アナ・ログ

ツキ(月)にまつわる話

佐藤 拓雄

2008/08/28

写真は「ちゅらさん」小浜島ロケ地シリーズ3、「和也くんの木」です。

さて、小学3年から6年生くらいにかけて、妙についてる時期がありました。と言っても、懸賞によく当たる、という程度でしたが。

記憶にある中で一番の大当たりは、現金1万円。小学3年の冬、近所の商店街の歳末セールの福引でした。
最終日ということで福引所には長い行列。2つ下の弟と二人でそれぞれ3回分の福引券をもって並びました。「お兄ちゃん先にやってよ」と弟が言うので、僕が先に回すことに。これで弟と明暗が分かれてしまったのです。
ガラガラポンと回して最初に出たのが銀色の玉。
「1万円だっ!!」という商店街の人の驚いた声、カランカランという大きな音。福引の行列のみならず、通りかかった人まで、みんながこっちを見ます。いきなりのヒーロー誕生です。
小遣い300円の小学生が突然手にした途方もない大金。そして、周囲の羨望のまなざし。天にも昇る気持ちでした。
続く弟は、当然のように、末等、現金10円×3=30円が大当たり。
二人で大事な懸賞金を持ち、息せき切って帰宅、「お母さん!1万円当たったよ!!」と報告したところまではよかったのですが、直後、「30円」の弟が、近所中に聞こえそうな大声で泣き出したのです。
「お兄ちゃんだけ、ズルい!僕が先にやれば僕が当たってたのに・・・ウォーンウォーン」
・・・こんな調子です。
これにはほとほと参りました。そんなこと言われてもなあ・・・
しかし一向に泣き止む気配のない、ミスター30円。
結局、困った母親が「拓雄、おすそ分けしなさい、2千円でいいから」と、こちらにしてみるとあまりに理不尽な「大岡裁き」を見せ、涙は止まったのでした。まさに「ゴネ得」の弟くんでありました。
ちなみに、1万円マイナス2千円=8千円で、欲しかったキャッチャーミットを買ったと記憶しています。

とここまで書いて思うのは、こういうことって、一生覚えてるものなんだなあ、ということ。
でもこの話、弟の側からはどう見えていたんだろう。全く覚えていなかったりして。

さて、そんな「福引少年」のその後ですが、この時期でツキは尽きてしまったのか、大人になってからの懸賞運は全然なく、宝くじも当たったためしがありません。

次の広瀬くんは、バグダッド話の続きではないようです。

怖い話

佐藤 拓雄

2008/08/20

写真は、ドラマ「ちゅらさん」ロケ地シリーズ、小浜島の「シュガーロード」。ドラマでは通学路になっていた道です。「怖い話」とは全く関係ありません。あしからず。

さて、10年くらい前、夕方の「スーパーニュース」でサブキャスターをしていた時のことです。
当時は、日中は記者の一員として、記者クラブを拠点に取材活動をし、夕方は放送ギリギリの5時半頃会社に戻ってスーパーニュースに出る、という毎日でした。
ある日、いつものようにギリギリに記者クラブから戻ろうとしてタクシーに乗っていました。ふと時計を見ると、え?!6時25分?!とっくに放送の始まっている時間ではありませんか!
「運転手さん、急いでくださいっ!!!!」
通用口から全力疾走でニュースセンターへ。見ると、ライトがついて、メインキャスターの柴山さんがニュースを読んでいます。当時の茂ヶ崎のニュースセンターは、オフィス部分と直結していたので、放送中の様子が後ろからよく見えるのです。
ああ・・・とうとうやっちまった・・・遅刻です。というか、放送の「すっ飛ばし」です。どうしよう、このままスタジオに行ったほうがいいのか。いや、しかし、原稿はどこだ、こんなに汗だくでは出られないか、息も上がってる、などと瞬時に色々なことが頭を駆けめぐります。
うーん、それにしても、なんであんなにスタジオが遠いんだ?そんなに広くないはずなのに、柴山さんの後姿がやけに小さく見えます。おかしいぞ?それに歩いても歩いても、前に進まないじゃないか?あれ?もう6時45分?なんでそんなに時間が進んでいるんだ?
うーん、うーん・・・

