アナ・ログ

子どもの頃なりたかったもの

2007/07/09

写真は県警記者クラブでお茶を飲んで和む様子を撮ってもらいました。束の間の一服中です。

さてさて子供の頃になりたかったもの…
幼稚園の頃はお姫様とかお嫁さんとか(綺麗なドレスを着られるから)
ケーキ屋さんとか(毎日ケーキがたべられるから)
安易ですが今となっては子供らしい夢を持っていました。

小学生の時は水泳を続けていたこともあって水泳の選手もいいなと思いましたがちょっと運動神経がいいくらいでは無理なんだと挫折。
法廷ドラマを見た後は弁護士もいいなと思ったりして勉強を頑張ったり、犬を飼い始めたら、獣医も憧れたりと…こうして書くと私のなりたかった職業は結構節操がありませんね(笑)
でもそんな私ですが昔からなんとなく将来は「おばあちゃん」になりたいなあと思っていました。孫に囲まれて縁側でお茶を飲んでいたいなあと。どんなアプローチをしても、行きつく先はここでありたいなあと。その為には今を頑張って、積み重ねていかなきゃと思います。

目標はとりあえず、長生き!
以上(笑)

2007/07/06

☆ヴァイオリニスト・・・小学校低学年
☆バレリーナ・・・小学校高学年~中学生
☆タカラジェンヌ・・・高校生

こうして、子供の頃なりたかった職業を並べると横文字ばかりでした。そして、人前で何かをする仕事ばかりですね。この中でも1番思い出があり、小さいながら情熱を燃やしていたものがクラシック・バレエです。

バレエといえばこの靴を連想する方も多いのでは?画像のトゥシューズは、右が初めて履いたもの(小2・21cm)
左は初めてのコンクールで履いたもの(中2・22cm)
子供の私でさえ何十足もトゥシューズを履き潰しましたが、思い出の2足だけ保存してあるのです。

数ある出来事の中でも1番は…
マイヤ・プリセツカヤという有名なロシア人バレリーナは、バレエに携わる者ならば知らない人はいないというほどの素晴らしいダンサー。ボリショイバレエ学校卒業後、いきなりプリンシパル・バレリーナ(バレエ団のトップクラス)に採用されるという、才能の持ち主です。
日本にいながら、この方に指導していただけるチャンスがあったので小学5年生の早坂は朝からウキウキ♪張り切っていました。

憧れのバレリーナに教わることができる稽古は、終始和やかな雰囲気。しかしその中でも「プロ意識をもちなさい!芸術の表現者なのだから、自覚を持ちなさい!」と柔らかな口調だけれどもじーっと目を見つめて言われたことが印象的でした。
日本ではバレエ=習い事。
でもロシアではバレエ=芸術家=職業。
なのです。

自分たちの意識の低さを感じ、なぜ私はこの場所にいるんだろう…と考えました。このことをきっかけに「将来、真剣にバレリーナになろう。そのために苦手分野を克服しよう」とバレエに取り組むようになりました。

結局は、バレリーナにはなれませんでしたが、あのプリセツカヤさんに教わった貴重な時間で得たことは、今も心に残っています。ただ今や足は90度以上は上がらないほど硬くなってしまいましたが(^_^;

さてお次は同期の原アナです!
堅実な将来像を小さい頃から描いてそう…☆

2007/07/05

「逸見政孝さんのようなアナウンサーか、ダウンタウンのようなお笑い芸人」

小学校の卒業前に、父兄も参加して最後のクラス会が行われました。その中の”将来の夢発表”で僕はこう発言したそうです(母親談)。発言自体はうろ覚えなんですよね笑

でも確かになりたかったんです。当時僕がTVで夢中になっていたのは逸見さんとダウンタウンが出る番組でした。
ご両人の共通点は”司会、仕切りに長けて、面白い”こと。僕自身人前でしゃべること、級長や班長として仕切ること、先生やクラスメイトのモノマネで笑いをとることが好きでした。そんな僕にとって逸見さんもダウンタウンも、自分が好きなことの達人に見えて、格好良く、面白く、そして憧れだったのです。

