アナ・ログ

暑い時に食べたいフルーツ

佐藤 拓雄

2025/08/26

暑い時期と言えば、スイカ。
暑くなる少し前、熊本産が出回り始めるとそわそわします。
1個丸ごと買うのは、家族がそこまでスイカ好きでもないので、躊躇しますが、カットされたものは、つい買ってしまいます。カットされていてもやはり熊本産が美味しい。
お隣山形の尾花沢産も美味しい。長男の野球の遠征で山形に行った時には、国道沿いの直売店で買って帰りました。
北海道の真っ黒いスイカ、でんすけも美味でした。
暑い時に限らず、一年中食べたいのが、スイカです。

・・・と、ここまでの話は、全て私ではなく、妻の話でした。スミマセン(笑)
妻はこのように、とにかくスイカ好きですが、私はと言うと、さほどスイカにそそられません。理由ははっきりしています。味は好きなのですが、食べにくい。その一点です。
ベトベトする、汁がこぼれる、そして、種を間違って噛んでしまった時の食感が嫌。しかもその種がどこに潜んでいるか分からないから困ります。
種のないスイカを、赤くて甘いところだけ小さく切り分けてもらえれば、美味しくいただきます。味は好きなのです。
【写真】は、先日父が買ってきてくれた尾花沢産のスイカ。かなり重たくて、それだけでいかにも甘そうでしたが、期待通りでした。私は、種を嚙まないように、慎重に食べました(苦笑)

という私が好きな夏の果物は、桃です。
子どもの頃、父の実家(福島)に行くと、祖母が桃を何個もたくさんむいて、氷と一緒に大きな皿に入れてドサッと出してくれました。これが何と美味しかったことか。
福島が桃の名産地とはいえ、今思えば、とても贅沢なことです。孫のために奮発してくれたのかもしれません。
桃というと、いつも祖母が出してくれたもの、父の実家の風景やにおいまで思い出します。


明日は梅島さんです。

8月8日は「親孝行の日」

佐藤 拓雄

2025/08/13

大学の卒業論文は、「井原西鶴の研究」でした。

実際の中身は、西鶴の作品の一つ「本朝二十不孝」を論じたものです。
この「本朝二十不孝」という作品は、親不孝者の話ばかりを集めた短編集で、中国の「二十四孝」という説話集のパロディと言われています。
本家の「二十四孝」は、文字通り親孝行の話を集めたもの。
その向こうを張って、親不孝話。道徳的な「よい子」の親孝行話ではないからこそ、人間ってこうだよなあ、と何度も頷いてしまいます。

文学研究のほんの入口をかじった程度で言うのはおこがましいですが、私は「文学」とは、「人間とは何か」を問い、描くことだと思っています。
その観点で言えば、西鶴の描いた親不孝者たちは、まさに人間のありようそのもの。今も昔も変わらない人間の姿と、それを見つめる西鶴の鋭さと想像力。300年以上前にこんなことをフィクションとして書いた人がいること自体も面白いというか。

お題の「親孝行」からどんどん逸れてしまいましたが、親孝行の正反対である親不孝の物語が魅力的なのは、人間の本質をズバッと捉えているからなのでしょう。

ちなみに、卒業論文そのものは大した出来ではなく、400字詰め原稿用紙で約200枚と、枚数だけでねじ伏せたようなものですが、大学は卒業できました。卒業証書もあります(笑)

さらに蛇足の私事ですが、その卒論を審査した当時の担当教授からの強い勧めで、今年、夏目漱石に関する論文を書き、審査を経て学会誌に掲載されました。
去年放送した、漱石の手紙に関するニュースの企画を見た恩師から、「このようなことは研究者の誰も調べていない。論文にして形として残した方がいい」と持ち上げられて調子に乗り、上記の卒業論文以来の研究論文執筆となりました。
仕事ではないので、仕事以外の時間に少しずつ進め、執筆には半年かかってしまいました。
素人論文で内容は反省点が目立ちますが、ともかく恩師には恩返しができ、これも一つの「親孝行」だとほっとしています。