というところで、ハッと目が覚めます。
今でも、何度も見る、この怖ーーーーーい夢。

アナウンサーとして、「すっ飛ばし」ほど恐ろしいものはありません。
僕自身は、現実に「すっ飛ばし」をしたことはありませんが、これからも、この怖い夢を何度も見るんだろうなあ。

次回は、浅見さん。まさか「まんじゅう怖い」ではないと思いますが・・・

ふるさと

佐藤 拓雄

2008/08/04

先週、夏休みをとって家族で旅行に出かけました。訪れたのは、沖縄・八重山地方。かねて行ってみたいと思っていた、ドラマ「ちゅらさん」のふるさと・小浜島にも足を伸ばし、ドラマのロケ地を見ることができました。写真はそのひとつ「こはぐら荘」前での一枚。台風が過ぎ去った直後で空が青くないのが残念でしたが、ドラマニアとしては、ロケ地めぐりに大満足です。そして、小浜島、とってもとってもいい所でした。

さて、僕は神奈川生まれの東京育ちですが、「ふるさと」と言われてぱっとイメージするのは、神奈川でも東京でもなく、福島県郡山市の父の実家です。

子どもの頃は毎年夏、郡山に行くのが楽しみでした。
郡山の祖父母の家は、父がそこで生まれたという、まさしく生家。なので、古い。でも、団地暮らしの僕は、その家の縁側で、足をぶらぶらさせ、セミの鳴き声を聞きながら、農家から届けられた新鮮なとうもろこしやトマト、桃、すいかなどを食べていると、「こういうのを『ふるさと』って言うんだろうなあ」と子ども心に思ったものです。
郡山には、その当時ですら自分の家の近所にはなかった駄菓子屋もあり、「ふるさと」には何でもあるんだなあ、とうらやましく思えました。
唯一、「マジンガーZ」など好きなアニメの放送が1週から2週遅れていたのには、大変ショックを受けましたが。

その後、仙台に住むようになった僕にとっての「ふるさと」は、普通に考えれば、東京の実家、ということになりますが、どうも「ふるさと」という気がしない。しかも、7年前に両親が東京をひきはらい、仙台に引っ越してきたので、帰省先という意味での「ふるさと」も存在しません。

単なるイメージの問題なのでしょうが、そんなわけで、「ふるさと」という言葉を聞いたとき、真っ先に頭に浮かんでくるのは、夏の郡山の縁側なのです。

次の原アナウンサーも実家は東京ですが、どんな「ふるさと」話でしょうか?

一度訪れてみたいあの場所

佐藤 拓雄

2008/07/22

数えてみると、日本国内でも行ったことのある都道府県は、32。まず、残りの15を制覇したいと思いますが、遠出の機会は、家族4人での旅行、あるいは、仕事で出張、となると、全国制覇は、いつになることか。
ちなみに、残っているのは、鳥取、島根、山口とか、宮城に住んでいる僕にとってはちょっとやそっとのことでは行かないようなところばかり。あとなぜか青森県にも行ったことがないんですね。これは自分でも不思議ですが、意外に遠いからなあ。

海外に目を向けますと、これはもう行ったことのあるところを数えたほうが早いわけで、行ってみたいところだらけですが、なかでも行ってみたい・見てみたいのは、不思議な所・物と、世界史的・歴史的な価値のある所や物。
例えば、イースター島、ナスカの地上絵。「七不思議」的なものをこの目で見たい。そして、千年単位の歴史にも触れたい。万里の長城、ピラミッド、とかです。
とは言うものの、万里の長城以外は、どれも日本からやたら遠いし、安全面でも少々不安があるので、とても家族旅行レベルではなく、「なるほど・ザ・ワールド」のリポーターにでもならない限り出張で行く可能性も全くないので、結局、少なくとも働いているうちは行けないのかも。
事ほど左様に、僕にとって「一度は訪れてみたい場所」とは、「よほどの決意がないと行かずに終わってしまう場所」なのかもしれません。

