アナ・ログ

ともにII

梅島 三環子

2011/08/29

先日、新幹線に乗って遠出をする機会がありました。
ぼんやり車窓を眺めていると、空き看板や空き地、そして工事現場などに「頑張れ東北」、「継続支援」、「共に前へ」など…東北に向けた、様々な応援メッセージが書かれていました。

全国の方々から被災地域のことが、忘れられていないこと、そして気に留めて応援していただいていることを実感することができました。

またこの夏は、実際に仙台にも多くの方が集まり、地域を活気付けてくれました。
東北六魂祭や仙台七夕祭り…。
どちらも、予想以上の人出となり、六魂祭では一部混乱も見えましたが被災地域にこれだけの人が集まるというのは東北の人間として、全国の方々に、感謝しなければいけないことかもしれません。

静岡に住む私の高校時代の友達も、この夏仙台に家族旅行にやってきました。人生初の仙台だとのことで、仙台・宮城をたっぷり観光したようです。

震災を受け、スピードでは様々ではありますが、復興へと向かう被災地域。全国の人に支えられて、ここまで来たこと。そして、全国の人がいたからここまでこれたことを考えさせられます。

柳沢 剛

2011/08/26

甲子園の全日程が終了し、夏の猛暑から一転、秋の装いの涼しさ…。
今年の夏は暑かったり、涼しかったりを繰り返し、「めりはり」という言葉をはるかに通り越した、ジグザグ気候になり、体調を崩してしまった人も多いのではないでしょうか?
大丈夫ですか…?

そんな中、広瀬アナや寺田アナも書いていましたが…
この夏の甲子園!
宮城代表の古川工業の試合に、私も熱くなった一人です。2回までに9点をとられながらも立ち直り、諦めずに全力でぶつかっていった古工ナイン!

ベンチ入り唯一の1年生、途中からサードの守備についた谷口君は、私が監督をしている少年野球チームの4年前のキャプテンでした。
体は小さいけれど、ガッツのある選手で、持ち前の気迫でヒットを放ち、遠い甲子園球場から、最高の笑顔を届けてくれました。
この夏、一番うれしい笑顔でした…。

選手たちの、笑顔!
そして一生懸命のプレーに、たくさんの人が勇気付けられたと思います。高校野球って、なんか良いですよね。
真っ直ぐさ!と言うか、純!と言うか…
宮城予選も含め、心洗われるシーンをたくさん見た夏でした。

その高校野球も今週から秋季大会!
来年春の甲子園、選抜の予選がもう始まっています。
早いですね…。

真っ直ぐな気持ちのぶつかり合い。
一つ一つのプレーが周りを熱くし、感動させます。

「野球が出来ることに感謝し、チームメートとともに力を合わせ、助け合い…。みんなぁ~!! 頑張れ!!!」

次回は梅島アナです。

林 佳緒里

2011/08/25

今月の「ともに」の放送は私にとっても、ハッと気付かされることが多かったです。
拓雄さんが書いた通り、大きな悲しみを抱えながら前へ進もうとしていらっしゃる方が私たちのすぐそばにいること。これは月日が経てば経つほど、より強く心に留めておかなければならないことですね。

さて、今回は私のすぐ近くの「ともに」です。
まだ暑さが続いていたお盆。
近所のご家族に誘っていただき、花火をしました。
今年は、こうして家族同士が揃って遊べることにも本当に感謝しなければならないと思いながら、とても楽しいひと時を過ごしました。

震災では、あらためて近所の方や友人の存在の大切さ、ありがたさを感じました。

仙台市は、電気・水道の復旧が比較的早かったものの、ガスはかなり時間を要しました。
我が家は幸い、早い時期からお風呂に入れるようになったため、赤ちゃんや小さな子どものいる友人達が何家族かお風呂に入りにきました。
赤ちゃんの体はデリケート、オムツかぶれに湿しんと、その様子はとても痛々しく・・・。
でもお風呂上りの気持ち良さそうな顔を見たら、一安心。こうしたことでも誰かの役に立つことがあるんですね。
でも反対に、そのお礼にと食材を分けていただいたりもして、ちょっと複雑な気持ちになったりもしました。

