アナ・ログ

スポーツの秋

佐藤 拓雄

2007/10/03

先日神楽坂に住む弟を訪ね、行ってきました、「拝啓、父上様」のロケ地。ドラマの中で「料亭 坂下」として使われていたのは、元料亭で現在は手頃な価格で京料理が食べられる「祇園 をいしんぼ」という料理屋だそうです。黒い板塀に「おお、まさにこれ」と興奮状態ですが、写真は、ちょっと気取って倉本聰の世界観を出してみました(笑)

さて、スポーツの秋。
「マー君、神の子、不思議な子」とは野村監督の名言ですが、ここにもいますよ「神の子」が。かく言う私です。…って、別に大したことではないんですが、今シーズン、僕が見ていると、不思議と負けないんです、楽天が。
しっかり数えたわけではないというのが弱いところなんですが、僕の勝率は軽く5割越え、いや、7割以上ではないかと思います。クライマックスシリーズどころか、優勝しちゃいそうな勢いです。しかも、テレビ観戦のみ、というのがミソ。
帰宅後、テレビをつけると、大体試合は終盤。ここでリードされていても、不思議と何かが起きるんです。終盤の大逆転、サヨナラ勝ち、延長の末の勝利。そういう勝利に何度酔いしれたことか。
反対に、テレビ観戦できなかった日は、どういうわけか負けゲームばかり。本当に不思議です。
シーズン序盤はともかく、この「神通力」は、シーズンを通して続きました。いつの頃からか、会社に残って「すぽると」の編集をするスタッフに、「今から帰って見るから、待ってろよ!これから大逆転だから」と自信満々に言い残して帰宅するのが定番になってきました。大逆転の翌日は、「ほら言ったとおりでしょ!」と鼻高々。ホント、こういうことが多かったなあ、今シーズンは。
もちろん楽天の勝利数自体が多かったのが何よりの要因ですが、自分が「神の子」であると信じて(笑)、初優勝まで「念力」を送り続けようと密かに誓っています。
そして、初優勝の日「オレは○年待ったんだー」と叫ぶ、そんな「スポーツの秋」を夢見ています。

続いては、出射アナウンサー。水球部のエピソードを以前書いてましたが、「スポーツの秋」と言えば?

食欲の秋

佐藤 拓雄

2007/09/28

お酒も好きですが、僕はかなりの甘党です。特に好きなのが、大福。本日も、会社のデスクで、こうしておやつに大福をほおぼっています。

そんな甘党の僕が夢を叶えたお話を一つ。

小さい頃から甘党で、母の作るケーキやクッキーが大好きでした。中でも特に好きだったのがアップルパイ。子どもながら、いくらでも食べられる、というくらい好きでしたが、いくら手作りでも、モノには限度というものがあります。普段は、焼いた一枚を家族5人で切り分けて食べていました。当たり前ですね。
「ああ、もっと食べたいなあ」と、いつも欲求不満と満足感とが入り混じった複雑な心境で、大事に大事に食べていたのをよく覚えています。
そんなあるとき、ふと思いつきました。
「そうだ!自分の誕生日なら、一枚全部自分で、とお願いしても聞いてもらえるんじゃないか?」と。
小学校の高学年くらいの年齢だったでしょうか、そのへんはちょっと記憶が曖昧なのですが、当時の僕にとっての究極の夢を、誕生日のお願いとして申し出てみました。やはり「誕生日」という理由づけは強い。母はあっさりOKしてくれました。
待ちに待った9月25日、直径30cmのアップルパイが丸々すべて僕のものになりました。
なんという幸せ。究極の夢が叶った瞬間でした(笑)
でも、悩んだのは、その食べ方。一気に食べるべきか、少しずつ大切に食べるべきか。究極の夢が叶ったあとに待っていたのは、究極の選択でした。
結局どうしたか。悩んだ挙句、毎日少しずつ切り取って、3日くらいかけて大事に大事に食べ切りました。実に満足度の高い誕生日プレゼントでした。
今の自分だったらどうするかな。そもそも何でも「大人買い」ができるようになると、こういう「気持ちの贅沢」みたいなことが減ってきますね。いいような悪いような、です。
でも、アップルパイを丸々一枚、というのは、いまだにやってみたいです。メタボにはなりたくないので、現実的にはできませんが。

