アナ・ログ

祖父母の思い出その2

金澤 聡

2009/09/14

小学生の頃、毎週土曜日が楽しみでした。
授業が午前中で終了するというのも楽しみの1つでしたが、もっと楽しみにしていたのはランチタイムでした。
当時週休二日制ではなかったので共働きの両親は土曜日の午後は不在。
そのため家でお昼ご飯を作ってくれていたのは祖母でした。
毎週多彩なメニューで迎えてくれました。
太巻きにとんかつ、チャーハン、秋になれば栗の炊き込みご飯などなどレパートリーは様々でした。
祖母のご飯が楽しみで毎週土曜日は駆け足で家に帰っていました。
家に着くと、靴を投げ出すように脱ぎ捨て、玄関先でランドセルも肩から滑るように下ろし、そのままダッシュでテーブルに向ったのを覚えています。
普段はご飯をおかわりすることはほとんどなく少食だったのですが、土曜日のお昼だけは毎食ごはんを3杯くらい食べていました。
いまでも土曜日になると時々祖母の料理を食べたいと思うときがあります。

祖母の味を知っていたり、祖父母と頻繁に会話したりする子供がどのくらいいるのか分かりませんが、隔世の感がますます広がっている昨今、大事なことなのかなぁ、なんてこの文章を書きながら思ったりしました。

とんかつは秀逸だったなぁ。肉がいいお肉だったのか、揚げ方なのか、うーん。祖母の料理バンザイです。


さて、次回のアナログのテーマは「オリンピック」です。東京オリンピックがきっかけでアナウンサーを志したとかそうでないとか、浅見アナウンサーから始まります。

2009/09/11

もの心がつく頃には、もうおじいちゃんは、この世にはいなかったのでした。そう考えると、昔はそんなには長寿社会ではなかったのでしょうね。
おばあちゃんは、父方・母方とも80歳余りまで、当時としては長生きだったのでしょう。
中学生まで母方のおばあちゃんが、高校生まで父方のおばあちゃんが健在でした。
母方の方は、新潟にいたものですから、おばあちゃんが若いときは年に1回ほど我が家に尋ねてくれました。1週間~2週間ほど滞在してましたね。
父方の方は、正月や夏休みにこちらから尋ねて行ったものでした。
昔の人は、何でも出来ましたね。料理、裁縫、生活の知恵。何でも知っていました。逝く直前まで、何か動き回っていたような印象が残っています。

そうそう、9月2日の原アナのアナログでした。関西テレビで開催されたフジテレビ系列の新人アナウンサー研修会のリポート実習の現場に、原アナの大阪在住のおばあちゃんが孫娘に会いに駆けつけてくれました。私も現場にいたものですから、思わずご挨拶!
おばあちゃん、リポート実習のVTRにご出演。

そういえば、既に退職されたIアナのおばあちゃんも
家族で弊社を尋ねてくれました。おばあちゃん!スタジオの3カメが偉く気に入られた様子でした。

孫を可愛がる様子が、ここからも伺われました。

写真は、大石内蔵助の起上り小法師です。
我が家の祖父ではありません。

「祖父母の思い出 その2」お次は金澤アナです。
アンカーです。

飯田 菜奈

2009/09/10

『ななちゃん、よく来たねぇ。また大きくなって。いくつになったの?』
これが母方の祖父母の家に遊びに行くと、まず最初に言われる言葉でした。一週間後にまた遊びに行ったとしても、同じことを言われ…
また同じこと聞かれちゃった…(・。・;)//
そんな…
一週間で年をとらないし、背が伸びたりもしないって…と、幼な心に疑問を持ったこともありました。笑

遊びに行くといつもあたたかく迎えてくれた母方の祖父母は、もういません。私が中学生の時に他界してしまいました。もう、それから10年近く経ちます。
祖父が亡くなって、その後を追うように、一ヶ月後に祖母が…。本当に…仲が良かったのだと思います。
ほぼ同時に祖父母を亡くした私は、『死』というものが受け入れられなかったのを覚えています。

父方の祖父母は健在です♪
私が仙台に来るまでは、両親と私、祖父母の5人でよく食事や旅行に行きました。思い出もたくさんあります。写真は、今年、一緒に藤の花を見に行ったときのものです!満開でした☆

