アナ・ログ

ともに(3)

飯田 菜奈

2012/03/28

3月11日。
皆さんは、どのように過ごしましたか。

テレビでは連日、震災当時や直後の映像が流れていましたが、正直、見るのがつらく感じたという方も多かったのではないでしょうか。

震災からちょうど1年。
大切な人と一緒に過ごした人、いつもと変わらない日曜日を過ごした人、各地で行われたイベントにお客さんとして見に行った人、出演した人。仕事をしていた人。心のどこかで震災のことを考えながら、思い思いに過ごしたことと思います。

私は、報道の取材班と一緒に仙台市の慰霊祭に行きました。その後、勾当台公園で行われたキャンドルナイトにも取材に行きました。

日が暮れるとともに、気温が下がり、小雨の降る中、あたたかみのあるキャンドルが並べられ、『ありがとう』の文字が浮かびあがりました。写真はそのとき撮ったものです。

東日本大震災。多くのものを、私たちから奪いました。でもその一方で、人は一人では生きていけないと強く思い知りました。
いろんな人に助けられて、助け合いながら1年を過ごしてきたと思います。

心配してくれた人、物資を送ってくれた人、炊き出しをしてくれた人、心の支えになってくれた人、泣きたいときに肩を貸してくれた人・・・
これから先何年経っても、感謝の気持ちを忘れることなく、3月11日を迎えたいと思います。

これまで、3回にわたって【ともに】というテーマでアナログを書いてきましたが、明日からは新テーマとなります。トップバッターは、柳沢部長です。

寺田 早輪子

2012/03/28

生まれました!
やっと生まれました!

予定日より一週間遅れて、無事に、男の子を出産しました。

分娩室に入ってからは一時間ほどの「安産」でしたが、前々日の夜から陣痛に苦しめられました。

初めてのお産に、初めての陣痛。我が子を取り上げてくれた助産師さんは「朝までには生まれますよ」「次に息んだら生まれますよ」と、私に「目標」を示しながら、励ましてくれました。冷静な彼女がいたから、我が子は元気に生まれてくれたと感じています。本当にありがとうございます。

私ひとりの力では産み出せなかった命。
夫も、始めは出産に立ち会わない予定でしたが、あまりに苦しむ私を見て、結局、立ち会ってくれました。

まわりの人たちに助けられて生きていることを、改めて思い知らされた「初めての出産」でした。

どうか、我が子もたくさんの人に支えられ、そして、一人でも多くの人を助けられる、そんな男の子に育ってほしいと願います。

あ、また我が子が泣いてます。おっぱいの時間です。

「アナログ」、続いては飯田アナです!

佐藤 拓雄

2012/03/27

このたび、「FNSアナウンス大賞」という賞をいただきました。
フジテレビ系列のアナウンサーを毎年表彰するものですが、「大賞」の受賞は、私にとっては初めてです。
先日、表彰式がありました。

大賞をいただいた放送は、震災直後の3月12日夜、東京のスタジオとやりとりしながら宮城の被害を伝えたものです。大惨事を伝えた内容だけに、「大賞」と言われても、私の気持ちは複雑で、喜んでいられるような心境ではありません。

それでも、あの時の放送が、一定の評価を受けたことは、私たち仙台放送が、あの震災を伝える中で、少しでも使命・責任を果たすことができたということかもしれない、とも思います。

思えば、あの日、私たち仙台放送も、地震と津波で大きな被害を受けました。

社内では、物が散乱し、ニューススタジオのセットは倒れかかり、スタジオが使えなくなりました。

沿岸部の情報カメラは、女川、気仙沼、仙台空港と、それぞれ津波の第一波をかろうじて捉えましたが、その後、電源喪失など、様々な原因で映像を送れなくなりました。

最も痛かったのは、ヘリコプターの被害です。地震で格納庫のシャッターと衝突したヘリコプターは、点検のため、外に出したところで、津波に襲われ、600メートルも流され、全損しました。

沿岸部の支局の記者たちは、津波の真っ只中で孤独な取材を続けていました。しかし、連絡もなかなか取れず、撮影した映像を送ることもできません。数日間、高台で孤立状態になった記者もいました。

伝える側の私たちも、被災者でした。

そんななかで、私たちは、この宮城のテレビ局として、なんとか使命を果たしたい、宮城の人たちの役に立ちたい、そのために何ができるのか、模索を続けながら放送にあたってきました。
そして、その思いを凝縮した言葉が、私たちのキャッチフレーズ「ともに」です。

ともに手を携え、ともにこの大災害から立ち直っていきたい、という思いを胸に、最後の一人が復興したと言えるまで、復興の道筋を伝え続けていくこと。
これが私たちの使命だと肝に銘じ、これからも震災と向き合っていきます。