祖父母の思い出

佐藤 拓雄

2007/09/06

小学3年生の長男が、この夏休み、足しげく、「おじいちゃん」(僕の父)のもとへ通いました。土日と旅行中をのぞき、ほとんど毎日、午前中の1時間を、「おじいちゃん」のところで過ごしていました。
何をしていたかというと、自由研究。長男が、この夏休みの自由研究のテーマとして選んだのが、「佐藤家の歴史」、つまり、自分のルーツを探るということ。「おじいちゃん」が、以前にいろいろ調べていたことを知っていたので、「じゃあ、まずおじいちゃんに聞いてみたら」ということから、こうなったのです。
「おじいちゃん」の調べた分量もかなりのもので、その話をまとめるだけでも相当な内容になることが予想されました。限られた時間でどの程度できるのか、僕としては未知数なところもあったのですが、こちらの予想をはるかに超えた、粘り強い取り組みになりました。…と言ったら、長男と「おじいちゃん」に失礼かな?…ともかく、長男は、毎朝、自分から「おじいちゃん」に電話をかけ、「きょうは何時からできますか?」とアポを取り、時間になると、何をおいても、いそいそと出かけていき、みっちり、「おじいちゃん」の講義を受けてきます。一度だけその様子をのぞいてみたのですが、実に集中して取り組んでいて、「おじいちゃん」とわが子の強い師弟関係(?)に感心してしまいました。
さらには、「おじいちゃん」との、日帰り二人旅で、佐藤家「発祥の地」の実地調査まで敢行。満足げに帰宅した長男は、母親にこう言ったそうです。「僕も孫にこういうことしてあげたいんだ」。
そんな、おじいちゃんと孫の関係を、息子であり親である僕は、なんともうらやましく思います。僕の祖父母は4人とも優しい人たちでしたが、僕の長男ほど近くに住んでいたわけでなかったこともあって、ここまで濃密に過ごした記憶はありません。長男にとって、こうして「おじいちゃん」と過ごした思い出は、何にも代えがたい宝物になることでしょう。うらやましいと同時に、長男と「おじいちゃん」がそのような関係でいられることに心から感謝したいと思っています。

写真は、僕の父方の祖父。僕が10ヶ月の頃のもので、祖父はこのとき70代だったはずですが、こうして毎日仕事に行っていました。現役時代の長い、元気な祖父でした。

次は、原アナウンサーです。

宿題あれこれ

佐藤 拓雄

2007/08/13

夏休みも後半。児童生徒の皆さん、宿題は、はかどっていますか?というわけで、今回のテーマは、「宿題」です。

写真は、我が家の子どもたちの夏休みの「宿題帳」をちょっと拝借しました。

さて、僕が小学校3年4年のときのことです。担任の先生が出す宿題がやたら多い時期がありました。そのほとんどが漢字のプリント。漢字を一字につき10回くらい書いて、さらに漢字辞典で「成り立ち」を調べて写し、熟語を5つくらいと、その漢字を使った文も書く、というような内容だったと記憶しています。そのプリントが毎日何枚も出されました。一枚に10個くらいの漢字があって、複数枚。3年生4年生くらいにとっては相当な分量です。
全てやるには、かなりの時間がかかります。でも、やらずに明日学校へは行けない、となぜか猛烈なプレッシャーを感じ、健気なまでに取り組む毎日でした。
「タークーオーくーーーーん、あーそーぼーーーーっ!」
家の下から、友だちが呼ぶ声がします。でもまだ宿題は終わっていません。
「今、宿題やってるから、あとでー」
窓から顔だけ出して、断りを入れる僕。そう言えば、その友だちの宿題はどうなっていたんだ?ま、それは今となってはどうでもいいのですが、そんなやり取りをしていると、なんで僕だけこんな目にあわなくちゃいけないんだと、どんどんどんどん情けなくなってきて、しまいには泣けてきます。泣きながら、それでも漢字プリントに取り組む僕を見て、母親も呆れ気味。こうなってくると、もう何が何でも宿題をやりきってやる、という意地くらべです。誰と戦ってるのかよく分かりませんが。

今、自分の子どもたちを見ていると、さすがに泣きながらやるほどの分量の宿題は出ていないようですが、それだけに、「これをやらないと明日学校へ行けない」というプレッシャーを感じることもないようです。どっちがいいとも悪いとも言えませんが、そんなわけで、僕は、宿題というと、漢字のプリント、友だちが僕を呼ぶ声、涙、そんなものがいっぺんに頭によみがえってくるのです。