今年の2月に、食事をしたときのこと。
私が、大学卒業とともに友達と離れ離れになるのが寂しいという話をしていたら、
『仕方がない。人生は出会いと別れの連続なんだから』と言われました。まさに、その通りですよね。

私よりずっとずっと長く生きてきた、もと警察官だった祖父。
そんな祖父に言われる言葉には、重みがあります。説得力があります。わかってはいたけど、妙に納得してしまいました。
そして、これから新しい出会いがたくさんあるよ、と優しく微笑みながら教えてくれました。
なかなか会うことはできないけど、おじいちゃん、おばあちゃん、私、仙台で頑張るから応援していてね!!

次は浅見アナウンサーです!

林 佳緒里

2009/09/09

産休に入って2週間。これまでと起床時間は変わりませんが、出社しなくて良いという感覚が何とも不思議です。でもそれにもだいぶなれてきました。いたって元気です。

さて、祖父母の思い出。祖父母に言われた言葉で今もずっと心に残っている言葉があります。それはこんなシチュエーションでの一言。

人が何か話したことに対して、「えー、それ“ウソ”でしょ?」という言葉。私もこう言っていました。
しかし祖父母は、私に「初めからその人が“ウソ”をいっているかのように疑うような発言はよしなさい!失礼にあたる」と言われました。確かに“ウソ”という言葉は聞こえがよくありません。
だったらそういう時には、どう言うの?
答えは、「えー、それ“ホント”?」です。
結果として、その人の言っている事に疑問を持つというのは変わりませんが、言葉は使い用。“相手の気持ちになって発するもの”という事を教えてもらいました。

その他にもいわゆる言葉の使い方をいろいろ教えてもらいましたが、なぜかこれだけは忘れずに私の中に残っています。今、言葉を使う仕事に携わり、その重要性をより強く感じます。
おじいちゃん、おばあちゃんありがとう。

★産休中のご報告を少し★
何年もなかった平日休みを有効に利用しながらのんびりです。出産後は、おそらく親しい友人ともしばらく会えないでしょうから、積極的に会うようにしています。おいしいものを食べながら。ウフッ!
写真は、赤ちゃんのおくるみとブランケット。裁縫が好きなので刺繍しました。ベッドやバスをお借りしたり、洋服を揃えたり、少しずつ準備を進めています。赤ちゃん用品は、すべてが小さく可愛いものですね。予定日まであと一ヶ月。心の準備もしなくてはいけませんね。ちょっと緊張します。

次はななちゃんです。

寺田 早輪子

2009/09/08

取材先で「おじいちゃん」に会うと、はしゃいでしまいます。

一緒に住んでいた父方の祖父は、私が3歳のころに天国にいってしまいました。母によると、私は祖父のツルっとした頭を、ツルツルとなでたりして、かなり遊んでもらっていたそうなのですが、…幼すぎたせいで、祖父の記憶があまりありません。ですから、取材先で年配の男性に会うと、「おじいちゃん」とおしゃべりしているようで、はしゃいでしまうのです。

私が「おじいちゃん」とお話したい理由…。
それは、母から聞くおじいちゃんのエピソードが面白すぎるから。

『道路を歩いていたら、工事中のマンホールの穴に落ちてしまい、自力ではい上がって、帰ってきた。』
『マンホールに落ちたのに、かすり傷程度で生還。』
『夏には、近所の酒屋でサイダーをケース買いしてきて、ごはんにサイダーをかけて、かき込むように食べていた。』

そして、『酒豪』だったそうです。私の両親はお酒はほとんど…いや、全く飲めない体質なので、飲みっぷりの良い私を見て、母は「早輪子はおじいちゃんに似たのね」とつぶやきます。

ああ。おじいちゃんと飲み比べをしてみたい。サイダーではなく、お酒を…。

★写真は、スッポンの生き血の焼酎?日本酒?ワイン?割りです。きー

続いては、産休中の林アナウンサーです!
お変わりなく、順調ですか?