今回の内容は、話が進むにつれショボくれてしまいました。こういうのを「竜頭蛇尾」っていうんでしょうね。すみません。

次は、新人の広瀬アナウンサーです。

雨の日のすごし方

佐藤 拓雄

2008/07/08

問題です。
次のうち、かの発明王エジソンが発明したものはどれでしょうか?
①メガホン②セメント③トースター

分かりましたか?
答えは・・・
全部です。

先日、ある雨の土曜日でした。息子の少年野球が雨で中止になり、一家4人でぽっかり予定があきました。このところ雨の休日はこういうことが多いのですが、この日は、一家で、多賀城市の東北歴史博物館へ行き、「発明王エジソン展」を見てきました。これが実に興味深い内容でした。

まず驚いたのは、とにかくエジソンの発明があまりに多く、幅が広いこと。
エジソンの代名詞とも言える、電球や蓄音機などをはじめ、先ほどのメガホン、セメント、トースターなどなど、現代の工業製品、家電製品の原型がほとんどエジソンの手によるものと言っても過言ではないくらいです。1093件もの特許を取得しているとか。

そして、先見の明。
100年以上も前の、自動車自体が当たり前じゃない時代に、もう「次は電気自動車」と言って、開発を始めていたそうです。いやはや。早過ぎです。

商品化と宣伝文句もすごい。というか、今見てもちっとも古くない。当時としてはものすごく斬新だったはずです。

いろいろ書いてきましたが、人によっては、ご存知の話ばかりだったかもしれません。すみません。

驚きと感心しきりの展示を見たあと、展示内容の図録に、エジソンの母の教育について書かれた本、さらに、子供向けのエジソンの漫画伝記まで、3冊も書籍を買って帰りました。
実に充実した雨の休日になりました。

あ、ちなみに、写真は、言うまでもなく、エジソン発明のメガホンです。インスタントジョンソンではありませんよ、金澤君。

そんなわけで、このテーマはこれで終わり。明日からは、また新たなお題です。トップバッターは、金澤アナウンサー。

私の必須アイテム

佐藤 拓雄

2008/06/19

写真は、「スーパーニュース」放送中の必須アイテムボックス。中身は、電子辞書、アクセント辞典、「用語ハンドブック」というフジ系列の言葉の取り決めに関する冊子、ストップウォッチ、そして筆記具類。これをいつも足元の見えないところに置いています。辞書類は、放送中でも、よく使っています。

さて、心配性で気が小さいということなのか、モノに頼りすぎということなのか、このボックスに限らず、とにかく必須アイテムだらけの生活を送っているような気がします。
だから、いつもやたらと荷物が多くなってしまいます。
通勤用のバッグは、いつもギュウギュウで重たい。何か特別なものが入っているわけでもないのですが、あれも必要、これもないと困るかも、といろいろ入れてしまい、その結果です。
時々もっとスリムにしたいと、中身を点検するのですが、これはないと困る、これも万一のときに必要・・・というように、ほとんど減ることがありません。
今、中を除いてみると、入っているのは、手帳、メモ帳、ペンケース、名刺入れ、折りたたみ傘、目薬やのどスプレーほか常備薬を入れた小物入れ、電子辞書、携帯音楽プレーヤー、そしてもちろん携帯電話(会社のと自分の)、本、書類、バスのプリペイドカード、IDカードなどなど。うーん、不要なものはないなあ。
実はこれらのものが入ったバッグのほかに、日によっては、お茶と弁当の入った袋が加わります。いつも重たい荷物を持っての通勤。雨の日は結構ストレスです。
先日、社内の先輩が「とうとう手ぶら通勤になった」と言っていました。なんとうらやましい、憧れの「手ぶらサラリーマン」。しかし、僕の場合、一生なれそうにないです・・・。

次の早坂アナウンサーでこのテーマはおしまい。「女性ならいつも身につけているもの」と言ってましたが、何?