続いての早坂アナウンサーは、宿題をした場所に思い出があるとか。

夏休みの思い出

佐藤 拓雄

2007/08/06

僕が小学生の頃の夏休み、というと、必ず思い出されるのが、「特急ひばり」です。クリーム色(肌色?)の車体に赤いライン、車両に近寄ったときのモワッという温度や独特のにおい、上野駅の蒸し暑さ、列車の中で食べた冷凍ミカンやホタテの貝柱。どれも五感でよみがえってくる感じです。
向かう先は、いつも郡山。夏休みと言えば、必ず郡山でした。福島県の郡山市です。父の実家があり、祖父母に会いに行くのが、恒例行事になっていたのです。
当時はまだ東北新幹線開業前。東京に住んでいた僕たちは、上野発の「特急ひばり」に乗って郡山へ行く日を、何日も前から指折り数えて楽しみにしていて、それこそ前日は興奮して眠れない、なんてこともあったような気がします。
郡山には4~5日泊まるわけですが、特にビッグイベントがあるわけでもなく、せいぜい阿武隈洞や猪苗代湖、会津若松の鶴ヶ城を見に行ったことがあるくらいで、ほとんどは、祖父母の家の周辺で過ごしました。新鮮なトウモロコシやトマトを縁側で食べたり、近所の駄菓子屋で買い物したり、近くの公園で模型飛行機を飛ばしたり。
大人になって考えると、ホント、なんでもないことばかりをして過ごしていて、どこにも行ってないよなあ、と思います。でも、それでも、子ども心には楽しくて仕方なかった大切で幸せな思い出。つくづく「モノより思い出」だなあと思いますし、自分の子どもたちにも、「モノより思い出」をたくさん作ってあげられるといいなと思っています。

写真は、撮りたてホヤホヤ、今年の夏休みの思い出の一枚です。家族で沖縄へ行ってきました。本島のちょっとした離れ島のビーチです。文字通り透きとおった海に一家で大感激!ひざ上くらいの浅いところなのに、ちょっと水の中を覗くと、熱帯魚がたくさん泳いでいました。
子どもたちが大人になったときに「モノより思い出」と思える旅行になっていればいいと思っています。

それにしても、「特急ひばり」の終着駅・仙台に住むことになろうとは、その当時は、夢にも思いませんでした。人生は不思議です。

続いての出射アナウンサーは、今でも夢に見るほどツラい思い出があるそうです。どういうこと!?

夏と言えば

佐藤 拓雄

2007/07/17

夏と言えば、ビール!まあ、夏でなくてもビールですが、それはそれとして、夏と言えば、ビールでしょう、やっぱり。
仕事を終えて帰宅し自宅で飲む一杯は最高です。時々これが目的で仕事をしているのではないかと思うほどです。…いや、それは言いすぎか。でも、父も、現役時代、「ビールはお父さんの生きがいだ!」と笑って毎日飲んでいたなあ。
ま、そんなわけで、ついつい毎晩飲んでしまいます。先日、某ビール会社から、「クリーミーな泡のできるグラス」が当たり、「おお、これはいい」と、またまたビール。
一方で、メタボリックや肝機能の数値も気にはなり、「よし、今日こそは休肝日だ」と、意を決して帰宅するのですが、そんな僕のささやかな決意を知ってか知らずか、妻は、毎晩のようにビールを飲みたくなるような美味しい料理を用意してくれるのです(笑)。しかも、「休肝日」と決意を固めた日に限って、小料理屋の「晩酌セット」か?と思うような、気の利いた料理が食卓に並びます。となると、「これで飲まないのでは妻に悪い」と、簡単に自分を正当化して翻意する調子のよい夫。妻は妻で、「クリーミーな泡のできるグラス」をいそいそと運んできます。こうして、美味しいビールとともに、いつもの夏の夜が更けていくのでした…。なんのこっちゃ。

写真は、お約束。ビールと言えば、ナイター中継。今夜も楽天に乾杯!