佐藤 拓雄

2009/09/07

育休が終わり、仕事に復帰して1週間が経ちました。
とはいえ、仕事と休みの区切りは、イコール子育ての区切りとはなりません。第三子・次男は、もうすぐ生後丸2か月となりますが、泣いて、飲んで、だっこされて、寝て、の毎日が続いています。授乳などと家事のタイミングが、うまく分かれるときのほうが珍しく、いきなり、「はい家事はもうしませーん」というわけにはいきません。
そんなわけで、今月は、子どものお弁当を3回も作ったのですが、おにぎりをにぎっていて、母方の祖母のことを思い出しました。

いったい自分が何歳の頃だったのか、全く覚えていないのですが、祖母におにぎりを作ってもらったことがありました。
弟と2人、あるいは、末の弟もいたかもしれないので、そうすると3人で、寿司屋のカウンターのようにテーブルに横に並んで座り、向かいに祖母。祖母のところには、櫃か何かに入ったごはんがありました。
その祖母に向かって、僕たち子どもが、「まる!」「さんかく!」「しかく!」とか言います。
すると、祖母は、「はいよー」なんて言いながら、リクエストどおりの形で、小さな小さなおにぎりを次々に握ってくれるのです。子どもの口にも小さいくらいですから、直径は2センチくらいのものだったのではないでしょうか。具なし、海苔なしの塩むすびですが、小さいので、いくらでも食べてしまいます。
そのうち、「ほし!」「ひしがた!」なんていうリクエストまでして、それでも、祖母は、チャチャチャっと、きれいに、そのとおりのおにぎりを作ってくれるのです。
それが楽しくて楽しくて、何個も何個も作ってもらった覚えがあります。祖母の「おにぎり屋さん」は、後にも先にもその時だけだったように記憶していますが、本当に楽しかった、いい思い出です。育休をきっかけに、おにぎりをにぎったりするようになり、そのたびに思い出すようになりました。

次回は、寺田アナウンサーです。

2009/09/04

私の頭の中では母方の祖父の最強伝説があります。
何が最強かというと、それはもうストレートに腕っぷしの強さ、格闘技(プロレスごっこ)です。

幼年期の男児ならばプロレスごっこをした経験があると思います。
私も仕事終わりの父と、毎晩のようにプロレスごっこをしていました。
親戚の家に遊びに行けば、『刺客現る』くらいの高揚感と緊張感を持ち、新たな対戦相手として親戚と一戦交えていました。

それで、祖父の何が最強なのかというと、祖父は倒れても倒れても何度も立ち上がる格闘スピリットを持ち合わせており、唯一決着がつかなかった相手です。

毎晩、プロレスごっこをしていた父は、仕事を終えての疲労というハンディがあったにしろ、今思えば10分もしないうちに決着がついていました。もちろん私の全勝です。
時には、あまりにも早く決着がついたため、父に対し『プロレスというものはそんなに簡単に終わっては成り立たない』と子供ながらに異を唱え、誤審だったという形で再試合が行われたこともあります。

しかし祖父は、子供の気分が最高潮に達したタイミングで負けてあげるという暗黙のルールを知らなかったのでしょう。
それとも私が、最弱のレスラーである父との対戦に慣れすぎてしまっていたのか。
もしくは、戦争を生き抜いた世代の父親像というのはこういうものなのか。

祖父との試合は、『猪木vsマサ斎藤の巌流島決戦の再現か!』と思わせるほど長時間に及び、ボサボサに髪を乱しながら立ち上がる祖父の鬼の形相に、恐怖すら覚えました。
あれは演出なのか。あるいは遠慮なく蹴り飛ばしてくる孫に対して、祖父は本当に怒っていたのかもしれませんが。

試合の決着はつかないまま、階下からの祖母の「ご飯よ~」の声で、一旦お預けになったきりだと思います。
遠い記憶ですが、思い返せば思い返すほど、鮮明に甦る祖父の力。戦前男子は強かった。


続いては佐藤さんです。

梅島 三環子

2009/09/03

一緒に住んではいませんでしたが、近くにはいましたよ。だから祖母の料理もよく食べました。

ということで、“お袋の味”ではなく“祖母の味”の思い出をひとつ。
私が、1番好きだった祖母の味は「かぼちゃの煮つけ」です。かぼちゃが食べられなかった私を「かぼちゃ好き」にまでさせたほどの味です。煮方と味付けと…私にとって最高においしいと思うツボをおさえているんです。祖母から料理を教わったことはありませんが、あのかぼちゃの味は覚えておきたいなぁと思います。

