アナ・ログ

祖父母の思い出

2007/09/11

祖父母との思い出シリーズ、最後は私、イデイです。

さて、写真は祖母ではありません、母です。
学生時代出場したチアリーディングの大会に(大学生の頃はチアやってました)母と祖母で来てくれたのですが、なぜか祖母が撮ってくれた母との写真しかありません・・・。

東京都の父の会社の社宅に住んでいた頃。とにかく小さなマンションで、そこに両親と幼稚園児の私とまだ赤ちゃんだった弟の4人で生活していました。家があまりに狭いということで、父は毎週のように千葉に住む母方の祖父母の家に連れていってくれました。
祖父母の家は一軒家で自宅に比べて部屋も多いし広かったので、かくれんぼをしたり、宝探しをしたり、階段の隙間に足を入れて座って学校ゴッコをしたりしました。祖父にオセロを教わったりもしました。
近くの畑でニラの花を摘んだら手がギョウザのにおいになって、ニラというものを知ったりしました。
私にとって祖父母の家はエキサイティングな場所でした。

でもひとつだけ、どうしても忘れられないことがあります。
幼稚園児の頃、ひとりでトイレに行くのが怖くて、「ママー!」と呼ぶと、やってくるのは祖母。
「おばあちゃまじゃなくてママー!」と叫んでも、「ゆかちゃんなぁに~?」と祖母。
幼心に祖母にトイレにつきあってもらうことに恥ずかしさがあったのですが、何度「ママー!!!」と呼んでも祖母。…なんでなんでしょう。
母がそこまで呼んでも来てくれなかったこともかなり疑問・・・。
でもまぁ考えてみれば、別に幼稚園児が恥ずかしがることもないですし、母の母が祖母なわけですし、祖母でもよかったと思うのですが、でも当時はどうしても母にこだわっていました。
「そうか!ママがおばあちゃまを『ママ』と呼ぶから、私が呼んでも間違えておばあちゃまが来ていたんだ」とずっと思っていたのですが、そんなはずないですよね。
ひさしぶりに、祖母が作ってくれる俵の形のコロッケ食べたいなぁ…。
『アナログ』で思い出話を書くと郷愁が押し寄せてきます。

林 佳緒里

2007/09/10

★写真はうまれたばかりの盲導犬候補の子犬達です★

神奈川県茅ヶ崎市にある実家は、父の祖父母との2世帯住宅です。数メートルの廊下でつながり行き来は自由。子供の頃はそれが何かと好都合でした。

お風呂以外キッチンなどは別だったので夕食時間もそれぞれ。うちは午後7時、祖父母宅は6時。子供にはその1時間がどれだけ大きかったことか。こっそり祖父母の家に行っては、夕飯をつまみ、とはいえ食べる量を加減できるわけもなくすでに満腹に。そしてしまいに自宅の夕飯を食べられずしかられる。この繰り返しでした。
さらに親に怒られそうになれば、廊下を走って移動、何とか大きな雷が落ちる前にセーフ。要領ばかりがよくなっていたかもしれません。

今は核家族化が進み、2世帯住宅も減ってきているようですが、振り返ると祖母は代々伝わる糠床を持ち、鰹節は削り器で、梅干は庭に干す、足踏みミシンで縫い物など古き良き光景を私にたくさん見せてくれていました。その時は当たり前の光景でしたが、今思うと貴重な光景だったんだなと。祖父母がいたからいろんな事のバランスがとれた生活を送れていたんだなと。

祖父は亡くなってしまいましたが、祖母は元気に家を守っています。実家に帰ると85歳になった祖母に会うたびに、私が今こうしていられるのは祖父母の存在も大きかった事を改めて思います。

このテーマのラストは由佳ちゃんです。

2007/09/07

写真は新幹線の新大阪駅ホームでの記念撮影。
今回のテーマに沿うものが何かないかなと実家の母に探してもらいました。左が祖母で右が母、ピースしているのが私で左下が弟です。…かれこれ、何年前でしょう?
私が幼稚園児ということは。。。。ざっと20年以上は前!1985~1987年頃かな。母も祖母も若くてびっくりです。

両親は大阪市出身で当然祖父母は大阪、私たち家族は東京で離れて暮らしていたので写真にある新幹線でよく帰省をしていました。大のおじいちゃんおばあちゃん子だった私はおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしている子達が羨ましかったものです。だからたまに祖母が東京に来たら何とか帰さないように帰さないように必死の抵抗したそうです。

「えりな、おばあちゃん帰るね」
「・・・」
「じゃあね、電車来たから大阪帰るね」
「・・・なのに・・・」
「え?」
「・・・えりな、おばあちゃんのこと好きなのに、好きなのに・・・」

