アナ・ログ

あの日あの時一番役立った物は?

林 佳緒里

2012/02/01

今日から2月です。あっという間に新しい年も一ヶ月がたちました。

来月11日は、東日本大震災から1年です。本当に、月日が経つのは早いといいますか…。いろいろ考えさせられます。

私は震災の被害が大きかった地域に取材に伺うたびに、あらためて震災のことを考えさせられる場面に多く直面します。一方で、自分の震災時の自宅のライフラインを思い起こしてみると、1週間前後で回復し、みなさんのご苦労を考えると、恵まれていたといわざるを得ません。

そんな中でも、私達家族というよりも、他の人の役に立ったものがありました。「カセットコンロ」です。カセットボンベの予備も常備していたたため、ガスが復旧しない友人宅の役にたちました。

普段はガスを使わない我が家ですが、鍋をする時だけはそのカセットコンロを使います。だから、特に寒さが厳しいこの時期は、コンロの出番も多く、そのたびに、その時の痕跡といいますか、友人宅でどれだけ役にたったのか?使用頻度が高かったであろうことを示す、噴きこぼし痕を確認し、震災を思いだすきっかけになっています。

震災の時に役立ったものは、皆さんそれぞれだったとは思いますが、防災用品の備えに対する考え方が変わった方は、多かったのではないでしょうか?

明日からは、新テーマ「もうすぐ春ですね」。
ななちゃん、よろしくお願いします。

飯田 菜奈

2012/01/31

地元の神社に初詣に行った際、「身まもり笛」というものを見つけました。緊急時、助けを求めたくても肉声では相手に聞こえないという状況では、きっと笛が役立ちますよね。
映画「タイタニック」のワンシーンの影響を受けすぎかもしれませんが…笑

その上、これは笛だけではなく“お守り”も付いているので、身の危険にさらされた時に本当に私のことを守ってくれそうな気がします。でもその前に、笛で助けを呼ばなくてはいけないような場面に遭遇しないで生きていけることを願いたいですが…。

さて、東日本大震災が発生したあの日一番役に立ったものは、“たまたまかばんの中に入れていた食料”です。
アナログ内で何度も書きましたが、私は津波から避難した先で、一夜を明かしました。一歩も外へ出られない状況で、時間だけが一刻一刻と経過し、この先どうなるのかわからない…。そんな状況で、とにかく生きるために必要になってくるのは“食べ物”と“飲み物”でした。その二つが手に入らないと、人間は不安で不安でたまらなくなる…というのも実体験から感じたことです。

だからといって、どこに行く時もおにぎりや菓子パンと、水とお茶と…を持ち歩くべき!とは言いません。私も、あの時はちょっとしたお菓子とのど飴しか持っていませんでした。

クッキーでも、チョコレートでも、飴やガムでも、何かちょっとつまめるものをかばんに忍ばせておくと、いざというときに空腹をしのげると思います。そして精神的にも、少し落ち着けると思います。あまりかさばらず、かばんが重たくならない程度に…。

明日は、林アナウンサーです。

2012/01/30

1・17は阪神淡路大震災から17年になりますね。今年の追悼行事には、東日本大震災の被災者も参加して黙祷を捧げました。

さて、「お題」ですね。
その前に、一番失敗したことは、地震直後は水道がまだ出ていたもので、大丈夫だと思ったのか?風呂の水を流してしまったそうです。直ぐに断水、まずは大事なのは水ですね。
でも、その水を入れる飲料水用のポリタンクが2つほど常備してありましたので、あの時、一番役立ったのは、これですかね。

ペットボトルを調達できたのも助かりました。
ストック用の食品も常備してあり、これも助かりました。探したら出てきたものもありますが…
カセットガスボンベもいくつかあり、これも助かりました。お湯が沸かせます。

寒さ対策としては、湯タンポ、カイロ。これも助かりました。
段ボールで簡易トイレも作りました。

そんな中、数日で電気が復旧し、水も徐々に確保できるようになりました。

要は、「非常用品の備え」これに付きます。

飯田アナは備えしていますか?