さらに近所同士では、お互いの安否を確認したり、不安な気持ちを話し合ったり・・・。
またいろんな事情で私たち家族が、自宅に帰れなかった時には、自宅に残してきたウサギの世話をしていただいたりと、本当に助けていただいたことがたくさんありました。

災害のときは「自助」「共助」が大切といわれますが、今回の震災では、自分だけではどうすることもできないことがたくさんありました。
だから、友人や近所同士の「共助」の大切さ、ありがたさがより身にしみました。

皆さん、ともに助け合う心を持っています。

明日は柳沢さんです。

佐藤 拓雄

2011/08/24

「ともに」という番組を、4月から担当しています。

番組では、様々な意味での「復興」をメインテーマに、宮城の今を生きる方々に焦点をあてながら、私たちの宮城がこの大災害から立ち直る、その一助になれればという願い、そして、絶対に忘れてはならないという思いをこめて放送しています。

5ヶ月が過ぎた今、取材や、皆様から寄せられるメール・FAXの声、そして、自分の日常生活などから感じられるのは、時間が経てば経つほど、県内でも、日常を取り戻しつつある地域と、いまだ避難生活を送る方のいる地域とで、日に日に広がる温度差です。

今月の番組では、家族を津波で亡くした仙台の男性が、仙台七夕まつりの設営や撤収の仕事に打ち込む姿をお伝えしました。
仙台の中心部などは、ややもすると、本当に地震があったのかと思うほど、日常が戻ってきています。その仙台の町の中で、深い悲しみを抱えながら仕事をしている方がいるという現実は、「海の町」の被災とはまた質の違う重さがあるということを、改めて思い知らされました。

復興の道のりは、まだまだ、本当に長いものになりますが、その長さに比例して、「温度差」は広がっていくと思われます。そういうなかで、復興の道のりを、ともにたどっていくこと、そして、伝え続けていくこと、これが私たち放送局そしてアナウンサーにできる「ともに」の、大きな柱だと思って、番組や日々の仕事に取り組んでいます。

続いては、この番組を「ともに」担当している、林さんです。

金澤 聡

2011/08/23

取材で南三陸町に向ったのは、地震発生から2週間後だった。
峠を越え平地に出るとすぐ、がれきが点在していた。
海岸から4kmほど内陸のところまで津波が到達していた。
海に向っていくと、更地になっていた。建物がない。あるのは、むき出しの鉄骨だけだった。
気仙沼では、がれきが街にうず高く積もっていたが、南三陸町はがれきがほんとんどなかった。
強烈な引き波が、建物を沖へとさらっていったのだろう。
震災前に、何度か南三陸町を訪れたことがあった。その脳裏の映像とは、全く違っていた。どこにお店があったのか、どこに駅があったのか、どこに家があったのか全くわからなくなっていた。
取材で話を聞くたびに、胸がつまる思いだった。九死に一生を得た方がたくさんいらした。そして、犠牲になられた方も…。

高台にある志津川高校には、桜並木があった。
桜はつぼみを固くして春を待っていた。
街は一変してしまったが、花を咲かそうとしている桜をみて復興への思いを強くした。
またこの並木の下で笑顔が戻ることを願って南三陸町を後にした。

まだ復興への道は、一里塚を過ぎたあたり。
ともに長い道を歩んでいきましょう。

次は、佐藤拓雄さんです。

2011/08/22

東日本大震災の影響で、仙台での封切りが延期されていた映画「エクレール・お菓子放浪記」が7月30日から復興ロードショー(桜井薬局セントラルホール)として始まりました。