あとはひたすら涙・涙・涙で、おばあちゃん好きなのに、を繰り返したそうです。結果、
「も~わかった!!もう一日泊まるから!」

この作戦で最大3日引き止めたらしいです。
決して「帰らないで」と言わずに。
恐るべし、幼少の頃の私。

でも今できるかと言えば絶対NO!こんな事なかなか言えません。ああ、なぜ大人になったら素直になれないんでしょう。魔性の何とやらになれた…かもしれないのに。なんて。でもそれだけ祖父母が大好きだったのは沢山の愛情を注いでくれていたからなんだなあと感じる最近です。ありがたいですね、愛情って。愛されるにはまず愛情を注ぐことを身をもって教えてくれました。

さてお次の林佳緒里アナウンサー、どうやら私が羨む、逆の環境だったようです!

佐藤 拓雄

2007/09/06

小学3年生の長男が、この夏休み、足しげく、「おじいちゃん」(僕の父)のもとへ通いました。土日と旅行中をのぞき、ほとんど毎日、午前中の1時間を、「おじいちゃん」のところで過ごしていました。
何をしていたかというと、自由研究。長男が、この夏休みの自由研究のテーマとして選んだのが、「佐藤家の歴史」、つまり、自分のルーツを探るということ。「おじいちゃん」が、以前にいろいろ調べていたことを知っていたので、「じゃあ、まずおじいちゃんに聞いてみたら」ということから、こうなったのです。
「おじいちゃん」の調べた分量もかなりのもので、その話をまとめるだけでも相当な内容になることが予想されました。限られた時間でどの程度できるのか、僕としては未知数なところもあったのですが、こちらの予想をはるかに超えた、粘り強い取り組みになりました。…と言ったら、長男と「おじいちゃん」に失礼かな?…ともかく、長男は、毎朝、自分から「おじいちゃん」に電話をかけ、「きょうは何時からできますか?」とアポを取り、時間になると、何をおいても、いそいそと出かけていき、みっちり、「おじいちゃん」の講義を受けてきます。一度だけその様子をのぞいてみたのですが、実に集中して取り組んでいて、「おじいちゃん」とわが子の強い師弟関係(?)に感心してしまいました。
さらには、「おじいちゃん」との、日帰り二人旅で、佐藤家「発祥の地」の実地調査まで敢行。満足げに帰宅した長男は、母親にこう言ったそうです。「僕も孫にこういうことしてあげたいんだ」。
そんな、おじいちゃんと孫の関係を、息子であり親である僕は、なんともうらやましく思います。僕の祖父母は4人とも優しい人たちでしたが、僕の長男ほど近くに住んでいたわけでなかったこともあって、ここまで濃密に過ごした記憶はありません。長男にとって、こうして「おじいちゃん」と過ごした思い出は、何にも代えがたい宝物になることでしょう。うらやましいと同時に、長男と「おじいちゃん」がそのような関係でいられることに心から感謝したいと思っています。

写真は、僕の父方の祖父。僕が10ヶ月の頃のもので、祖父はこのとき70代だったはずですが、こうして毎日仕事に行っていました。現役時代の長い、元気な祖父でした。

次は、原アナウンサーです。

2007/09/05

思い出は、「ピアノ」です。
いつ買ってもらったか覚えてないけれど、3歳の頃には、すでにピアノがありました。
そのピアノこそ、祖父母に買ってもらった大切なものです。

習い事好きの私は、気がついたらピアノを習っていました。
マンションに住んでいた私は、隣のお宅がピアノ教室を開いてたので、週に1回、隣のお宅にお邪魔してはピアノのレッスンを受けていました。
その後、ヤマハ音楽教室にも通い、いろいろな楽器に触れてきました。
3歳から習い始め、15歳まで続けてきました。
さすがに、10年以上習うと、弾きたい曲はなんでも弾けるようになります!
そう思うようになってから、だんだん習うことに抵抗を感じるようになり、辞めてしまいました。

辞めてすぐの頃、ロングバケーションというドラマがヒットして、その中で弾かれていた「close to you~セナのピアノ~」をよく弾いてました。
譜面が読めるって、やっぱりいいです♪

でも、今では全く弾いていないので、弾けなくなってしまいました。弾こうとおもっても、指が動かず・・・。

おじいちゃん、おばあちゃん、また弾けるように頑張ります♪と思いながら、アナログ書きました。

明日は、どんな思い出が出てくるのでしょうか?
拓雄さん、お願いします!!