2012/01/27

震災後、私は1週間ほど車の中に泊り込んで取材をしていました。
車内の後部座席で眠るのは大変なようで、実はそうでもなく、苦痛に思うことは1度もありませんでした。
その後、内陸部で宿がとれるようになってからは、夜はホテルや民宿に泊まるようになりました。

キレイなビジネスホテルに泊まれるようになって嬉しかったですが、なんと枕が合わず首を痛めました。車中泊に耐え抜いた私の右肩は、ホテルに移ったとたん上がらなくなりました。ニュースの中継の最中も首が回りません。

そんなわけで、一時帰宅した時には自前の枕を持っていきました。
私の枕は、神奈川県・相模原にある枕研究所で作った特性枕です。その人の体格に合わせて最も睡眠に適した枕をオーダーメイドで作ってくれる研究所で、予約してから半年以上かかって、やっと作ることができた枕です。

荷物になるのを覚悟で持って行った枕でしたが、効果は絶大。震災から1ヶ月となる4月11日に行った4回の中継を何とか乗り切ることができました。
枕を持ち込んで取材をしていたアナウンサーは、日本中で私一人だったのではないでしょうか。

続いては浅見さんです。

柳沢 剛

2012/01/26

今でも、ヘリコプターから見た震災直後の風景がふとした時に思い出されます…。絶望感と虚無感、そして言いようのない胸のもやもやと一緒に…。
 
震災で全てを失ってしまった方には申し訳ないとは思いつつ…
いつかどこかの地区でまた大きな地震が起き、ライフラインが寸断された時、少しでも参考になり、役に立てばと思い、今回各アナウンサーに「あの日あの時一番役に立った物」を書いてもらっています。

年齢・家族形態・マンションか一軒家か・居住場所等々それぞれ違う状況での体験からの話です。

私自身今思い出してみると…
非常食・飲料水・ポリタンク・懐中電灯・卓上コンロ・予備のガスボンベ・携帯電話・ワンセグ・昔ながらの石油ストーブ・使い捨てカイロ・ウエットティッシュ・etc
役に立った物が沢山あります。

そして、県内外の友人からカップラーメンや缶詰・レトルト食品など沢山の物を送って頂きました。
持つべきものは友!心の底からそう思いました。
ご近所の皆さんにもいろいろ助けて頂きました。
感謝!感謝!
人と人とのつながり、思いやりがこれほどうれしかった事はありません。
年輩の方から様々なアドバイスも頂きました。
冷蔵庫の中の物は、クーラーボックスに入れ、日の当らない北側の外に保存。一番上には保冷剤と冷凍庫の氷をビニール袋に入れ・・・。
魚や肉などの生ものは、干物や燻製に!
10年以上前、子供が小さい頃に使ったキャンプ用品が
役立ちました。
そんな中、一番印象に残っているのは、ランタンです。(写真)
(カセットコンロのボンベはすぐに売り切れてしまいましたが、このボンベは比較的残っておりました。)
震災当初は会社にほとんどいましたが、3日目の夜に家族全員がやっと集合。リビングでこのランタンを囲みました。普段はそれぞれの部屋で過ごすことが多くなった3人の子供たちも震災後はリビングで生活。
この炎は、部屋を暖め、それぞれの顔を照らしました。
電気・ガス・水道がない生活を初めて体験する3人の子供の顔が、日を追うごとにたくましく見えました。そしてそれぞれが無事でいたことに対する感謝の気持ちがこみ上げてきたことを思い出します。

備えあれば憂いなし。もう一度備蓄品をチェックし直そうと思う今日この頃です。

次は、広瀬アナウンサーです。

梅島 三環子

2012/01/25

2・3泊くらいの旅行に使えそうな、キャリーケースです。

震災発生直後、スーパーがなかなか開かず困った方もたくさんいらっしゃると思います。
段々と流通が回復していったのに合わせ、少しずつ店は営業を再開していったものの、長蛇の列がオープン前から続く状況。しかも、待って待って…ようやく中に入ってもほとんど物がありません。