【写真】は、東京にある「漱石山房記念館」。漱石が最後に住んでいた自宅の一部を再現した箇所です。

このテーマは私が最後でした。
次は別のお題で、新人の門間陸斗アナウンサーからスタートです。

夏に楽しみなこと

佐藤 拓雄

2025/07/25

若きトランペット奏者・児玉隼人さんのリサイタルを楽しみにしています。明日、7月26日です。

児玉さんは、2009年生まれの16歳。
ちょうど1年前の去年の今頃にも、仙台フィルと共演したのを聴きに行きました。
【写真】はその時のもの(この日はカーテンコールの撮影が許可されていました。ただし、児玉さんはここには写っていません)。
15歳(当時)とは思えない音色と技術。この年齢でなぜこれほどの演奏ができるのか、言葉を選ばずに言えば、理解できません。かと言って、老成しているところは微塵もなく、若さ全開の瑞々しさにあふれています。

私は少しばかりトランペットをやったので、その経験で言えば、トランペットという楽器は、とても難しい楽器(と私は思っています)で、そもそもきれいな音を出すこと自体が、なかなかできるようにならないものです。
と同時に、(一流奏者の)音色は、これほど美しい楽器もないとも思っています。

何度かここにも書きましたが、私は、トランペットで音楽大学を目指して挫折した経験があります。
小学校低学年の頃、父が買ってきたあるトランペットのレコードを聴いて、全身に電流が走ったというか、これだ!と思ったのです。
その時から、トランペットの音色は私の永遠の憧れ。理由などありません。好きだから好きなのです。
好きこそものの上手なれとは言いますが、私の場合、音楽で身を立てようという挑戦に挫折し、残念なことにトランペットは私の中で永遠の心の傷にもなってしまいました。
それでも、楽器を離れて30年以上経った今も、聴くことだけは離れられません。トランペットの音色で「傷」がうずくということはなく、美しい音を聴きたいという欲求が勝りますし、音色を聴けばたちまち至福の時が訪れます。

そんなわけで、明日、児玉隼人さんの音色に酔いしれてきます。

次は飯田さんです。

梅雨の過ごし方

佐藤 拓雄

2025/06/26

きょうから新しいお題、「梅雨の過ごし方」です。

いやこれ、実に難しいお題です。
「梅雨の過ごし方」、特に全くないです。すみません。
梅雨で雨が降ったって仕事に行かなければなりませんし、日常生活はいつも通り。天気が気になるのは確かですが、それは一年中同じことですし。

ですので少々話を変えます。

「梅雨」という言葉、皆さんはどういうアクセントで話しますか?
アクセントというのは、日本語の場合、音の上がり下がり・高低のことです(厳密には「東京式」というようですが、それはひとまず置いておきます)。

この時点で読むのが面倒くさいと思われているだろうなあと思いますが、続けます。

先日、フジ系列のアナウンサーの先輩から、注意喚起の指摘がありました。
「『梅雨』のアクセントは平板のみです」と。
「平板」というのは、専門用語なので忘れていただいても構いませんが、例えば「梅雨が」と言うとすると、「つ」が低くて、「ゆ」「が」が高い(同じ高さ)アクセントになることです。一つ一つの音の高さで示せば、「低高高」。
別の単語で、「豚が」を例に挙げればわかるでしょうか。
「梅雨が」は、この「豚が」と同じアクセントです。
それが、このところ、「梅雨が」を「低高低」で言う人が増えている、というのが先輩からの指摘です。これも別の単語で言えば「犬が」と同じアクセントになってしまっているのです。
確かにそうなんです。私もあれ?と思うことが増えていたところでした。

アナウンサーでない人が、この程度の差を気にしているわけはありませんし、その必要もありませんが、私たちアナウンサーは、アクセントを常に気にしていなければなりません。
というか、何年もアナウンサーをやっていると、気にしなくても常に気になってしまう「職業病」のようなものですが、ともかく、こういう違いをいつも気にしていないと、究極的には言葉が伝わらなくなるからで、アナウンサーがアクセントをなおざりにしたら、それは職業放棄だと私は思っています。