一人暮らしを始めた頃、あの味が懐かしくて、独自レシピではありますが、かぼちゃの煮つけを作ったことがありました。
まずかぼちゃを切るときに負傷して煮付ける前に断念した記憶があります。心身ともにイタイ思い出です。

そうそう。映画館に行ったら、HACHIがいました。かわいいですね。実物の何倍のサイズでしょうか…?
私より大きい…。

次は広瀬アナです。お願いします。

2009/09/02

そうでした~、懐かしい!
あれは関西テレビで行われた新人研修。「天神橋筋商店街」で行ったリポート研修の時でしたね。
※写真はまさにその時のもの。真ん中のピンク色の服を着ているのが祖母です。

毎年新人アナウンサーは、秋にフジテレビか関西テレビで行われる研修に参加するのですが
いずれも地元番組想定の【リポート研修】なるものがあるのです。
時間は1人大体3分程度だったかな?
自分で取材して、お店の人に出演交渉したり、カメラさんに指示を出したり・・・実践的な研修です。

私達の時は関西テレビに程近い「天神橋筋商店街」がその舞台。
それを母との電話か何かで聞きつけた祖母(大阪在住)は「エリナに会おう!」と、
時間も何も分からないのに、商店街の中心部で何時間も立って待っていてくれたのです。

当時リポートで頭が一杯だった私は祖母を見つけてびっくり!「何でどうしておばあちゃんがここに…( ̄□ ̄)!?」…ちょっとした混乱状態で、何をリポートして良いものか分からず、この写真の後、祖母を出演させてしまいました…。。。

お話するのも憚られる内容でしたが、一番印象に残っているのはリポートの最後に祖母が深々と丁寧なお辞儀をしたこと。
腰からゆっくり曲げて、頭を下げて、深々と…

「こんな子ですけれども、宜しくお願いします」

私には、そう言っている様に見えました。
それを見たら、不甲斐ない自分のリポートに腹立ちのような、恥ずかしいような気持ちが湧き上がって「これではいけない、もっと勉強して、きちんと仕事を見てもらわなければ…」と強く思ったのです。

今でもあの祖母のお辞儀は瞼に焼き付いています。


さあ、次は今週からSNを担当している梅島アナ。
おじいちゃんおばあちゃんとは一緒に住んでいたのかな?

2009/09/01

今日からお題がかわりまして,9月は敬老の日もあるということで
『祖父母の思い出 その2』をお伝えします!!

前回は、離れて暮らす孫(私)に手紙を週に1度は書いてくれる祖母について書きました。今回は、祖父です。
今でも元気な87歳の祖父。宮城県出身で寒さに強く、宮城で作られた日本酒が大好き。今でも晩酌は欠かしません。
そんな祖父の口癖は「まんべんなく・バランスよく」です。食事はもちろん好き嫌いは無いですし、政治から経済・農業・工業など様々な興味のあることは自分で調べて勉強します。元科学者の血が騒ぐのか、物事を追求することが大好きなようで、今でも「散歩に行く」と言いながら学会に出席しているようです。
新聞の切抜きをして、更に気になったら関連本を購入し、ノートにまとめる。『学びは一生』という信念を持つ真面目な祖父です。

こんな勤勉な祖父と話すのは今でも緊張するのですが、最近意外なことを言いました。それが、家族で祖父と祖母の出会いの話題になったとき…
「初めて会ったときは僕はまだ10代で学生だった。でもおばあちゃんを一目見たときに、電流が走ったんだよ」
ちょっと恥ずかしそうに、でも懐かしそうに笑顔で語る祖母との出会い。いわゆる一目惚れだったのでしょうね☆実直な祖父からまさかこのような恋物語を聞けるとは思ってなかったので、驚きました!
何歳になっても忘れない、恋の電流♪祖父の青春の1ページを感じられて嬉しかったです。

※画像は右が祖父、左が祖母です。
兄の結婚式のときの写真ですので礼装です。

さて、お次は原アナ!
実は原アナのおばあさまに大阪で偶然にも会ったことがあります(*^_^*)