次は、無事出産を終えた(!)寺田アナウンサーです。

梅島 三環子

2012/03/26

先週19日、南気仙沼小学校の卒業式へ取材に行ってきました。南気仙沼小学校は、この春から気仙沼小学校に統合されるため、この日は45年の歴史に幕を閉じる最後の卒業式となりました。
小学校は、もともとの校舎が津波で使えなくなり、震災以降は、気仙沼小学校を間借りして学校生活を送ってきました。
学校が被災したということで、近くにある児童達の家も多くが被災。350人いた児童のうち150人が転校を余儀なくされました。

写真の鐘は、「友情の鐘」というもので南気仙沼小学校の卒業生が、卒業式の日に1度だけ鳴らすという代々受け継がれた伝統の鐘です。
1度は海水に浸かり、さび付いてしまいましたが、卒業式のこの日に合わせ、元の校舎から曲がり先に移されました。最後の卒業式にも伝統はしっかりと受け継がれたわけです。

さび付いて、お世辞にもキレイな鐘とはいえませんが
鐘の音は本当に美しくよく響いていたのが印象的でした。

私にも経験がありますが、母校がなくなるということは、誰にとっても寂しいものです。まして、震災によって突然統合が決まってしまったら…
卒業生、在校生の悔しさは計り知れないものがあります。
でも、卒業式の日…児童が教えてくれました。
「南小はなくなっても、南小で培ったことは消えないし
南小の卒業生ということを誇りにして中学校に進みたい」と。

これから、形として残る南小は数少ないかも知れませんがこの鐘だけは心の拠り所としても大切にされていってほしいと心から思いました。

明日は、拓雄アナウンサーです。

2012/03/23

震災以降、東北の力になろうと、日本全国、さらには世界中から多くの人が支援の手を差し伸べて下さりました。

そして、先日は利府町で開かれた“みちのく合衆国”には、東京・フジテレビの番組“めざましテレビ”や“ピカルの定理”“THE MANZAI”のメンバー、そして多くのアーティスト達が駆けつけて下さいました。

“めざましライブ”の会場となった積水ハイムスーパーアリーナは人で一杯。“THE MANZAI”では2階席まで埋まったお客さんの笑い声に包まれました。
会場の隣では全国のB級ご当地グルメ“B-1ブランプリ”とコラボしたブースが並び、沢山の行列ができていました。
さらにお笑い芸人のトミドコロさんの春のハグ祭りに、高橋真麻アナの春の歌祭り。
これだけ沢山の笑顔と出会えたのは久しぶりでした。

いま日本中が東北の力になりたいという思いでいます。
私のように震災の影響がなかった人にとって、被災された方の思いを理解することは難しいと分かりつつも、できることはないだろうか。
その一つが、少しでも笑顔になって頂けないかという気持ちだと思います。
本当に苦労している方々がこの日どれだけ足を運べたかは分かりません。
迷惑と思われるかも知れません。
一人でも多くの笑顔が戻ることを世界中が祈っています。

次は梅島さんです。

金澤 聡

2012/03/22

サッカーJ1リーグが開幕しました。
ベガルタ仙台は昨シーズン、被災地東北・宮城の「希望の光」になろうと奮起し、堅牢な守備を盾に球団最高位の4位を記録。ベガとアルタイルに由来するチーム名のごとく、まさに復興の星ともなりました。

迎えた2012年シーズン、ベガルタ仙台の手倉森誠監督は「復興元年」と位置づけ開幕。ホーム、ユアテックスタジアム仙台で、J最多優勝を誇る鹿島アントラーズと対戦。あの震災からおよそ1年経った3月10日に、被災地チーム同士で幕開けゲームを戦いました。

ベガルタの選手たち、そして、岩手出身のアントラーズ・小笠原選手も「ともに被災地チーム同士で、どっちも勝たせたい」と話していました。

ただ、選手ひとりひとりの戦いを見れば、勝負に関係なく『思い』を伝えられたのではないでしょうか。

ベガルタの開幕スタメンには、東北被災地出身の選手はいません。しかし、第二の故郷のためにと本気で立ち上がり、復興をモチベーションに戦うチームが果たして勝利という結果を出しました。

手倉森監督は、『我々には責任がある』と常に言います。翻って、自分は…。責任ある復興元年、これを胸に刻みたいと強く思ったベガルタの開幕戦でした。

次は、広瀬アナウンサーです。

稲垣 龍太郎

2012/03/21

東日本大震災から1年となる3月11日、私は先輩の報道記者に同行して、東松島市野蒜の集中捜索の現場に行きました。

海岸沿いでは、警察や機動隊の方々がスコップや棒を使い、足場の悪い岩場を捜索されていて、岩の隙間を覗き込んだりしながら遺留品がないか、入念に確認していました。

陸地の方に目を向けると、入り口と土台だけが残っている神社など震災の爪痕が多く残っていました。

県によると、東松島市では3月7日時点で、58人の方が行方不明となっています。今回の捜索は、家族から要請のあった場所を中心に行われたということです。
海岸沿いでは礼服を着て、海を見つめていらっしゃる方もいました。
一人でも多くの方が、一日でも早くご家族のもとに帰れることを心よりお祈り申し上げます。