かつての大先輩の中には、アクセント辞典の覚えたページは食べたとかいう伝説のある人や、そこまでではなくても肌身離さず持ち歩いて覚えたとか、アクセントを大切にしていたエピソードをたくさん聞きます。時代にそぐわないと笑わば笑え。でも私は、プロフェッショナルの一つの手本だと思っています。

今はアクセント辞典もアプリ版があり、重たい辞典を持ち歩かなくてもよいうえに、発音も音声が出るという便利な時代ですが、伝説の先輩たちのようにアクセントを常に気にして大切にするアナウンサーが減っているように見えます。

「梅雨」なんて、間違いそうもないアクセントの間違いが増えているというのは、単に言葉の変化ということもできるかもしれませんが、アナウンサーに限っては、職業意識の問題だと言ったら言い過ぎでしょうか。

【写真】は、梅雨の晴れ間の仙台駅。この日は猛暑日寸前という暑さでした。

明日は、西ノ入アナウンサーです。

我が家の冷蔵庫

佐藤 拓雄

2025/06/17

先日、近くに住む父の冷蔵庫が突然故障しました。
父は90歳を超えていますが、一人暮らしでしっかり自炊していますので、冷蔵庫は必需品中の必需品です。
妻が大慌てでインターネットで探してくれ、すぐに購入を手配。便利な世の中で、数日後には新しい冷蔵庫が届き【写真】、故障したものも同時に処分できました。

故障した冷蔵庫はだいぶ古いもので、20年くらい使ったかな、などと話していたのですが、処分する段階になって、そんなものではなかったことが判明。
理由は分かりませんが、亡くなった母が、冷蔵庫の中に購入日を書いたメモを貼っていたというのです。
その日付がなんと「’93.8.28」!・・・32年前!?
1993年と言えば、私が仙台放送に入社した年です。・・・ま、それは冷蔵庫とは関係ありませんが、それにしてもなんという年代物。
父も「国宝級か?」と笑っていました。
ともかく、「国宝」は処分し、今は最新の冷蔵庫が、父の生活を支えています。

父の家の冷蔵庫の話になってしまいましたが、翻ってお題通りの「我が家の冷蔵庫」。
「国宝」には及びませんが、一般的な耐用年数は過ぎているようです。

それでもなんとなく買い替えに動けないのは、えい!と思い切らないと買えない値段であることが大きく、まだ故障せず動いているとなると、もう少し先でもいいかとついつい先延ばしにしてしまうのです。
いざ故障すれば、生活に大きな支障が出ることは、父の例を見るまでもなく明らかなのですが・・・

毎日使う家電製品は、それだけ依存しているのに、買い替えの判断が本当に難しいといつも思います。
我が家では、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、食器洗い機など、日々フル稼働の家電が、どれもそろそろ耐用年数か?という時期に来ていて、そのことを考えると憂鬱です。

明日は高橋咲良アナウンサーです。

懐かしの味

佐藤 拓雄

2025/06/06

子どものころ、毎年端午の節句に合わせて、父方の祖母から「ちまき」が送られてきました。

一口にちまきと言っても、いろいろなタイプがあるようですが、祖母のちまきは、三角で、もち米は白いまま、黄な粉をつけて食べる、というものです。
祖母手作りのもので、笹の香りともち米の食感、つける黄な粉の香ばしさがたまらなく美味しい。誇張ではなく、本当にいくつでも食べられます。

その後、母が作り方を教わり、祖母が亡くなった後も受け継がれていました。
その母も亡くなってしまいましたが、今度は父が一念発起して、わざわざ作り方を白石のほうまで教わりに行き、毎年作ってくれるようになりました。
【写真】は、父が作ったそのちまきです。
祖母、母と受け継がれたものと違わない、私の記憶にしみ込んだ、ちまきです。

ですので、厳密には「ずっと慣れ親しんだ味」であって、「懐かしの味」というのとはちょっと違うかもしれませんが、それでも、どこか郷愁を覚えるのが、このちまきです。

問題は、私たちの代が、作り方を受け継いでいないこと。
毎年のように、父から作り方を聞いておかないと、と思うのですが、実行に移していません。
懐かしむだけになってしまわないようにしないといけないと焦っています。


