2011/08/09
私は東日本大震災の発生の瞬間は東京におり、翌朝、東京支社から18時間半ほどかけて宮城に向かいました。
当時、一般車両が走れるのは下道のみ。並行する高速道路を見上げると、走行が許されている自衛隊車両が何十、何百台と列を作っていました。不謹慎ではありますが「映画のワンシーンのようだ」、それが第一印象でした。日本全体が被災地を全力で救おうとしていると実感した瞬間でもありました。
宮城に到着した翌日、私達中継班9人は気仙沼へと向かいました。被災地入りしたのが午前3時。車のヘッドライトが街中に残る潮に反射し、暗闇にぼんやり浮かび上がる本物の廃墟を見た瞬間は背筋が凍りました。
この日を皮切りに1ヶ月特番があった4月11日までの間、私は被災地で移動日を含めて20泊24日間の泊まり込み、そのうち7泊を車中で過ごすことになります。
取材の最中には緊張感が高まる瞬間がありました。突如発表された大津波警報。原発の爆発。目の前で搬入されていく遺体の数々。気仙沼市街地での大規模火災では、100mほど先のガスタンクまで火の手が伸びれば、私達がいる高台も吹き飛ぶのではないかとさえ思いました。
そういった状況下では、消費期限が切れた水を使い、雪が舞う公園の公衆トイレで頭を洗って過ごす日々は意外と平気なものでした。そして何より避難所を訪れる際に、必ず笑顔で迎えて下さる被災者の方々には大変、勇気付けられました。物資不足のため、発災直後の数日間は1日におにぎり2,3個のみでの生活を強いられていました。それでも明るく迎えて下さり、「何も食べていないでしょう?おにぎりを食べていきなさい」と声をかけてくれました。もちろん受け取ることはできませんが、毎日、何人もの方が、そう話しかけて下さりました。誰よりも辛い状況であるはずの方々が、仕事で避難所に訪れている私達に、そういった優しさを見せてくれるのです。新渡戸稲造の『武士道』に描かれている、惻隠の情が東北の方々の心には根付いていると実感しました。
助け合いの心…。
世界の歴史の転換期で見えたものは、日本人の心に変わらず宿る大和魂でした。
次は佐藤さんです。