特に逸見さんの存在は若干小学生の僕に大きく影響をもたらしました。活躍される姿は亡くなられて14年経った今でも脳裏に焼きついています。テキパキと司会をこなし、時に冗談でスタジオを笑いで包む。とことん真面目なんですが、笑いも忘れない。そのギャップが大好きでした。
ただ何より忘れられないのは逸見さん自身が癌であることを告白した記者会見。

「私が今侵されている病気の名前は、病名は、癌です」
「僕はやっぱり人間ができていないので恐ろしいです」

目が窪み、頬骨が浮き出るほど痩せてしまった逸見さんが自身の病を告白し、心境を語る姿はあまりに衝撃的でショックでした。そして、わずか3ヵ月後、早すぎる他界。速報ニュース、追悼特番まで放送され、改めて日本中から慕われていたことを認識しました。その人柄を自分も尊敬し、幼いながらこんな人になりたいと思ったのです。

逸見さんは僕の中でアナウンサーを目指すきっかけともなった人。幼い頃の記憶なので徐々に薄れてきてはいますが、いつも僕の頭の隅には逸見さんがいました。そして今もなお、永遠の理想として、その後姿を追い続けています。

さてお次は早坂アナ!子供の頃から並々ならぬ思いがあったようです。

2007/07/04

小さい頃の夢、それは「一級建築士」になること!!
ものごころがついたときから、建築士になると思っていました。
幼稚園や小学生のときに、将来なりたいものは?と聞かれ、男の子は野球選手とか、女の子はお嫁さん、ケーキ屋さん、お花屋さん、が人気の中、私一人で、「建築士」といっていたのを覚えています。

そう、物を作る仕事がしたく、また話題のビルをつくったり、街をつくりたかったんです。
今は、お台場、汐留、六本木、丸の内など、いろいろなスポットがありますが、それらを造るのに携わりたかったですねぇ。
また、ディズニーランドや、お寺にも興味がありました。
でも、よくよく考えると、一級建築士は指示や監督をする立場で、直接は造らない事がわかり・・・。
結局、私がなりたかったものは、「大工」だったのかもしれません(^^ゝ

建築の夢が絶たれたのは、大学受験!!
もちろん、建築学科をうけました。
が、撃沈。
浪人する余裕はなく、気がつけば、物理学科に進んでいました。

それが、よかったかどうかは、まだわかりません。
もし、真面目に勉強していたら、未来は変わっていたのでしょうか???
誰にもわからないですけどね♪

次は、スポルたんでギャグを飛ばす板垣アナウンサーです。

佐藤 拓雄

2007/07/03

子どもの頃なりたかったもの、それは、コックさんです。幼稚園時代の夢です。
きっかけは、母親によると、帝国ホテルの当時の料理長・村上信夫さん。テレビで見た村上さんのピンとそびえ立つコック帽に一目惚れしたらしいです。フランス料理の村上さんですから、「コック」ではなく「シェフ」というべきかもしれませんが、料理人=「コックさん」が当時のボキャブラリーの限界でした。
それはともかく、幼稚園児の僕は料理はできませんでした。要するに「形」から入ったわけです。
そして、どういうわけか、「東大に入ってフランス語を勉強して、フランスで料理人の修行をして、帝国ホテルの料理長になる」などという、幼稚園児らしからぬ、しかし、現実的なのか現実離れしているのか分かりかねる、具体的なプランを幼稚園の先生などに話して驚かれていたそうです。