次は金澤さんの「ともにIII」です。

林 佳緒里

2012/03/19

3月11日、私は東松島市内で取材をさせていただきました。
1年前から取材させていただいていた「青い鯉のぼりプロジェクト」です。(写真)
震災で亡くなった弟の供養のため、大好きだった青い鯉のぼりを空高く泳がせようと始まったプロジェクトで、震災から1年となったこの日、再び青い鯉のぼりが泳ぎました。

プロジェクトを進めてきたのが、この春、高校を卒業したお兄さんです。
同じように家族を失った方たちにむけて「この1年間を乗り越えられたのですから、復興にむけても進めると思います。ともに進みましょう」と、心強い言葉を残してくれました。とても印象的な瞬間でした。
皆さんはどんな1年を迎えられましたか?

さて、この場をおかりしてご報告があります。
私事ではありますが、今、2人目の子供がお腹にいます。4月末に出産を予定していて、明日から1年間ほどお休みをいただくことになりました。

今回の震災では、数え切れない命が一瞬のうちに失われました。命の尊さ、はかなさ、命についてこれほどまでに考えさせられ、教えられたことはなかったように思えます。

この時期に、宮城で宿した命、運命的なものも感じます。長男はもちろん、まもなく産まれてくる命を、どんなことがあろうと守り、命をつないでいきたいと思います。

アナウンサーという仕事からは少しはなれますが、しばらくは妻、母親に専念しながら、宮城、そして1人1人の心の復興にむけて、皆さんとともに歩んでいけたらと思います。これからもよろしくお願いいたします。

次は稲垣君です。私も、産まれてくる子供も、そして稲垣君もみんな辰年です。

2012/03/16

3.11の前日の10日、サッカーJリーグ・ディビジョン1が開幕しました。ベガルタ仙台はホームタウンでの開幕戦になりました。仙台 vs 鹿島という被災地にチームがある同士の開幕カードでした。昨シーズンから「ともに前へ」を掲げて戦ったベガルタ、今シーズンの開幕戦も気持ちが入った、勇気を与えてくれた試合でした。
翌11日の午前9時過ぎ、名古屋の地では、女子マラソンのオリンピック最終選考レースがスタートしました。何といっても4年ぶりにレースに復帰した野口みずき選手が注目でした。一時は先頭集団から150メートルの遅れをとりましたが、30キロ地点付近でまた先頭に追いつき、粘りの走りを見せてくれました。
レース後の会見で野口選手は「諦めないことを被災者に届けたかった」といいます。
オリンピック代表には選ばれませんでしたが、十分に被災地に届いた走りでしたし、本人にとっても手ごたえを掴んだレースになったと思います。

スポーツ界でも決してあの日を忘れていません。また日本中、世界中で3.11を追悼するイベント、支援するイベントが開かれました。被災地に住むものとして感謝します。

午後2時46分が近づくにつれ、何か胸が締め付けられるような恐怖感も感じましたが…
家族を亡くした方の気持ちを考えると、何と申し上げていいのか分かりません。

「元の町に戻って欲しい」
「本当の笑顔がみたい」
こんなことを祈りながら、見守りたいですね。

柳沢 剛

2012/03/15

震災から1年が経ちました…「ともに」をテーマに綴るアナ・ログ今日から3巡目です。

先日、あの日からほぼ1年ぶりにヘリコプターに乗り宮城県沿岸をリポートしました。
空から見た被災地…
変わったところ、全く変わっていないところ…。
一年と言う月日を考えると、複雑な気持ちになります…。

建築制限はいつまで続き…そしてその後はどうなるのか?
リアス式海岸が続く宮城県北部の沿岸部は海岸線沿いの低地に家並みが続き、高台に小中学校や公民館、そしてその裏山からは険しい山林が続く…と言うところが少なくありません。
「高台移転」と言っても何処に移転すれば良いのか?
空から見てもピンとくる場所がない地区も見受けられ…
空の上でいろいろな事を考えさせられました。

あまりにも広範囲の被害。
そして…
いまだなお、行方が分からない方。
いまだなお、不自由な生活を強いられている方。
いまだなお、生活の目途が経たない方。

どうすればいいのか?
何が一番いいのか?

生かされたものの辛さ…
だからこそやらなければならないもの…
頭の中と、自分自身の気持ちが整理のつかない
空の上だから…?
地に足のつかない…
何ともいえぬ混沌とした気分に包まれました。

取材を終え、帰りに外洋に出ようとした時…
湾内に、養殖いかだを見つけました。
かつては当たり前の光景でしたが、あの日の津波で宮城県沿岸部の「養殖いかだ」「養殖ブイ」は全て流され、なくなっていたのです。
それが、徐々にではありますが…
復活…?

ちょっとだけ、ほっとした気分になりました。

兎にも角にも、、全てはこれから…

「ともに復興元年です!」

次は、浅見アナウンサーです。