お次は、スーパーニュースの相方・林アナウンサーです。

子どもの頃なりたかったもの

佐藤 拓雄

2007/07/03

子どもの頃なりたかったもの、それは、コックさんです。幼稚園時代の夢です。
きっかけは、母親によると、帝国ホテルの当時の料理長・村上信夫さん。テレビで見た村上さんのピンとそびえ立つコック帽に一目惚れしたらしいです。フランス料理の村上さんですから、「コック」ではなく「シェフ」というべきかもしれませんが、料理人=「コックさん」が当時のボキャブラリーの限界でした。
それはともかく、幼稚園児の僕は料理はできませんでした。要するに「形」から入ったわけです。
そして、どういうわけか、「東大に入ってフランス語を勉強して、フランスで料理人の修行をして、帝国ホテルの料理長になる」などという、幼稚園児らしからぬ、しかし、現実的なのか現実離れしているのか分かりかねる、具体的なプランを幼稚園の先生などに話して驚かれていたそうです。

さて、そのプランのどれ一つとして現実になっていないことは言うまでもありませんが、実は、「コックさん」の夢はちょっとだけ実現しました。
浪人時代、気分転換と予備校の学費の足しに、という名目で始めたファミリーレストランのアルバイトです。
はじめは、コックさんの夢などとっくに忘れ、「ウエイターをしたい」と面接に行ったのですが、「厨房の手が足りないから」と、作るほうに回されました。ハンバーグ焼きから始まって、スパゲティ、グラタンなどの調理を主にやりました。家で料理をすることなどほとんどなかった僕が、フライパンの中身を片手で返せるようになったり、塩・こしょうのふり方が格好良くなったり、思わぬ収穫もありましたが、なんといっても最大の収穫は、コックの格好ができたこと。白いコック服、そして、幼き日に憧れた白いコック帽。村上信夫さんほどの高さではありませんが、「ああ、そういえば、こういうのに憧れていたことがあったなあ」とちょっと感激したことを覚えています。
今になって悔やまれるのは、そのとき、写真を撮っておかなかったこと。当時は、携帯電話のカメラもデジカメもない時代、いつもカメラを持っている人なんてほとんどいませんでしたので、そんな発想がまるでありませんでした。

ちなみに、現在、家では「男子厨房に入らず」状態。写真は、これ用に撮影しただけです。すみません。はい。

次は水上アナ。どんな夢を持っていたんでしょうね。

佐藤 拓雄

2007/06/08

雨と言えば、森高千里でしょう!カラオケの十八番です♪…もちろんウソです。

…さて、森高千里は大好きですが、雨はキライです。
雨が降るとそれだけで憂鬱な気持ちになってしまいます。空ばかりか室内も薄暗いし、雨で濡れる靴、ズボンの裾、カバン、服の袖、傘で一つ荷物が増えること、バスに乗るために傘を開いたり閉じたり、そういうものが全部煩わしくてイヤなんです。

でも、雨も悪くないなあと思ったことが一度あります。
小学校のまだ低学年の頃だったと思いますが、家族でハイキングへ行くことになりました。
日帰りハイキングとはいっても、家族でのお出かけとなれば、楽しみで仕方ありません。何日も前から、てるてる坊主をつるしたり、学校の遠足のようにおやつを買ったりして、心待ちにしていた記憶があります。
ところが、というか、このテーマですから、案の定というべきか、その日曜日は朝からグズグズの天気。お弁当とおやつをリュックに入れて一応出発したものの、駅に行く前に大雨になって、家に引き返しました。少し様子を見ていましたが、やむ気配はなし。楽しみにしていたハイキングは、中止になりました。雨なので外で遊ぶこともできず、楽しいはずの日曜日が、一転、退屈な日曜日になってしまいました。
すると、がっかりする僕たちを見かねたのか、両親が、家の中にレジャーシートを敷き、その上でお弁当を食べようと言い出しました。家の中なのですが、テーブルではなく、床にシートを敷いて車座になってお弁当を食べるのです。飲み物も水筒で飲みます。もちろんおやつもそこで食べました。
なんのことはありませんが、思いがけず、いつもと違う「非日常」なお昼ご飯になり、すごく楽しく、実際にハイキングに行ったかのようなワクワクする気持ちを味わうことができました。もしかしたら、実際に出かけるより楽しかったかも。何でも「気分」って大事なんだなあと思います。
そして、30年近く経った今でも、この時のことを思い出すと、微笑ましくも幸せな気持ちになるのです。