さて、そのプランのどれ一つとして現実になっていないことは言うまでもありませんが、実は、「コックさん」の夢はちょっとだけ実現しました。
浪人時代、気分転換と予備校の学費の足しに、という名目で始めたファミリーレストランのアルバイトです。
はじめは、コックさんの夢などとっくに忘れ、「ウエイターをしたい」と面接に行ったのですが、「厨房の手が足りないから」と、作るほうに回されました。ハンバーグ焼きから始まって、スパゲティ、グラタンなどの調理を主にやりました。家で料理をすることなどほとんどなかった僕が、フライパンの中身を片手で返せるようになったり、塩・こしょうのふり方が格好良くなったり、思わぬ収穫もありましたが、なんといっても最大の収穫は、コックの格好ができたこと。白いコック服、そして、幼き日に憧れた白いコック帽。村上信夫さんほどの高さではありませんが、「ああ、そういえば、こういうのに憧れていたことがあったなあ」とちょっと感激したことを覚えています。
今になって悔やまれるのは、そのとき、写真を撮っておかなかったこと。当時は、携帯電話のカメラもデジカメもない時代、いつもカメラを持っている人なんてほとんどいませんでしたので、そんな発想がまるでありませんでした。

ちなみに、現在、家では「男子厨房に入らず」状態。写真は、これ用に撮影しただけです。すみません。はい。

次は水上アナ。どんな夢を持っていたんでしょうね。

柳沢 剛

2007/07/02

「子供の頃になりたかったもの?」と聞かれ、
直にこれだ!
と言うものが…実は無いんです。何か寂しいですが…。

子供の頃から強い思い込みがない?と言うか、その思いが長く続かないと言うか、諦めやすいと言うか…。

「大きくなったら何になる?」
と聞かれるたびに、ころころ替わっていたような気がします…。で、とりあえず思い出すままに列挙してみますと…。

巨人のⅤ9時代に、少年野球をはじめ、「プロ野球選手」。(写真は、昭和49年、小4の頃、中段真ん中が初のユニフォーム姿の私です)
その後、早慶戦や正月ラグビーを見て、「ラグビー選手」。
ドラマ「飛び出せ青春!」が始まり、サッカー部に入部。中・高と、どっぷりサッカーにはまり、西ドイツ・ブンデスリーグでの奥寺選手の活躍を見て、「プロのサッカー選手」。選抜に選ばれるも、全国の選手のレベルの高さを見て、自分の限界を感じて挫折。

スポーツ以外では…
「兼高かおる世界の旅」を見て、海外に憧れ、「外交官」。
テレビドラマを見て、強きを挫き弱きを助ける「弁護士」。

そんなところでしょうか?
結構節操無いですね…。(笑)
しかも、そのための努力を全くしていないとくれば…。
ただの「かっこつけ」少年だったみたいです…。

でも、今、気が付いたのですが……。
全部「テレビ」なんですネ!きっかけが…。

「きっかけは00テレビ!」

そして、いまそのテレビ局で働いている…。
何か因縁めいたものを感じてしまいます。

もしかして本当に子供の頃なりたかったのは?
今の自分??????
もちろん、そんな事はありません…。


続いては…、この人は多分小さい頃から、しっかりとした考えを持っていたと思われる?佐藤拓雄アナウンサーです。

寺田 早輪子

2007/06/29

浅見さん!そうです!
「バスガイド」。小学校の卒業アルバムの「将来、なりたいもの」の欄に、私は「バスガイド」と書いていました。
小学校の遠足で、私がいた3年4組のバスの担当になったのは、「工藤静香」似の美人バスガイドでした。明るく、美しく、さらに歌もうまい彼女のガイドぶりを見て、私は「ああ。大人になったら、こうなりたい。」と強く感じた…記憶があります。
しかし、その夢は、遠足当日のうちに、破れたのです。
私は、車に酔いやすい。飛行機、新幹線、高速バス、乗用車…と、車種を問わず、長距離ドライブは、ほぼ酔う。
そんな私が、観光バスで、立ったまま、しかも後ろ向きで、笑顔で、お客様のお世話をするなんて、無理。
小3の遠足の日も、たぶん、「工藤静香」似のガイドさんに迷惑をかけたと思います。
バスガイドにはなれなかったけれど、あの日の「工藤静香」さんのように、優しい女性になってみたい。

 続いては、「子供のころ、何になりたかったのですか?」とうかがったら、しばし、黙ってしまった…柳沢アナです。(;▽;)