みどりと言えば

佐藤 拓雄

2008/05/20

先週金曜日に書いたばかりなのに、もう当番が回ってきてしまいました。この「アナ・ログ」、順番は厳正な抽選によって決めているので、たまにこういうこともあるんです。

写真は、4月最後の日に僕が撮影した定禅寺通です。前回の自分の順番のときにちょっと触れたデジタル一眼レフで新緑を写してみました。こうして見るとビルの谷間の通りがまるで森のように見えます。「都会の森」。そんなドラマもあったなあ。・・・話がそれましたが、僕はこの時期の定禅寺通がとても好きです。そんなわけで、今回のテーマは、「みどりと言えば」。

さて、みどりと言えば、清水ミチコ。
いきなり新緑と全く違う話で大変恐縮ですが、「みどり」と言われると、以前「夢で逢えたら」というお笑い番組で、清水ミチコが演じていた「みどり」という強烈なキャラクターが真っ先に思い浮かんでしまうのです・・・。いわゆる「ブスキャラ」。いやもうホントに強烈でした・・・。
・・・こうなったら脱線ついでにお笑い番組の話をします。
今は空前のお笑いブームだそうですが、僕もお笑い番組が好きです。原点は、小学生時代の「漫才ブーム」というこれまた空前のお笑い黄金期。当時一番好きだったのは、「4チャン」(関東地区の日テレの呼び方)で土曜正午から放送していた「お笑いスター誕生」。当時は土曜日も学校がありましたので、毎週終業と同時に走って家に帰り、明けた月曜日には、友達と「お笑いスタ誕」の話ばかりしていました。ルパン三世こと故山田康雄と中尾ミエの司会。とんねるずもこの番組で出てきたんですよ。九十九一(つくもはじめ)という芸人の斬新さにびっくりしたのが一番の思い出です。
「THE MANZAI(ザ・マンザイ)」という番組もありました。ビデオデッキが珍しい時代、「THE MANZAI」をラジカセに「録音」しているクラスメートがいて、そいつの家に行くと何度も聞かされました。
とりとめなさすぎなので、このへんで終わります。
しょうもない内容になってしまいましたが、定禅寺通のきれいな写真に免じて許してください。

次の原アナウンサーは、「みどりの○○」に思い出があるそうです。

子ども時代の宝物

佐藤 拓雄

2008/05/16

子どもの頃から、モノを大切にするタチでしたので、宝物はたくさんありました。
サンタさんにいただいた「パトカーの運転台のおもちゃ」や「マジンガーZのジャンボマシンダー」、小学校3年か4年の頃に流行った「怪獣スタンプ」などは、今持っていれば、別な意味でお宝なのかもしれませんが、どれもどこかへいってしまいました。なぜだろう。

それはともかく、小学校1年生頃、ものすごく大切にしていたのが、カメラです。父が買ってくれたものだと記憶しています。当時の父はかなりカメラに凝っていて、いつもペンタックスの一眼レフで運動会などの写真をたくさん撮ってくれました。父がカメラの手入れをしている姿もよく見ました。シュッシュッと空気を吹きかけてほこりを取ったり、レンズを磨いたり。そんな父を見ていたせいなのか、自分のカメラが欲しくて欲しくて・・・という経緯で買ってもらったものだったはずです。おもちゃではなく、子ども用でもありませんが、操作はほとんどシャッターを押すだけというもの。ピント合わせも必要なく、子どもでも簡単に操作できましたが、きちんとした写真が撮れました。
機種名もいまだに覚えています。「サクラパック100」。インターネットで検索してみたら、写真つきで見つかりました。そうそうこういう形だったなあ。コニカの製品だったんだ・・・非常に懐かしく、当時のことが思い出されました。
撮った写真で今も印象に残っているのは、6歳年下の弟が赤ちゃんの頃、風呂上りに素っ裸で部屋中を楽しそうに這い回る姿。祖父と散歩に行ったときに写真を撮ったことも、心に残っています。それにしても、フィルム代・現像代のことなどあまり考えず、パシャパシャ撮っていたなあ。
ただ、子どもの頃のカメラはこの一台だけ。カメラ少年になることもなく、中学、高校、大学、そして独身時代と、ほとんど写真を撮ることはありませんでした。
再び頻繁にシャッターを押すようになったのは、子どもが生まれてから。成長を残しておきたいという一心で、デジカメであるのもいいことに、膨大な量の写真を撮っている自分がいます。
デジカメも次々に買い替え、とうとうデジタル一眼レフまで買っちゃいましたが、その原点は、「サクラパック100」にあるのです。

