世)に移行させ、安定を図る行事だといえます。このことを踏まえると、被災地で目撃される幽霊は、死後に肉体を離脱した霊魂であり、いまだ成仏し得ないためこの世に姿を現す存在(実体)であると宗教学者の一部の方は捉えます。
そしてある宗教学者は次のように定式化させています。すなわち、宗教の役割を東北地方の幽霊が安定化し、人びとを惑わすことがないようになるためにも、(1)不安定で迷っている死者たち、ねたみや恨みの感情を抱いている祟る死者、障る死者、成仏・往生できずに苦しんでいる死者から、(2)落ち着いて安定している死者たち、安らかな死者、成仏した死者、子孫を見守り援護する先祖、へと変化(ヘンゲ)することが求められると結論づけています。
これは救済システムとして捉えると、怨念を残した苦しむ死者の救済を、身内の死者への孝養と結びつけるという仏教の民衆への歴史的定着過程を主なベースとしていることになります。
一見すると私たちにも理解されやすい。通常、曖昧な喪失を縮減する方向に向かう。事実現場では、御施餓鬼供養と浜祓いという儀式があります。そこでは不浄な施餓鬼となった死者を一堂に呼び寄せて祓って清めたうえで海に帰すことを行っています。
そうすることで、たとえ千年ぶりに訪れた想定外の災害であったとしても、行方不明者を多く出す遠洋漁業者の事例にあてはめながら、従来の文化的な宗教的救済システム装置に乗せる形で未知の事態を解消しようとする。
すなわち、死者を穢れや祟りから祓ったり祀ったり、供養するべき対象として、捉えることもできます。そのことで初めて清められた海の漁にでられるのです。
しかし、今回示した実際に現場で生じている事例は明確にそれを否定するものです。先祖供養でもなく、死者供養でもないのです。生者と死者のあいだに存在するあいまいな死は、必ずしもマイナスだけの祟ったりするような不安定な死ではないのです。
運転手が二度と出てくるなと合掌するのではなく、再び現れたとしても温かく迎え入れる幽霊との邂逅なのです。当事者にとって自分のペースで一時預かりをできる生ける死者とのあり方を示しているのです。今回の事例は曖昧な喪失の中身をむしろ温めて意味を豊富化させる方向に動き出している宗教的萌芽とみる見方にたっています。
【プロフィール⑤】
東北学院大学教養学部地域構想学科・教授
金菱 清(かねびし・きよし)
http://kanabun.soms9005.com/research/book
2016年編著『呼び覚まされる霊性の震災学―3.11生と死のはざまで』(新曜社)を発刊し、幽霊のニュースが国内外を駆け巡る。『震災学入門―死生観からの社会構想』(ちくま新書)を発刊する。E-mail:soms9005@yahoo.co.jp
いよいよ最終回となりました。みんなのゼミということで学問的な理論になるだけ落としていきましょう。理論は現場から新たに作られていくものです。
私どもは幽霊の実在の有無についてはペンディングつまり保留してきました。
幽霊はいるかもしれないし、いないかもしれない。けれどもそれはどちらでもよい話で、そうではなく、当事者がそのように考えていることに寄り添って考えてみると、そこにどういう意味と実践的な意味が込められているのか、ということを民衆の宗教観から見いだすことができます。
そして、その事象が世界や共時的(同じ空間や世界)・継時的(過去の世界)に比較して位置づけを行います。つまり、まったく独立してオリジナリティの研究というものはなく、過去の研究に照らしてどういう位置づけができるのかを探索していきます。
たとえば、戦争や災害においては、大量死という現実を避けて通ることはできない。9・11テロや戦争など行方不明者について長らく調査した研究者であり、家族療法家でもあるポーリン・ボスは、「曖昧な喪失」という概念を用いて、死者がいてお葬式などの象徴的な儀礼によって送り出される遺族の「明確な喪失」と区別して、その状態が最終的か一時的か不明であるため、残された人びとは困惑し、問題解決に向かうことができない状態を定式化させました。
また、幽霊を宗教論として読むとすればどういうことになるのか。ある定式があるように思われます。私たちが通常接する死者との関係でいえば、葬儀などの儀式は、死者を生者側が日常性(この世)から切り離し、非日常的領域(あの世)に移行させ、安定を図る行事だといえます。このことを踏まえると、被災地で目撃される幽霊は、死後に肉体を離脱した霊魂であり、いまだ成仏し得ないためこの世に姿を現す存在(実体)であると宗教学者の一部の方は捉えます。
そしてある宗教学者は次のように定式化させています。すなわち、宗教の役割を東北地方の幽霊が安定化し、人びとを惑わすことがないようになるためにも、(1)不安定で迷っている死者たち、ねたみや恨みの感情を抱いている祟る死者、障る死者、成仏・往生できずに苦しんでいる死者から、(2)落ち着いて安定している死者たち、安らかな死者、成仏した死者、子孫を見守り援護する先祖、へと変化(ヘンゲ)することが求められると結論づけています。
これは救済システムとして捉えると、怨念を残した苦しむ死者の救済を、身内の死者への孝養と結びつけるという仏教の民衆への歴史的定着過程を主なベースとしていることになります。
一見すると私たちにも理解されやすい。通常、曖昧な喪失を縮減する方向に向かう。事実現場では、御施餓鬼供養と浜祓いという儀式があります。そこでは不浄な施餓鬼となった死者を一堂に呼び寄せて祓って清めたうえで海に帰すことを行っています。
そうすることで、たとえ千年ぶりに訪れた想定外の災害であったとしても、行方不明者を多く出す遠洋漁業者の事例にあてはめながら、従来の文化的な宗教的救済システム装置に乗せる形で未知の事態を解消しようとする。
すなわち、死者を穢れや祟りから祓ったり祀ったり、供養するべき対象として、捉えることもできます。そのことで初めて清められた海の漁にでられるのです。
しかし、今回示した実際に現場で生じている事例は明確にそれを否定するものです。先祖供養でもなく、死者供養でもないのです。生者と死者のあいだに存在するあいまいな死は、必ずしもマイナスだけの祟ったりするような不安定な死ではないのです。
運転手が二度と出てくるなと合掌するのではなく、再び現れたとしても温かく迎え入れる幽霊との邂逅なのです。当事者にとって自分のペースで一時預かりをできる生ける死者とのあり方を示しているのです。今回の事例は曖昧な喪失の中身をむしろ温めて意味を豊富化させる方向に動き出している宗教的萌芽とみる見方にたっています。
【プロフィール⑤】
東北学院大学教養学部地域構想学科・教授
金菱 清(かねびし・きよし)
http://kanabun.soms9005.com/research/book
2016年編著『呼び覚まされる霊性の震災学―3.11生と死のはざまで』(新曜社)を発刊し、幽霊のニュースが国内外を駆け巡る。『震災学入門―死生観からの社会構想』(ちくま新書)を発刊する。E-mail:soms9005@yahoo.co.jp