2007/06/28

仕事柄、小学生や中学生、高校生にお話をしてくださいといった依頼があります。仙台市のある市民センターで中学生の話し方教室のようなことをやってくれませんかという依頼がありました。「はて、何を」と思ったのですが、しかも2週連続で同じ中学生が参加するといいます。1回目は?そして2回目は?1回目は自分自身がどうしてアナウンサーになったのか?アナウンサーを志望したのか?という話をしました。それでも時間がありましたので、自己紹介の仕方なんぞだったかなあ。2回目は、ニュース原稿を持ち込んで「君もアナウンサーになってみよう」といった経験をしてもらいましたが、どうだったのでしょうか。緊張ぎみの中学生たちも、人に話を伝えることの大切さを感じ取ったようでした。

さて、話を戻しまして、自分はどうしてこの仕事に?
今の中学生よりは我々の時代のほうが大人びていたような気がしますが、浅見少年が目の当たりにしたのが東京オリンピックでした。1964年、昭和39年です。聖火リレーを沿道で見、開会式を迎えた10月10日、テレビからは、あの名アナウンサーとして語り継がれる北出清五郎アナウンサーの「世界中の秋晴れを東京に持ってきたような素晴らしい秋日和であります」という名セリフ。そして女子バレー日本対ソビエトの決勝では、これまた名アナウンサーの誉れ高い鈴木文弥アナウンサーの「金メダルポイント」実況。
昭和39年10月10日のその時、アナウンサーへの憧れをもつようになった日でもあります。
その時歴史が動いたのであります。

では、続いては「東京のバスガール」
初代コロムビア・ローズさんです。

林 佳緒里

2007/06/27

私も梅ちゃんと同じ「獣医」です。そう思ったきっかけも同じ「飼っていた犬」でした。

私には、10歳年の離れた妹がいます。だから小学4年生までは一人っ子同然。一人っ子は良い事もたくさんありますが、周りの友達に兄弟がいたりすると、やはり兄弟がいた方が楽しいのかなとうらやましく思ったりして・・・。そんな事もあってか、私が生まれた時に茅ヶ崎の実家にやってきた“柴犬のネネ”は姉のような?妹のような?存在でした。(写真は私とネネ)

親に怒られたり、友達と喧嘩したりすると、ネネがいる犬小屋に行っては、話を聞いてもらったり、時にはネネの前で泣いたりと、親には見せなかった姿をネネには見せていた気がします。私にとってとても大切な存在でした。妹が生まれた後もそれは同じ。

でもそんなネネにも老いがやってきました。白内障が進み散歩もままならなくなったり、食欲が落ちてきたり。そしてネネは13歳で、眠るようにして生涯を終えました。私にとっては、物心が付いてから直面した初めての「死」でした。涙が止まらなかった事を今でもはっきり覚えています。
その時私は、「獣医」になりたいと思いました。

結局今は、アナウンサーという仕事についていますが、その時の思いは仕事につながっている気がします。大学では生物学を専攻した事も手伝って、動物関連の取材に興味をもって取り組んでいます。
少なからず私の将来に影響を与えた愛犬「ネネ」。
「ネネ」と一緒にいた13年間は、かけがえのないものでした。

浅見さんの子ども時代?そしてなりたかったもの?想像出来るような?出来ないような?・・・。

梅島 三環子

2007/06/26

えっ、番長ですか…!?
こう見えても、なかなかまじめに生きてきたのですよ。

まじめにまじめに、ずっと『獣医さん』にあこがれていました。
小さい頃から、我が家には犬がいて自分でしゃべることのできない動物のことをわかりたいと思ったのがきっかけかもしれません。
でも、致命的。血が大の苦手の私に解剖などできるはずもなく高校では、教科書を開くのも嫌で生物を選択しなかったほどです。
もちろん獣医になるには、解剖だけじゃなくてたくさんの知識と教養が必要ですが、「獣医は血をみなくてはいけない」と知ったときあっさりこの夢を諦めてしまいました。
でも、こどものときって肝心なことが抜け落ちていたりしますよね。いわゆる、そもそも論。私は、そもそも「血」が全く駄目だったのにこの獣医への夢を5年以上持ち続けていました。