初日の上映前には、近藤明男監督、主演の吉井一肇君、林隆三さんが舞台挨拶、午後からは一番町でのイベントに出演して頂きました。

西村滋の自伝的作品「お菓子放浪記」の映画化したもの。様々な出会いと別れを繰り返し、戦中・戦後を必死に生き抜いていくアキオ少年(吉井一肇)の姿を通して、お菓子への憧れを平和への希望にまで昇華した作品です。

宮城県内の5か所でロケを行いました。被災地・石巻もロケ地の一つでした。北上川を下る渡し船のシーン、あのあたりも津波で甚大な被害を出してしまいました。

映画のエキストラとして出演してもらった方も、震災で犠牲になられたという話を聞きました。近藤監督も様々な思いで、今回の上映を迎えたということでした。

林隆三さんは、幼少の頃、お父さんの仕事の関係で仙台で過ごされました。今の付属小学校へ通っていたそうです。それだけに、震災を気遣う気持ちは、人一倍でした。

「おとなが勝手に始めた戦争で死んでたまるか」
このセリフは、一肇君、渾身の演技だったようです。

戦中・戦後を必死に生きたアキオ少年。
震災後、前向きに生きる人たちの姿と何かダブって映ります。

舞台挨拶で、一肇君、「この映画は宮城県の方に一番観てもらいたい」と。小学6年生とは思えない、立派な挨拶でした。

映画でも、また一肇君の言葉にも勇気をもらった1日でした。

西条八十作詞・橋本国彦作曲の「お菓子と娘」(昭和3年)
一肇君の透明感あふれる歌声も是非、聞いて下さい。

飯田 菜奈

2011/08/19

震災以降久しぶりに会う人、そして初めましての人とも必ず、震災の話になります。
「あの時、大丈夫だった??」と必ず聞かれます。

こちらから先に尋ねることも度々です。
やはり気になりますし、心配でしたから…。

東日本大震災から、5ヶ月が過ぎました。もうすぐあの大惨事から半年。ずいぶん昔のことのような、つい最近のことのような、時間の経過が時々よくわからなくなります。

でもこの先しばらくの間は、「あの時、大丈夫だった?」という会話をするでしょう。

それだけ、県外の人、海外の人、世界中が宮城そして東北のことを心配してくれていると一番実感できたのが、今年の仙台七夕まつりだったと思います。

復興への祈りや、応援メッセージが書かれた短冊や折鶴が、仙台七夕まつりで飾ってほしいと、たくさん届きました。定禅寺通りに飾られた短冊だけでも、2万4千枚。手書きのメッセージ一枚一枚には、書いた人それぞれの思いが込められていると思うと、涙が出そうになりました…。

みんなが宮城の、東北の復興を祈ってくれてます。
私ももちろん、祈っています。願っています。

すべてが元の姿に戻ることは、実際は不可能かもしれません。でも、みんなが穏やかに暮らせる日が来ることを…。

次回は、浅見アナウンサーです。

寺田 早輪子

2011/08/18

「序盤はすごく苦しい展開で、自分が崩れてしまって申し訳なかった…」
夏の甲子園。宮城代表・古川工業のエース山田大貴投手。初戦・唐津商に敗れた直後のインタビューで、山田投手は、こう話しました。
「申し訳ない…」。この言葉を聞いて、私は古川工業の野球部が背負ったものの重さを改めて感じました。

ともに戦う気持ちで…。私は、8月8日の第二試合、古川工業の初戦のテレビ中継をかじりつくように見つめました。
初めての甲子園。初陣は、好投手・北方投手を擁する唐津商。30度を超える猛暑。大観衆。そして、何より被災地・宮城の代表として「被災地に元気を!」「勝利を!」「勇気を!」届けたいという思い。いやがうえにも、極度の緊張が彼らを襲ったのだと思います。