次は堤アナウンサーです。

修学旅行の思い出

佐藤 拓雄

2025/05/22

今回もひねくれた話になります。

もう40年以上前ですが、忘れもしない中3の時の修学旅行。
私は、各クラスから出す「実行委員」みたいなのをやっていました。
そこで、教師から議題として出されたのが、服装。つまり、私服でいいのか、制服なのか、という話です。
その前年、中2の時は、林間学校で私服でしたので、私は当然「私服で」という意見でしたが、教師たちはどうやら制服を着させたいようなのです。
それならそうと最初から言えばいいのに、生徒たちに選ばせる体をとるところが、いやらしさです。

当時は、「校内暴力の嵐」は一応収まったちょっとあとですが、いわゆる「ツッパリ」という生徒たちがいて、これがまた修学旅行などになると、どういうわけか張り切って、いかにもワルそうな格好をしてくるのが見えているので、教師からすれば、制服を着させておいたほうが管理しやすいわけですよね。
ですが、そういう本音を隠して、いかにも生徒たちの意思で制服を選んだ、とさせたいのが見え見えなのです。

私は、毎年学級委員を務めるようなタイプの生徒でしたが、そういう教師には与したくない、というくらいの意地は持っていたので、かなり抵抗しました。
その議論の中で、教師側が言ったのが、「京都は制服が似合う街だから」。
はああああああ????
何を言っているのでしょうか。開いた口が塞がらないとはこのことです。要するに教師たちには何の理もないわけです。

ところが、です。
世の中というのは恐ろしいもので、そういう教師に迎合する生徒が出てくるんですね。「私もそう思います」って、おいおいお前何言ってんだよ、と言う間もなく、そうなると一気に形成は教師側つまり制服派の意見に傾いてしまい。
結局、制服で、となり、しかも形の上では、「生徒たちが自主的に決めました」ということにされてしまいました。
大人たちのまやかしにねじ伏せられた痛恨の出来事として、40年以上経った今も、思い出すにつけ、悔しくなります。私も相当しつこいですね(笑)

もう一つ言えば、「制服」と言っている、お仕着せのお揃いの服装(こういう言い方もかなり嫌味ですが)、これは、私の中学校では、正式には「標準服」とされていました。あくまで「制服」ではなく、「これがスタンダードです」的な、これまた欺瞞に満ちた呼称です。
学校からの文書など残るものには「標準服」と書いておいて、上述の議論のような時も含め会話の時は、「制服」という教師たち。狡賢く使い分けているのが、中学生である私にもばればれなのに、こういうことをしていたのです。
私服の高校に進んで、制服だ標準服だ私服だと馬鹿々々しい議論をしなくなったのは清々しました。

そしてこれ、今も同じことがあるんですね。ウチの子どもたちの通っていた中学校は、「制服」を「推奨服」と言っていました。「おススメしているだけの服ですよ」ってか?

すみません、毒を吐きすぎましたかね。
ここまで書いておいてなんですが、中学校にはさほど恨みはありません(笑)
でも、世の中には欺瞞に満ちた教師がいるということを知ったのが、中学校の修学旅行であったことは間違いありません。
あ、もちろん、結局制服を着て行った修学旅行でも、それ自体には楽しい思い出もありますよ。

ではこのへんで。

【写真】は、以前「京都駅で」見かけた「ドクターイエロー」です。単に京都駅つながりです。同じ写真を以前にもこのアナ・ログで使っていますが、あしからず。

明日は、伊藤瞳アナウンサーです。

長期休暇があったなら

佐藤 拓雄

2025/04/28

「長期休暇」と言われてまず思いついたのは、2009年、次男が生まれた時に育児休暇を取ったことです。
ただ、何度かここにも書いている私見ですが、「育休」は全く「休暇」ではないです。あくまで私の場合ですが、炊事、洗濯、食料品の買い物、上の子たちの送迎に文字通り明け暮れ、ゆっくり何かをする時間は全くない毎日でした。仕事より大変、と思ったほどで、これを「休暇」と言われたらちょっと違う気がするのです。
法律上は「育児休業」なので、語感的にはそっちの方がまだ合っているかもしれないと思います。

