2017年 ともに 寺田 早輪子 2017/03/14 「話せば話すほど、思えば思うほど、お母さんの子供で良かった。」 これは、私が震災後に出会ったある女の子の言葉です。震災発生当時、高校生だった彼女は、津波でお母さんとおばあさん、ひいおばあさんを亡くしました。 震災直後は、泣いて過ごすことが多かったという彼女ですが、大学生になり、「自分の体験を、真剣に聞いてくれる人がいるならば話したい」と思うようになり、少しずつ、あの日からの思いを話してくれるようになりました。 一語、一語、自分の気持ちを表現する言葉を探しながら。丁寧に、丁寧にお話ししてくれました。「自分のことより、人のことを第一に思う母。思いの深い人だった。母を誇りに思う。」 出会った頃は10代の女の子だった彼女も、震災から6年が経ち、20代の大人に。この春には就職することが決まりました。 津波で、家族を、家を、母校を、思い出の景色を失った彼女だからこそ、伝えられる大切な言葉が、きっとあるはずと、私は思っています。 これほどつらいことはきっとこの先ないだろうと、思わせるほどむごい災害を経験した彼女は、ちょっとのことではへこたれない強い女性に成長しました。 あの日のお母さんの勇気を、自分の「誇り」に変えて、これからも彼女は歩いていくのだと感じます。 彼女がこれから歩んでいく未来に、たくさんの笑顔があふれていますように。 遠くから応援しています。☆写真は…、今年度もともに歩んできた木下アナウンサーと平野気象予報士。一緒に、パシャ!アナ・ログ。このお題は私がアンカーでした。2日ほどお休みをいただいて、17日から新たなテーマでお送りします!
2017年 ともに 梅島 三環子 2017/03/09 震災から6年。これまで、たくさんの方を取材させていただきました。被災した状況や、インタビューの時期によってみなさんの言葉は変わってきますが、どれも心に残る取材です。そのなかでも、特に忘れられないのは津波で奥様を亡くされたある男性への取材。今の気持ちを伺うと、「さみしい」とだけ言って涙を拭われました。非常にシンプルな言葉ですが、本当に思いのこもった言葉でした。大切な家族を失って、震災から経過する時間が長いほどどうして大切な人はいないのか…ふとした日常生活の中で苦しいほどに考えてしまう事だと思います。あの日の悲しみを繰り返さないために。あの日の記憶が風化されないように。この季節になると、毎年改めて自分には何が出来るのか考えさせられます。明日は、高谷さんです。
2017年 ともに 佐藤 拓雄 2017/03/08 震災翌月に放送を始めた「ともに」という番組を当初から担当しています。写真は、先日、その「ともに」で訪れた、山元町のいちご園の「いちごカレー」。ここにカレーをかけると、さらにインパクトのある見た目ですが、これがかなり美味しいんです!よかったらお試しください。さて、先日、デスクの整理をしていたら、「ともに」の番組開始にあたって当時のプロデューサーが作った、番組の最初の構成案が出てきました。手書きで、「書きなぐった」と言ってもよいような粗削りの書類。震災発生直後、私たちも大混乱の中、すべてが混とんとしていました。ただ、その構成案からほとばしるのは、とにかくこの未曾有の大災害からなんとか立ち直っていきたい、私たちの住む宮城を復興させたい、皆で「ともに」支えあいながら歩んでいこう、という強い思いです。今月で丸6年、私たち番組にかかわる人間は、その思いを忘れたことはありませんが、6年でずいぶん状況は変わってきました。去年、県が発表した県民意識調査では、7割以上の人が、「震災の記憶の風化が進んでいる」と回答しました。「風化が進んでいると感じる時」のトップは、「新聞やテレビなどでの取り上げ方」。テレビの人間として、実感と反省の念をもって受け止めました。6年経った今、発生当初から定期的な放送として続いている震災番組は、非常に少なくなりました。私たちマスメディアは、「記憶の風化」を懸念し、声高に訴えながら、一方では、人々が風化を感じる材料を提供しているとも言えるわけです。皮肉で実に歯がゆいですが、これが現実でもあります。しかし、だからこそ、私たちが、「ともに」を放送し続けていることに、少なからぬ自負もあります。番組を続けていること自体にも、大きな意義があり、メッセージになるのだ、と信じて、毎月、放送にあたっています。震災発生当初から、私は、「最後の一人が復興したといえるまで私たちは伝え続けます」と言い続けてきました。私たちの宮城県は、当時の「混とん」からはだいぶ抜け出した感はありますが、しかし、「最後の一人の復興」はまだまだ先になりそうです。その日が来るまで、いや、そのあとは、震災を知らない人たちに、私たちは伝え続けなければいけないのだと思っています。明日は、梅島アナウンサーです。
2017年 ともに 金澤 聡 2017/03/07 今年も沖縄県久米島の楽天春季キャンプの取材に行きました。去年10月、久米島は台風18号の影響で甚大な被害を受けました。室内練習場の窓ガラスが割れ、天井の一部も吹き飛ばされました。久米島球場のフェンスがなぎ倒されました。島の人たちは、球団創設からの久米島キャンプを途絶えさせてはいけないとわずか4カ月で修理を終えました。資材確保も相当難儀なことだったと思います。当然、そこには楽天の選手たちが何の心配なく例年通りキャンプに集中してほしいという思いもあったはずです。キャンプ休日には、毎年恒例の新人選手の島内観光PRも行われました。日本一の生産量を誇る島の名産である車エビの水揚げ作業をルーキーたちが体験しました。いつもと違う車エビの養殖場での作業でした。聞けば、例年体験できる養殖場が、台風の被害で作業ができないとのことでした。島民の方たちが被災しながらも、懸命に東北のチームを受け入れようと必死に取り組んでいました。ともに、復興を願っての久米島キャンプになりました。*写真は、ルーキーたちが体験した車エビの養殖場です。次回は、佐藤アナウンサーです。
2017年 ともに 飯田 菜奈 2017/03/06 ART CAFE BAR SEASAW。仙台で一番海に近い近いレストランです。お店がある七ヶ浜町の菖蒲田海水浴場は、国内で3番目に開設された海水浴場で、歴史があり、サーファーにも人気だったそうです。東日本大震災が起きるまでは…。雑草が生えた平地が広がる中で、ポツンとたたずむお店。SEASAWの前にだけ、数台の車が止まり、出入りするお客さんたちの明るい声がしました。ログハウスの店内は、木のぬくもりを引きたてる、かわいらしい装飾が施され、とっても落ち着く空間。そして、メニューの最初に書かれた言葉で、ハッとさせられました…。We will also live with sea.海とまた生きていく。海を見て、癒され海を見て、語らい海を見て、笑い海を見て、涙した色々あったでも海とは離れられなかったみんな思っている新しい街が必要だとここからまた始める。海とまた生きていく。いままでと、これからをつないでいく心を動かされました…。とっても素敵な文章。お店の強い決意も感じました。また地震が起きたら… また津波が来たら…常に、恐怖と隣り合わせではあるけれど、SEASAWは営業しています。海に一番近い場所で。ぜひ、一人でも多くの方に行っていただきたいお店。お店を拠点に、七ヶ浜町に活気が戻ることを強く願っています。地元の食材を使った洋食メニュー、とっても美味しかったです!私も、また行きます!お次は金澤アナウンサーです。