でも、夢っていいですよね。ふと、今の私の夢ってなんだろうと考えてしまいました。目標や課題はたくさんあるけれど、子供のときに持っていたような夢って今の私には何になるのだろうと…。
んー、いつまでも現実離れしていてもいいから壮大な夢を持っていたいと思います。

次は、同じ獣医さんへの夢を持っていたという林アナウンサーです。

2007/06/25

隣の席の金澤アナにそのように言っていただけるなんて。さすがです。見た目はヤングな女の子、中身は『おっさん』あるいは『裏番長』としばしば言われる出射です。
そんな私にもカワイイ時代があったそうです。
母に確認したところ幼稚園の頃の夢はお花屋さんと言っていたようです。
当時お花屋さんはランキングでいうとトップクラスだったような記憶があります。
でも最近の子どもたちはかなり具体的なようで・・・。

ときどきみんなで食事する仲間の中に小学生の女の子がいます。しっかり者でとってもキュートな1年生の女の子です。出会った頃は幼稚園の年長さんでした。
将来の夢を聞くと「ゆかっち!(私のことです)」と答えてくれます。感激!!
ちなみに前は「客室乗務員!」だったそうですが「アナウンサー」ではなくて今は「ゆかっちになりたい」とのこと。
けっして自慢の意味はありません。ただ、それだけきちんとしていないとなぁと改めて思うのです。「ゆかっちでいいの~?」と私。そしてまわりの大人たちは「ゆかっちになるためには勉強しなきゃいけないんだよー。」とか「ゆかっちもピアノ習っていたんだってよ」とか言います(笑)
大人はどうしても方向付けしたくなってしまうのかもしれません。きっと誰にでも、自分にとってよかったことの他に、もっとこうすればよかったと思うこともありますもんね。

思い出してみれば、母の影響で水泳はいつのまにか10年以上続けました。あとは・・・子どものころ父と本屋に行った時なぜか上智大学の赤本を手に持たされた記憶があります(残念ながら上智大学は受験してません)。テレビを見ている時には父が、なぜか出演しているアナウンサーのプロフィールを暗記していて教えてくれました(今思うとちょっとコワイ?父はアナウンサーに詳しいのです)。「勉強して立派になればこのお姉さんみたいになれるんだよ」なんて言われたような気もします・・・。

立派になったかはさておき、その結果現在の私がいるわけです。
そしてそれにより、写真のように、
今月中旬、福岡のテレビ西日本で行われた系列女性アナ研修会に参加でき、
そのおかげで本場でもつ鍋を味わうことができました。美人女性アナのみなさんと「がっつり」もつ鍋を食べました。幸せでした。

続いては、しっかり者の『表番長』梅島アナです。うめこー!

金澤 聡

2007/06/22

今回のテーマは、「子ども頃なりたかったもの」です。

「ジャイアンツの四番」と「若大将」といえば“原辰徳”世代の私は、子どもの頃、プロ野球選手になりたいと思ったこともありました。
そして、アニメは「機動戦士ガンダム」と「キャプテン翼」世代でもある私は、サッカー選手になりたいと思ったこともありました。
「オリンピック」といえば“カール・ルイス”と答える私は、陸上選手になりたいと思ったなど、スポーツ選手に憧れたことが多かったです。

しかし、一番なりたいと思ったのは、お寿司屋さんの「板前さん」でした。
威勢のいい「らっしゃい!」に憧れ、角刈りに憧れ、ねじりはちまきに憧れました。
そして、なによりも、厳つい親方のごつい両手から何であんなに美味しいものが作り出されるのか、その神秘性に憧れました。中学生くらいまでは、普通に『将来はお寿司屋さんで働くんだろうなあ』と考えていました。確か両親にも、『お前の将来はお寿司屋さんで修行することだからな』なんて普通に言われていたように思います。
果たして、人生のどの岐路でお寿司屋さんの道を選択しなかったのかはよく覚えていませんが、もしかすると今頃、「へい、らっしゃい!!」とお客さんを前にして握っていたのかもしれません。

次は、夢見る乙女、出射アナウンサーです。