次は原アナウンサー。雨の続く時期になると抱える悩みがあるとか。

私のイチ押し~食べ物編~

佐藤 拓雄

2007/06/04

仙台の「百舌」という牛タン屋さん。そんじょそこらの牛タン屋さんではありません。
まずタンが違う。「厚い、美味い、柔らかい」。2cmはあろうかという超厚切りなのに、箸で持って口へ運ぶと、スッと離れていく感じ。そのくらい柔らかく、噛み切らずに食べられるのです。
しかも、その厚くて柔らかい牛タンを使ったメニューが実に豊富で、美味しいものばかり。塩焼きをはじめ、ステーキ、ホワイトソースがけなどなど、洋食のシェフだったというご主人ならではのメニューがずらり。
なかでも、タンカツは絶品。タンのカツですよ。薄い衣をつけたタンを、揚げるのではなく、少量の油で焼きあげる感じのカツ。これを、これまたタンの入った特製の味噌ダレでいただきます。
3年ほど前に、番組の取材でお邪魔して(写真はそのロケ中のもの)、以来、すっかりこのお店のファンになってしまい、家族を連れて行ったり、お昼時に一人で行ったり。
実はこのお店を気に入ったもうひとつの理由が、ご主人と奥様の人柄でした。勝新太郎似で一見気難しそうなご主人は、実は冗談好き・話し好きの気さくな方。大変研究熱心で、次々に新しいメニューを考え出し、運がいいと、その試作品を食べさせていただけることも。そして、いつもにこにこ、穏やかに笑っていらっしゃる奥様。
仙台へ来た知人友人を自信を持って案内できるイチ押しのお店・・・でした。
去年1月、そのご主人が急逝され、お店はそのまま閉店。もうタンカツを味わうことはできなくなってしまったのです。
働き盛りのご主人で、あまりに突然のこと、悲しく、そしてショックでした。お気に入りのお店、お気に入りのメニュー、そしてご主人の笑顔。それはいつもそこにあり、こちらが望めばいつでも会えるものだと勝手に思い込んでいた自分の浅はかさ。揃って「百舌ファン」だった家族も皆ショックを受けていました。
ご主人の急逝から1ヵ月後、奥様が馴染みのお客さんのためにと1週間だけお店を開けてくださいました。変わらぬ美味しさでしたが、いろいろな思いがこみ上げてきて、自然と涙が出ました。
「百舌」のタンカツ。もう味わうことはできませんが、記憶に残り続ける味です。
「百舌」は、現在奥様が牛タンの通信販売を続けてらっしゃいます。

このテーマ、最後は寺田アナウンサー。取材先でのお昼は必ずラーメンを食べるそうですが・・・

旅行

佐藤 拓雄

2007/05/01

ゴールデンウイーク真っ只中、ということで、今回のテーマは「旅行」です。

写真の日付は、1997年1月11日。10年前です。自分で言うのもなんですが、満面の笑みです。場所は、アメリカ・シカゴ、「マイケル・ジョーダンズ・レストラン」前。バスケットボールの神様・マイケル・ジョーダンのレストランです。
当時の僕は、「超」がいくつついても足りないほどの「バスケット狂」でした。高じて、同好の士6人で、「神様」の生の姿を拝もうと、もとい、観ようと、シカゴを訪れたのでした。そんな僕たちにとって、「マイケル・ジョーダンズ・レストラン」は、シカゴ・ブルズの本拠地と並んで、絶対に外せないスポット、「聖地」の一つでした。過去形なのは、残念ながら、このレストラン、ジョーダンが引退した今はもう存在しないからです。さびしいことこの上ありませんが、そういう意味でも貴重な思い出の地です。

そして、もう一つの聖地、というか、こっちが本筋の聖地ですが、シカゴ・ブルズの本拠地「ユナイテッド・センター」。当時はブルズの黄金期。全米のみならず全世界のバスケットファンが、ユナイテッド・センターを目指したと言っても過言ではないくらいで、当然チケットはプラチナペーパーです。しかしそこは、蛇の道は蛇といいますか、あるところにはあるものです。我々の旅行メンバーの一人が、入手ルートを見つけてくれました。そして、せっかく行くのだから、一列でも、いや1センチでも前で観たいと、ブルズのベンチの真後ろ7列目というシートを手に入れたのでした。値段は、ふせさせていただきますが、多分多くの人が驚かれるであろう高値です。でも当時は、全く惜しいと思いませんでしたし、今でもよかったと思っています。だって、考えてもみてください。100年に一人現れるかどうか、という不世出のスーパースター、マイケル・ジョーダンとたまたま同じ時代に生まれ、その試合を生で観られるなんて、一体どれくらい幸運なことか。ジョーダンの現役は10数年。ほんの少し生まれた時期が違うだけで、そんな機会には恵まれないわけです。ああなんと自分は幸せなんだろう・・・おっと、すっかり熱くなってしまいましたが、まあこんな贅沢も独身だったからできたこと。一生に一度くらいはアリですよね。

次は水上アナです。一人旅が好きそうなイメージですが、果たして?!

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