2007/09/04

クラガノさんとムラノさん。大阪に独りで住むおばあちゃんの話に欠かせない登場人物です。

中学生ぐらいからでしょうか、大阪に遊びに行くと、おばあちゃんは欠かさず2人の話をします。特に変わった話というわけじゃないんです。クラガノさんと舞台に行った、ムラノさんとご飯を食べた。2人と過ごした日々を淡々と語ってくれます。それもご丁寧に1から100まで、移動手段や、移動中あった出来事、2人から聞いた話…と話は枝分かれ、正直何の話をしているのかわからなくなる時もあります。

何より、肝心なことが。クラガノさんとムラノさん、僕知らないんです。もうかれこれ10年ほど2人の話を聞いていますが、お会いしたことも、顔も見たことがありません。それでもおかまいなし、生き生きと語るのが僕のおばあちゃんの強さ。

おばあちゃん、だから僕、その人たち知らないってば…
時折突っ込みたくなることもありますが、普段おばあちゃんは独り暮らし。寂しさを晴らすように、嬉しそうに語る姿を見ると、そっとしてあげようと思って、10年間うんうん頷いています。

そのおばあちゃんも今年で82歳。最近仕切りに「足が痛い」と杖をついて歩いていて少し心配ですが・・・

先日遊びに行った時、トイレに行ったおばあちゃんは戻ってくる時見事に杖を忘れていました。「あ!忘れてもた!」と気付いて取りにいくと思えば、駆け足でトイレに向かっていきました(笑)
さらに散歩をして交差点で信号待ちをしていた時。「どっちに行くんだっけ?」と目的地の方角を尋ねたら、「あっちやで」とおばあちゃん。思いっきり、手に持った杖で方向を示していました(笑)
まだまだ、元気で長生きしてくれそうです。

お次ぎは、水上アナです。

ところで、写真は、林アナとの会食。先日佐藤アナの夏休みの間スーパーニュースのピンチヒッターを務めさせて頂きまして、そのお疲れ様会で焼肉に連れていってくださいました。林さん、お肉に夢中ですね。

2007/09/03

人生80年とは、現代社会の話だが、そういう意味では、うちの祖母は、2人とも人生80年を全うしました。その代わりといったらおかしいが、祖父は、私が全く知らないままにすでに逝ってしまったのでした。ですから、祖父は仏壇の上の長押に飾ってある写真での対面でした。

日本でも近年、注目されているお婆ちゃんがいますね。ターシャ・テューダーさん。1915年ボストン生まれ、92歳になります。50歳代半ばからバーモント州の森の中で、自給自足の生活をひとりで営んでいます。絵本作家であり、ガーデナーであり、料理人でもあります。「ターシャの庭」という写真集には、彼女が夢を叶えた「楽園」を見ることができます。かっこいいお婆ちゃんであり、またきれいなお婆ちゃんでもあり、万能お婆ちゃんであるのです。

そういえば、うちの祖母も、料理は出来る、梅干は上手くつける、裁縫はプロ並み、いやプロだったのでした。それを生業にしていたのでした。要はなんでも出来るし、なんでも知っているスーパーお婆ちゃんと言ってもいいぐらいでしたね。そのお婆ちゃんが毎日どんなことを思って生活していたかは分かりませんが、ターシャ・テューダーは、毎日の生活に感謝し、周りの自然を大切にし、心から生きることを楽しんでいる様子が感じられるといいます。

そんな年寄りになれれば・・・・・

続いては、最年長アナから最年少男子アナへバトンタッチ。板垣アナです。

寺田 早輪子

2007/08/31

 金沢先輩!そう!今回のお話は、「サイダー」が深く関係しています。
 タイトルは、『孫七じいさんは、サイダーがお好き』
私の父方の祖父は「孫七(まごしち)」という名前です。七男ではありません。長男です。若い頃、大工だった孫七じいさん。87歳で亡くなりました。私は、当時、まだ4歳だったので、孫七じいさんの声、話し方…あまり覚えていませんが、いつもニコニコ笑っていた顔、カリカリに痩せた体、つるっつるの頭、そして、大のサイダー好きだったことは覚えています。
 物心つく頃には、家の玄関には、近所の酒屋からケース買いしていた「瓶入りサイダー」が常に置いてありました。そのほとんどを飲んでいたのが、孫七じいさん。
強烈に記憶しているのは、夏の暑い日、食欲のなくなる時期に、孫七じいさんは、サイダーをご飯にかけて、かき込んでいました。まるで、この世で一番美味いものを食べているようなその表情につられ、私も、孫七じいさんに「サイダーかけご飯」を作ってもらっていました。ホカホカのご飯に、シュワシュワの冷た~いサイダー、……はっきり言って、味は……。
 「サイダーかけご飯」を食べているところを、母に見つかると、「そんな訳の分からない食べ方をしちゃ、ダメ!」と怒られていたおじいちゃんと私。
 はっきり言って、味は……。でも、美味しいか、美味しくないかではなく、孫七じいさんだけが食べられる何だか怪しい秘密の食べ物を、こそこそと、母には内緒でおじいちゃんと食べるあの時間が、好きでした。
 今年は暑い夏でしたね。サイダーの美味しい暑さが続きましたが、この夏も、ご飯にサイダーはかけませんでした。( ̄▽ ̄ )
 孫七じいさんの仏壇にサイダーをお供えしたい…。

 続いては、おじいさまのお話でしょうか?おばあさまのお話でしょうか?浅見さま~!

