2012/03/13
先日、報道フロアで作業をしていた所、あるモニタに地震速報・震度7の文字が。
全く揺れを感じなかったため不思議に思ったところ、発災当時のONエアVTRでした。
当時、私は東京出張中でした。
フジテレビのフロアでテレビを観ていましたが、ほとんどが関東の映像。
その瞬間がどのような様子で仙台放送がどんな放送をしていたのか、当時は知ることができませんでした。
その後銀座の東京支社に移り、夜には都心と逆方向に向かって45分かけて徒歩で実家へ帰宅。
「帰宅困難者ばかりで東京は大変だ」と思ったのが、震災の第一印象。さらに“東京タワーの先が折れた”というニュースに、日本の心まで折られたと感じた初日の夜でした。
翌朝、東京を出発。その道中、自衛隊や消防などの救急車両の数に驚き、ちょうど福島・二本松を通りかかった時に原発が爆発。16時間くらいかけて仙台に到着した頃にはすでにヘトヘト。
これだけでも大変な思いをしたつもりでいましたが、被災地に到着し実際に被害に遭われた方々とお会いすると、その思いは改めなければならないと大いに反省しました。
その後、気仙沼や南三陸町から中継を繰り返すことになります。
現場で動き回ることで、現地の雰囲気や現況は肌感覚で感じられます。
一方、その他の情報には疎くなり、事態の全容までは把握しづらいという一面もあります。
そのことに加え、上にも記した通り私自身は被災していないという思い。
そんな私が、全国に向けて宮城県全体の被害を伝えるという役割を全うできていたのか…
もちろんそうでなければならないのですが、当時も今でもそして今後も、そこで胸を張れることはありません。
もうすぐ1年。
どんなに思いを馳せても、被災された方々の気持ちを真に理解できる日は訪れないと思います。
それでも今後、自分が果たすべきこととは。。
心を痛めた方々に対し、自分なりの表現で明るさと楽しさを感じて頂くこと。そして、前を向いて、ともに歩むこと。
それが“皆が笑顔になれる魔法の箱”、テレビの使命なのではないか。
そんなことを考えた1年でした。意外と大学生の頃に抱いていた、原点に戻っていたりします。さぁ、私もリスタート。良いことが続くよう、頑張ります。
次は稲垣君です。