その頃と比べると、男性の育休についての社会全体の考えもだいぶ変わったのかな、と思います。制度としても少しずつ改善されてきているようです。

それはいいのですが、この「男性の育休」文脈で必ずと言っていいほど出てくる単語が、「イクメン」。この言葉が私は当初から好きではありません。
ちょっとうまく言葉にならないのですが、父親だからやってるだけのことを、「カッコイイ」みたいにカテゴライズすることへの反発でしょうか。

国の「イクメンプロジェクト」の中にこんな文章がありました。

「イクメンとは、子育てを楽しみ、自分自身も成長する男性のこと。または、将来そんな人生を送ろうと考えている男性のこと。イクメンがもっと多くなれば、妻である女性の生き方が、子どもたちの可能性が、家族のあり方が大きく変わっていくはず。そして社会全体も、もっと豊かに成長していくはずです。イクメンプロジェクトは、そんなビジョンを掲げて発足しました。」

うーん、違和感ばかりです。

少なくとも、私の育休は、そんな「ビジョンを掲げて」取ったものではなく、単純に、家の中が大変だから。それだけです。
新生児がいて、上に小学生が2人いて、妻は出産直後で、というなかで、どうにかして家族の生活を何とか回していくしかない。目の前のことをやるしかない。
そしてそれは、育休期間だけの話ではなく、子育てが終わるまでずっと続いていくことです。
しかも、楽しいことばかりではありませんし、自分を成長させるために子育てをしているわけでもありません。

私の周りでは、もっと若い後輩世代が次々と親になっていますが、私の知る限り、皆、日々の生活を何とか整えようと、公私のバランスを取りながら、毎日一生懸命やっているように見える人ばかりです。そのなかで「イクメンとして社会を変えよう」などと思っている人は一人もいないように見えます。(いたらすみません。)

男性も育休を取りやすい社会を、というのは全く異論ありませんし、制度はどんどん整えてほしいです。
しかし、家庭、子育て、という本来個人の領域であることを、それが社会を変えていく、社会のためになる、的なトーンはいかがなものか。
というか、なんかいやだな、と思うのです。

「長期休暇があったら」というお題からどんどん離れました。
長期休暇があったらいいに決まっていますが、現実にはないですし、あっても長期旅行に行くほど経済的な余裕はないので、こんなひねくれた話になってしまいました。

あしからず。

【写真】永年勤続休暇の時に行った青森県の三内丸山遺跡。永年勤続休暇といっても休みは私だけなので、家族で旅行というわけにもいかず、JRのフリーパスを使い、数日間、一人で日帰り旅行をしていました。三内丸山遺跡の感動は機会があれば書きます。


続いては、新人の門間陸斗アナウンサーです。

春といえば!

佐藤 拓雄

2025/04/17

春といえば、引っ越しシーズン。

先日、長男の引越しを手伝いました。
その流れの中で、諸事情があり、重たいスーツケースを2つ持ち、一人で東京から関西方面へ移動しなくてはならなくなりました。
ひと言でいえばそれだけですが、これが、非常に大変でした。

まず、最寄り駅まで向かう時に雨。傘を差さなければずぶ濡れになるほどの雨量、かつ、歩く以外に方法がない場所で、ゆるやかな上り坂。傘、スーツケース×2、背中にリュック。5分弱の距離がもうキツいキツい。新幹線の出発時刻も決まっているので、雨がやむのを待つわけにもいかず、進むしか選択肢がないのです。
腕も折れよとばかりに、傘を差さない側の手でスーツケースを2つまとめて引きずり、最寄りの地下鉄駅に、文字通りたどり着きました。