家に、食べ物のストックをまるでしていない私は、休みの日、丸1日かけて食材やら飲料などを買い集めることが多くなりました。

そこで役立ったのが、キャリーケースです。「ガラガラ」と愛称をつけ、一緒に町中を歩きました。
この店では、玉ねぎはあるが長ネギが無い…。
今まで通ったことも無い道を通り、何軒も何軒もガラガラと“売っていそうな店”をはしごをしました。
一方で、白菜が欲しいけど、1玉単位しか売ってくれない。
豆腐も3丁で1組など…
自分の好きな分量での買い物はできず、持ちきれないものをガラガラに詰めて、買い物をしました。

家から全て歩きのため、1回出かけると、4~5時間は引きずりまわされ、まさに酷使され続けたガラガラ。
普段使うスーパーが、普段どおりに営業するまでもってくれれば…
と願っていましたが、予想を反し未だに健在。ありがたいことです。

デコボコ道に強いとされる2輪キャスターが功を奏したのか…このキャリーケースには大変助けられました。

以上、これが私の役立ったものでした。

次は、柳沢アナウンサーの役立ったものです。

佐藤 拓雄

2012/01/24

あの地震発生時、私の一家5人は、ばらばらの場所にいました。

私は仙台放送の社内、妻と当時1歳7ヶ月の次男は自宅、長男(当時小6)と長女(当時小4)が学校。

私は、当然、第一報から緊急放送に入りましたが、やはり気がかりは家族のことでした。
学校にいるはずの長男長女はどうしているのか、妻と次男はどこにいるのか。
そもそも皆無事なのか。
仙台に住んでいる、私と妻の親の安否も気がかりです。

気がかりだらけ、不安だらけの中、その不安がさらに募るような、甚大な被害の情報が次々に入ってきます。
そして、私はその場でそれを伝え続けるしかありません。
もちろん、みんな同じです。
仙台放送でも、発生直後は、誰もが、家族の安否が確認できないまま、緊急放送にあたっていました。

そんな中、夕方6時ごろだったでしょうか。
携帯電話のメールに、「災害伝言版」からの知らせが届きました。
「全員無事です。家にいます。○○(長男)と○○(長女)は学校で、これから迎えに行きます」
というような内容。妻が地震直後に書きこんでくれたものでした。

どれほど安心したことか。
通信の混乱の中で、書き込んだ時刻と、届いた時刻には、タイムラグがありましたが、正直、当日の夜前に、家族の安否が確認できたことで、私はその後の仕事に集中できました。
そうでなかったら、どうなっていただろう、と今も思います。

災害を伝えるのは、私たち放送局の使命。その放送を仕事にしている以上、このような緊急事態では、家族の安否が不明でも、自分の使命を果たすべく、目の前の仕事に全力で取り組まなければならない・・・と頭では理解していますが、私も弱い人間です。冷静を保つこともできず、家族を捜しに行きたくなって、仕事どころではなくなってしまったのではないか・・・

結果としては、「れば・たら」の話ですし、私は、ほんの数時間、家族の安否が分からないだけですみました。
これが何日も安否が確認できなかった人や、孤立状態でまったく連絡が途絶した人は、一体どれほどの気持ちだったのでしょう。
そして、そんな人が、あの日、県内だけでも何十万人といたのです。

弱い私を、あの日救ってくれたものの一つが、「災害伝言版」でした。

次は、「スーパーニュース」を一緒にやっている梅島アナウンサーです。

寺田 早輪子

2012/01/23

 3月11日の震災では、仙台市青葉区にある仙台放送4階のニューススタジオも、天井のセットが、下にあるキャスター席の方へ崩れたりと、被害が出ました。
余震でさらに崩れる危険があったため、ニューススタジオは立ち入り禁止に…。

 代わって、スタジオ隣の「報道センター」に、臨時に、カメラ、マイクを設置してニューススタジオを設営しました。そこは、普段、アナウンサーがニュース原稿の下読みをする席です。

