アナ・ログ

恩師の思い出

梅島 三環子

2011/03/11

先生と出合ったのは、幼稚園の年少
3歳のとき。
夫婦で習字教室の指導にあたる先生のことを
当時の私は、男の先生、女の先生と呼んでいました。
いまでは大好きな先生ですが、
あの頃は、男の先生が怖かった…のです。

一人っ子の私は、それまで父親以外の男の人を見た事がなく
なぜか「知らない男の人=とても怖い」という認識があったようです。
2階にあった教室まで、階段で駆け上がり、
扉を開けるとそこには、男の先生がいる。
全くもって、当たり前な話なのですが、
「いる~!」と、びゃーびゃー泣いて階段を駆け下り、家まで走って帰る。
まぁ、家に帰ると、母親にこっぴどく怒られるので
また、びゃーびゃー泣いて教室に行くのですが、
すると、男の先生は隠れていてくれて、女の先生に迎え入れられるのです。
本当にご迷惑をお掛けしました。

しばらくすると、それも無くなり…
それどころか、「また習字行くの?」「あんたは、何時間習字をするの?」と
親に嫌味を言われるまでに教室好きになりました。
しかし、あの鮮烈な先生との出会いは、幼い頃ながら覚えております。

それからも、様々な迷惑をかけながら通った15年間。
男の先生と女の先生は、私の大切な恩師です。

明日は、拓雄さんの恩師です!

2011/03/09

本文と写真は関係がありません。

「恩師知新」
「温故知新」でしたね!
でも、先生によって新しい知識を知る訳ですよね。
そんな訳で、学校の先生は大事です。
昔は皆、怖かったのです。老若男女問わずね・・・・

まずは、小学校の恩師から。
1年~2年のY先生。女の先生です。中年(小1からみるとですよ)俗に言うヒステリックな先生でした。
(1年生で良く分析していますね。)2年間いっしょでした。私の大らかな性格が少々神経質に。
3年のS先生、男性の若い先生。今で言うさわやか系でした。前任の先生とは対照的なので、良く思えたのでしょう。
4年のS先生、この人は、ちょっとピリピリ系。洒落が通じない先生でした。私のギャグも空振り。
5年6年のT先生。結婚してS先生に。この時点で3人ともS先生、同姓でした。この先生は新任の女性教師。新任ですので、慣れないこともありましたが、優しく接してくれました。結婚式にもお出で頂きました。

中学生になると、恩師の恐ろしさ100倍。
1年の担任は、数学のM先生。数学は怖いのですよ。
2年も数学のN先生、これまた1年の二乗ぐらい怖いのです。
3年は、理科のO先生、これまた化学反応のように怖いのです。
これで私の理数系の頭脳は、皆無に。

恐怖の時代から、高校へ。
数学のH先生、英語のS先生、古文のT先生、体育のT先生とこれまた、怖いの怖くないの!!!!
そんな中でも、英語のT先生には仲人もして頂いたりと、この3年間は、先生の話をネタに今でも同級会でお酒を飲んでいます。

その後の恩師の話は、またの機会にしましょう。

そうそう、世の先生方!もっと恐ろしくなれ!!!!

お次のアナログは、梅島アナウンサーです。







2011/03/07

春は、出会いと別れの季節・・・。
人生の節目を思い出せば、感謝の気持ちを抱く大切な人の存在があります。
ということで、今回のアナログのお題は「恩師の思い出」です。


私がアナウンサーを目指すきっかけになった恩師がいます。
故・永井譲治先生です。
東京アナウンスセミナー(アナウンサー養成学校)の指導者の方です。
数々のアナウンサーを輩出し、その教え子は日本全国で活躍しています。
フジテレビ系列にも出身者が多く、CXですと三宅正治アナや、本田朋子アナ、めざましテレビの皆藤愛子さんなどが永井先生の教え子です。

永井先生と初めて出会ったのは、大学2年生の冬。
その時の私は夢も希望もなく、何も目標も無く暮らしていた女子大生でした。
高校時代に目指したタカラジェンヌになれなかった悔しさで自信を喪失し、心の中は虚無状態でした。

そこで偶然出会った永井先生に言われた言葉がこれです。
「早坂さんは、過去に生きています。今を生きましょう」

初対面の人に私の全てを見抜かれ、帰り道は電車内でもずっと泣いていました。
そしてすぐに「今を生きるために、アナウンサーを目指してみよう。とにかく、興味のあることにチャレンジしてみよう」
と前向きになることが出来たのです。

永井先生との出会いが無ければ仙台放送のアナウンサーにはなれませんでした。
永井先生のことを思い出せは、今でも目頭が熱くなる私のかけがえの無い恩師です。

画像は、永井先生が受講生に向けたメッセージ。
居酒屋にて、オムレツにケチャップで激励の言葉を書いてくださる先生でした。


お次の恩師エピソードは、浅見アナです!!
どんな方だったのでしょう?