地下鉄はエレベーターがすぐに見つかったので、まだよかったのですが、困ったのは東京駅でした。
とにかく広いのに、エレベーターがなかなか見つかりません。普段は東京駅でエレベーターを使うことはほとんどないので、見当が付きにくいというのもありますが、「階段ばかり時々エスカレーター」という印象。エスカレーターはスーツケース2個持ちでは危なくてとても乗れません。

一人でエレベーターを探しながら、ああ、例えば車いすの人はこういう大変さの中で生活しているのか、「バリアフリー」という言葉は言われて久しいけれど、基本的に、世の中は、多数派であるところの不自由なく移動できる人のためにデザインされているのだな、と痛切に感じました。
子どもが小さい頃、ベビーカーで移動していて、こういう不自由さを感じたこともありましたが、今回ほどの大変な思いをした記憶はありません。
スーツケースを2つ持ったおじさんが、見知らぬ人に「これを持ってもらえますか?」などと助けを求めるのもおかしな話で、自分がそんなことを頼まれたら、何か犯罪に関わるのではないかと訝しく思うはずです。

結局、ある改札で、【写真】の掲示を発見し、その通りに行ったところ、エレベーターがあり、上がったら目の前に新幹線がいました。いやー、助かった・・・と心底ほっとしましたが、今度は降りた先の駅か・・・と憂うつな移動はもうしばらく続いたのでした。

明日は、この4月入社、新人の門間陸斗アナウンサーです。

新生活の思い出

佐藤 拓雄

2025/04/04

進学や就職、引越しなど、これまでの人生で、一体、何回「新生活」があったのだろうと、自分の人生を振り返ってしまいました。
どれもそれぞれに思い出があり、どれも大きな転機で、考えるうち、人生とは「新生活」の繰り返しなのかもしれない、などと哲学めいたことを思いつきました。

さっさと具体的な話に入った方がよさそうですが、私の大きな転機となった「新生活」の一つは、今から36年前(!)、大学入学で仙台へ来たことであるのは間違いありません。
そうでなかったら、仙台で暮らすことはなかったでしょうし、とすると、仙台放送に入ることもなく、妻に出会うこともなく、今の家族はなかったかもしれません。
1989年、平成元年のことです。
仙台の地へ足を踏み下ろしたその一歩は、当時の私にとっては小さいが、私の人生にとっては大きな一歩だ・・・アームストロング船長か!

その仙台で、最初に入った店が、仙台駅前のダイエー仙台店。前回に続いての登場ですが、2月に閉店した、のちのイオン仙台店です。
ここで生活用品をいくつか買って、新生活に備えました。
この時、一緒に来てくれたのは父でした。
先日、父にそのことを覚えているか聞いたところ、はっきり覚えているという答えが返ってきました。仙台に一緒に来たというざっくりした記憶ではなく、ダイエー仙台店のこともはっきり覚えていました。
考えてみれば、第一子を初めて一人暮らしさせた出来事。父親の立場で考えれば、忘れるはずもないことです。私だって、長男と長女のそれぞれの一人暮らし開始は、それぞれに鮮明な記憶があり、親と子にとって、一生忘れ得ない大切な「新生活の思い出」です。
でも、それで真っ先に思い出すのが「ダイエー仙台店」というのは、どうしてでしょうね。人間っておかしいですね。

父とのその話の流れで、当時の父の年齢を考えたら、今の私より少し下でした。
そうか、こういう年齢の時に、父は私を仙台へ送り出したのだな、そして、私が子どもたちを送り出したときの気持ちも思い出しながら、父の当時の心境を思い、また、そうした父との時間は二度と戻らない貴重なものだったことを今さら思い知り、心が温かいような、それでいて少し寂しいような、ちょっと複雑な気持ちになりました。

我が家は、この春、長男と次男が、それぞれ人生の次のステージ「新生活」に進みます。
「新生活」に入るための準備も何かと多く、親もとても忙しいですが、それぞれの「新生活」を親として精いっぱい応援します。(物心両面で(笑))

【写真】は、去年の桜です。今年の桜はまだなので。

このテーマは私が最後でした。
次回からは別のお題で千坂アナウンサーからスタートです。