そうした様々な思いを背負いながら、彼らは戦いました。
初回、二回と大量9点を奪われながら、そこから4点を取り返した古川工業。
諦めない心。それは、スライディングで真っ黒になった選手たちのユニフォームにもにじんでいました。
山田投手はあの炎天下、9回133球を投げぬいたのです。
みんな猛暑の中、よく集中して、投げて、打って、走って、守ってくれたと思います。

東日本大震災では沿岸部の津波被害が甚大ですが、内陸部では大地震で大きな被害がでました。私は、6月に古川工業のある大崎市古川で中心商店街の被害を取材しましたが、建物が大きな揺れで損壊し、「立ち入りは危険」と判断され、移転や廃業を余儀なくされた商店主が多くいました。

そうした地元・古川の人たち、そして宮城県に住む全ての人たちと、ナインは「ともに」戦ったのです。
「勝ち負けではない、最後まで諦めない心を持つこと」。
古川工業野球部の一生懸命なプレーから、私が学んだことです。
ありがとうございます!古川工業野球部のみなさん!忘れられない一戦になりました。

続いては…、今年も「仙台七夕中継」、おつかれさまでした!飯田アナウンサーです!

稲垣 龍太郎

2011/08/17

先日、生まれて初めて仙台七夕まつりに行ってきました。
これまで、「7月7日=七夕」という文化の中で育ってきた私にとっては、8月に初めて迎える七夕です。

一番町のアーケードを通ると、青竹に吊るされた大きな吹流し。想像以上の青竹の太さ、吹流しの煌びやかさに感動しながら、作るのにどれくらいの時間がかかったのだろうか、どれだけの人によって、この七夕飾りはつくられたのだろうか、など七夕まつりに至るまでのことを考えながら、歩いていました。

そういえば、入社前に一度、七夕飾り作りを体験したことがあります。
といっても、本格的なものではなく、ミニチュアサイズのものですが。
宮城初心者の私は、そこで初めて七夕飾りに込められた意味を知りました。

短冊…和歌や願い事を書き、学問や書道の上達を願う。
吹流し…機織の上達を願う。
折鶴…家内安全と長寿を願う。
投網…豊漁を願う。
屑籠…倹約を願う。
紙衣…子どもの成長を願う。
巾着…お金がたまることを願う。

指が人より太すぎるのか、針に糸を通すのに最長で10分もかかってしまうほど手先の不器用な私に、一つ一つ七夕飾りの作り方を丁寧に教えてくださった宮城の人の優しさに触れたのも、このときが初めてでした。

七夕まつりから帰宅後、ふと当時のことを思い出し、久しぶりにミニチュアの七夕飾りを取り出し、部屋に飾ってみたのでした。

短冊には…
思い出すだけで顔が真っ赤になってしまうほど、恥ずかしくなる願い事が書かれていました。

結局、すぐに閉まってしまったのでした。

次は、寺田さんです。

2011/08/16

前回に引き続け、“ともに”というテーマでお送りいたします。

創部63年目にして甲子園初出場を果たした古川工業。
8月8日に行われた佐賀・唐津商業との初陣を現地で取材してきました。

今年は岩手・宮城・福島の3県にとっては特別な意味を持つ大会となりました。
選手から「被災地を代表して」「宮城のために」という言葉が離れることはなく、選手達にとっては大きなプレッシャーになったと思います。
それは古川工業に限った話ではなく、県大会で敗れ甲子園への切符を逃した全ての学校に共通して言えることと思います。

たくさんの思いを抱えたまま、古川工業の選手達は「全力プレー」を合言葉に懸命に戦いました。
勝利することはできませんでしたが、試合終了後にアルプススタンドへ挨拶をする選手達に、スタンドからは多くの歓声と拍手が贈られました。
鳴り止まない拍手に込められた温かい思いは、選手達の全力プレーが見ている人達に勇気を与えたことの証しだと思います。

宮城の多くの人とともに戦った古川工業の選手達に、ありがとうとの思いを込め、私からも拍手を贈らせて頂きます。

次は稲垣君です。