 大地震の直後、3月11日の日中は、そこから、私と佐藤拓雄アナウンサーが交代でニュースを伝えていました。
目の前には、カメラ一台。マイク一本だけ。
生放送をするのに「テレビモニター」がありませんでした。

 普段のニューススタジオならば、カメラが3台あって、その下にモニターが常設されています。
しかし、臨時設営のそのキャスター席には、「今、放送でどんな映像が流れているのか?」をチェックするモニターがなかったのです。
 
しかし、大地震直後は入ってくる情報がほとんどありませんでした。つまり「原稿」がない…。

「何とか、映像を見ながら、被害状況を伝えることはできないか?!」
 
 その時、拓雄アナが取り出したのが『ワンセグTV』。
私たちは、情報カメラなどが映し出す「生」の映像を見ながら、街の被害の様子を話すことが出来たのです。

 
 3月11日。東北では停電が長く続き、「テレビは見られなかった」というご家庭がほとんどでした。
そんな中、「充電が切れるまでではあったが、携帯電話のワンセグでテレビをずっと見ていた」という声も聞かれました。

 テレビ局の中にいても、震災時、役に立ったワンセグ。あの日以来、携帯の充電は常に『FULL』にしておくよう心がけています。

 続いては、あの日、「ワンセグ」を使うアイデアをくださった拓雄アナウンサーです!
ありがとうございました!

稲垣 龍太郎

2012/01/20

2011年3月11日。東日本大震災が発生したとき、
私は仙台放送の社屋で研修を受けていました。
しかし、未曾有の出来事の発生に6日目に研修が中断になり、
実家のある大阪に一旦戻ることになりました。
仙台から山形、鶴岡、新潟を経由して戻るルートは見つかったものの、
移動中に食料を確保できるのかもわからず・・・。

出発する前、引越しが完了したばかりの家の中で、
ひたすら食料を探しました・・・。
ですが、そこは男の一人暮らし。
しかも引っ越しが完了したばかり。
十分な食料は置いてありませんでしたが、
そんな中で唯一見つかったのが「シーチキン」。

自宅にあった缶詰のシーチキン2缶をバッグに詰め込み、家を出たのでした。
乗り継ぎの間隔が短く、途中で店にも寄れず、新潟についた頃は深夜11時ごろでした。
開いているお店も発見できず、空腹状態で大阪行きの寝台列車に乗りました。
ガタンゴトンと揺れるベッドの中で、シーチキン2缶をあっという間に完食しました。
シーチキンの油まで飲み干したのは、後にも先にも、この時だけです。

あの日以来、私は自宅には常に、カップラーメンやスナック菓子など、いざという時のための保存食を置いておくようになりました。

次は、寺田さんです。

金澤 聡

2012/01/19

今回のテーマは、「あの日あの時、一番役立った物は?」です。


私にとってのあの日は、あの震災の時です。

地震の大きな揺れで、マンションの給水タンクが傾いてしまい、加えて停電したため長期間に渡って断水してしまいました。
困ったのは飲料水もそうなのですが、トイレの水も苦労しました。

私が住んでいるのは8階。もちろんエレベーターは稼働していなかったので、近くの公園の水を汲んでは階段でポリタンクを持って何往復もしなくてはいけません。これは相当難儀なことでした。
ですから、私の場合、当時を思い出すと『役立った物』というよりは、『そうしていれば相当役に立ったであろう物』になるのですが、「風呂の水」です。
震災前までは、風呂の水は午前中に洗濯水に使用するとすぐに流してしまっていましたが、震災後は、風呂に入る直前まで流さず貯めておいて、緊急用にとっておくことにしました。
この時季ですと水道管の凍結などで供給されなくなる場合も想定して、「風呂の水」を貯めています。

甚大な被害を受けた方には、瑣末な例で大変恐縮ですが、想定外のことがまたいつ起こるかは誰も予測ができませんので、小さいことからでも備えをしておこうと思っています。

次は、稲垣アナウンサーです。