次回は、このテーマのトリ、寺田アナウンサーです。

私のひとり暮らし

佐藤 拓雄

2008/04/18

19年前、1989年のちょうど今頃、大学入学と同時に僕の一人暮らしは始まりました。
最初のアパートは今考えてもかなりすごいアパートでした。6畳一間で家賃2万3千円、風呂・トイレ共同、築何年か不明(なほど古い)の木造2階建て。ドアは蹴ったら破れるんじゃないかと思うようなアルミ製のもの。壁も薄かった。さらには階段を誰かが昇り降りすると部屋がガタガタと微妙に揺れました…。
なぜそんなアパートに入ったのか?父の知人のお母さんが経営していて、その紹介で。それだけです。まあこんなものかなあ、と思って特に疑問もなく決めました。
あ、そうそう、電話もしばらくありませんでした。加入権が高かったし、あまり必要なかったので。
つまるところ、風呂なしトイレなし電話なし、もちろん彼女もなし。
でも、アパートのボロさよりも、ないない尽くしの生活よりも、僕にとっては初めての一人暮らし。うれしさ、楽しさのほうがまさっていました。大学の友達と毎晩のように誰かの部屋に集まって飲んで語って笑って。そんな楽しい楽しい毎日でした。
ですが、アルバイトも始め、仕送りの範囲でのやりくりも分かってきて、さらには、風呂ぐらい入りたいときに入りたいものだとか、トレンディドラマのようでなくても、もうちょっと小ぎれいな部屋に住んでみたいとか、段々にそういう欲が出てきます。
結局、その年の冬、近所にできた、フローリング、ロフト付、家賃4万4千円也の新築アパートに引っ越しました。もちろん風呂・トイレ付、階段を誰かが通っても揺れることもなく、ドアも頑丈。一気にグレードアップしたのでした。
その後、仙台放送の社宅、太白区内のアパートと、約9年間一人暮らしをしました。
そう言えば、一人暮らしを始めた1年後の春に、突然花粉症になりました。一人暮らしの自堕落な生活態度がいけなかったのかもしれないと思ったりしますが、後悔先に立たず。

次の当番は梅島アナウンサーです。箱入り娘を一人暮らしに出すとき、親御さんは、さぞかし心配されたことと思います。

私の新人時代

佐藤 拓雄

2008/03/28

入社当時の身分証明書が今もありました。これはその写真です。自分で言うのもなんですが、今よりスリムな点を除けば、あまり変わっていないような気がします。妻には爆笑されましたが、子どもたちはあまり驚かなかったので、それほど変わっていない、ということだと思っていいのかな、と。ビシッとした髪型にに新入社員の肩の力と初々しさが(笑)

さて、僕が仙台放送に入ったのは、1993年、15年前です。
入社1年目、担当番組、もちろんなし。夜の定時ニュースまたは昼のニュースまたは「スーパータイム」のスポーツコーナーが出番の全て。それ以外は、来る日も来る日もアナブースにこもり、発声練習、滑舌練習、ニュース原稿の読み練習を繰り返していました。要するに、人目に触れる仕事は非常に少なく、給料をもらいながら研修を続けていたようなものですが、練習はいつも一人。孤独でした。
同期入社の報道記者が一人前に記者リポートをこなしていたり、制作に配属された同期が番組制作にしっかり関わっていたりするのを見るにつけ、正直、僕はこんな毎日でいいのだろうかと悩み、不安だらけでした。入社したその日から「アナウンサー」と呼ばれているのに、自分の実力は「アナウンサー」たりえていない。自分が一人前になる日など訪れるのかと、出口の見えないトンネルの中で、もがき苦しんでいました。
今にして思えば、ニュースなど本番に臨む機会を設けながら、基礎を築く余裕を与えるという、当時の上司のバランスの取れた配慮に頭が上がりませんが、当時は辛かったなあ…。
なんだかやけに暗い話になってしまいましたが、決して「即戦力」ではなかった僕が今もなんとかやっていられるのは、この時期があったからこそ。4月には新人アナウンサーが入ってきますが、地道な基礎を大切に、新人時代を過ごしてほしいと思っています。

次は、大先輩、浅見アナウンサー。写真をチラッと見せていただきましたが、いやー、若い若い!あ、すみません。

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