佐藤 拓雄
2016/06/29
私の父については、この「アナ・ログ」で折に触れて書きましたように、とにかく、80を超えても元気で、年の取り方のお手本を示してくれているかのような存在です。
写真は、その父が先日作ってくれた和菓子。アジサイをイメージしたオリジナルです。これで「試作品」だというから驚きました。目に涼しく食べて美味しく、家族みんなであっという間にいただきました。
さて、そんな父の息子である私も、「父」なわけでして。
自分が単なる「息子」、あるいは結婚して「夫」から、「父」になったのは、およそ18年前のこと。
出産に立ち会い、生れてきた長男の背中が見えた時に、自分は「父」というものになった、とはっきり自覚したことを憶えています。
とはいっても、自分の子どもが生まれたという事実だけでは、生物学的な意味の「父」でしかなく、何も分からない、全て手探り、日々、正解のない、子どもとの向き合いを重ね、迷いに迷いながら、「父」であろうとしている、というのが私の実情です。
そこに果たして到達点、ゴールはあるのか、と思うと、全くそうは思えず、逆説的ですが、その「修行」のようなプロセス自体が「父親」であることかもしれないなあ、と思ったりします。
一方で、私の父のように、息子からも孫からも尊敬の念を集めるような存在になれれば、それがひとつの到達点かもしれないとも思ったり。
そして、もう一つ言えること。
それは、自分に子どもが生まれるまで、決して「子ども好き」とは言えなかった自分が、自分の子どもに対しては、生まれた瞬間から、いや、生まれる前からかな?とにかく無条件に「かわいい」と思ってしまうこと、そして、自分のすべてを投げ出しても、この子だけは守りたい、という、それまでの人生で感じたことのなかった感情を持つようになったこと。
これは、頭で考えて分かる理屈とかじゃない、本能として埋め込まれた「父親スイッチ」とでも言うべきものがオンになったとでも言うような、そんな感覚で、それこそが、日々「父」であろうとする私の「原動力」であることは間違いありません。
それから、子どもたちがいるからこその、喜び、安らぎ、これは「父」というか「親」の特権ですね。
明日からは新しいお題でお送りします。