金澤 聡

2007/08/30

どこの家のおばあちゃんもそうなのかもしれないけれど、僕のおばあちゃんは心配性で涙もろい。

学校の登下校で事故に遭っていないかいつも心配してくれたし、学校で賞をもらえば、おばあちゃんはいつも喜んで泣いてくれた。いまでもそうだが、実家に帰ると真っ先に出迎えてくれて帰省の無事を確認しホッとした表情を見せてくれる。そして、何かのパーティでも催されるのでは?というくらいお菓子や果物などたくさん食べ物を出してくれる。あとはひたすら最近あった出来事を僕に教えようと話し続けてくれる。

仙台へ出発の日は、おばあちゃんは必ず涙を流して見送ってくれる。僕の姿が見えなくなるまで泣きながら手を振り続けてくれる。仙台に着いて無事の電話をおばあちゃんにかけると、泣きながら元気で頑張りなさいと言ってくれる。

小さいときは何でこんなに心配するのだろう、なんでこんなに涙をながすのだろうと思っていたが、いまとなってはとてもありがたいこと。
ゲートボールや詩吟の大会で全国行脚、趣味のカラオケ、そして家事にと毎日多忙なスーパーおばあちゃん。
おばあちゃんが泣いて喜んでくれるような報告をたくさんできるよう、また頑張ろうと思う。

次は、この夏サイダーをがぶ飲みした寺田アナウンサーです。

2007/08/29

梅子さんからバトンを渡されまして…そうそう朝ごはんエピソードがあるのですよ。
父方の祖父母とは東京の実家でずっと同居していました。ですから祖父母との交流は毎日ありましたよ。

祖父は、宮城県出身の東北大学卒業生。電気通信を研究していたようで、私が小さい頃自宅にあった研究スペースで実験したり、資料整理をしていた姿が記憶にあります。とにかく学ぶことが大好きな祖父。今でも「学会があるから」といって出かけたり、大学へ講義を聴きに行くようです。

祖母も宮城県出身。広瀬川がすぐ近くにある、という所で生まれ育ったといいます。ハイカラな家だったらしく「小さい頃食べたおやつは?」と聞いたら「メロンパンを食べたことがある」と話していて驚きました…。

さて祖父母の思い出といえば、お泊り。どこかへ旅行に行くのではなく、両親と兄と私は2階に住んでいて、時々1階に住む祖父母の部屋に泊まりに行きました。幼稚園児の私は、同じ我が家なのに寝る場所が変わるだけで新鮮な気持ちでした。でも、実は祖父母と一緒に寝るのは緊張して熟睡できなかった思い出があります。
食事も祖母の細かい注意(食べ方のしつけ)がちょっと怖くて緊張しっぱなしでした。ではなぜお泊りに行くのか?

祖父母の朝食は洋食で、パンにヨーグルト、ジュースがありました。一方、普段の私の朝食は和食が中心。子供ながらに洋食が珍しかったのでしょうね。パンにジャムを塗る、という祖母の仕草がスタイリッシュに見えましたもの。今でも2人は、毎朝洋食を食べて元気に暮らしています。
「和食から洋食まで、まんべんなく食べる」
これが2人の元気の秘訣のようです♪

さてお次は金澤アナ。おばあちゃんっ子だったそうですよ。

梅島 三環子

2007/08/28

敬老の日も近いということで、アナログテーマは今回から「祖父母の思い出」。
みなさん、どんな思い出が出てくるのでしょうか?

私の思い出は、ずばり「ロープ」です。祖父母の家はロープ屋さん。自営業なので、母親もそこで働いていました。だから、夏休みや学校帰りはお店に寄って遊んだりしていたんです。
遊び道具は、もっぱら祖父手作りのロープの縄跳び。市販のよく使われているビニールのものよりも、手のなじみが良くバランスもとりやすいのです。まあ、何より手作りですから祖父の思いがこもっていたのかもしれませんね。
そしてロープの倉庫で探検ごっこもしました。脚立によじ登って遊んだりもしました。お店には、子供の頃は不思議で気になるものばかりでしたが、「危ないからさわっちゃだめ」とよく怒られていました。
最近は、お店に顔を出していないなぁ…と思い。今年は、スポーツの秋に縄跳びでも再開しようかなぁなんて考えているこのごろです。

写真は、ムービンのスタジオです。こんな感じでアナログ用の写真を撮ったりしています。

次は早坂アナウンサー
朝ごはんでも思い出があるようですよ。