アナ・ログ

今年の自分を漢字1字で表すと

佐藤 拓雄

2011/11/30

私の場合、「揺」でしょうか。

3月11日の揺れ。
正直に言いますが、揺れの中をスタジオへ向かった時、あまりのすさまじい揺れから、とんでもない被害が出る、ということが頭をよぎり、ものすごく動揺しました。「この世の終わり」かと思うと、心臓がとてつもない速さで動き、口から飛び出しそうでした。
動揺の正体は、緊張ではありません。恐怖です。

発生直後からの緊急放送に入ってまもなく、県内全域が停電していることが分かりました。
ということは、この放送が、一番届いてほしい人に届いていないということか?では、誰に向けて放送しているんだろう?
心が大きく揺れました。

物資不足が深刻になってくると、我が家も、食料が先細りになり、ガソリンも給油できない、一番下の子のオムツもひょっとすると足りなくなる?というような状況に陥りました。当然のことながら、私はろくに家にも帰らず、仕事。スーパーの列にも、ガソリンスタンドの列にも並ばず、家族を守らなくていいのか、と心が揺れたりもしました。
しかし、家族を含めたすべての被災者のために、自分の使命を果たすしかない、と自分に言い聞かせ、仕事に向き合いました。

それから8ヶ月半。
今でも、震災と向き合う毎日ですが、取材、放送の過程でも、一体何をどう伝えるべきか、今必要な放送とは何か、常に悩み、揺れ動いています。
でも、一人の宮城県民として、ともに前へ進んでいきたい、という思いだけは、揺るがず、強く持っています。

次は、金澤アナウンサー。震災を経て、第2子ご誕生という、はたから見ても大きな出来事が続いた一年を送ったのだろうなあと感じましたが、果たして・・・

あなたのドラ1は?

佐藤 拓雄

2011/11/25

その人を初めて知ったのは、私が中学三年の夏でした。
夏期講習の帰り道、甲子園の中継に、駅前の商店街がざわついていました。
「1年生だってよ・・・」
池田高校を破ったその投手は、聞けば、4月1日生まれ。学年こそ一つ上ですが、実質同い年でした。

そして、その人は、翌年も、さらにその翌年も、甲子園を沸かせました。

私が大学受験に失敗し、悶々と浪人生活を送っていた頃、その人は、プロ2年目にして15勝を挙げ、輝きを放っていました。
同い年で天と地ほどの差があること、これはいったい何なんだろう、とひたすら憧れました。

仙台放送に入社し、新人として(正確には2年目ですが)もがいていた頃、その人は、巨人のエースとして、伝説の10・8で胴上げ投手になりました。

ひじを故障したときも、カムバックしたときも、巨人を退団したときも、メジャーに挑戦して大ケガをしたときも、メジャーのマウンドに立ったときも、引退したときも、そして、引退後も・・・
メディアを通してでしかありませんが、折に触れ、その考えや人となりを知れば知るほど、ますます尊敬の念が強くなりました。

真摯な姿勢、冷静な理論、前向きな考え方、人生観・・・やはり今でも、見上げるところにいる存在です。


桑田真澄さん。
1985年、ジャイアンツのドラフト1位です。


このテーマは次回で終わり。ラストは、林アナウンサーです。

冬が来る前に

佐藤 拓雄

2011/11/09

冬が来る前は、秋。
当たり前ですね、すみません。
こんなことを言うのは、秋から冬に向かう自然の話をしたいからです。

先月の「ともに」でも放送しましたが、1ヶ月ほど前、南三陸町志津川で、遡上してきたサケを見つけました。
放送用のカメラでは、しっかり撮影できましたが、私のデジカメでは、うまく写らなかったので、周辺の状況が分かる写真を掲載します。

八幡川という川の下流です。
河口から1キロほど。南三陸町役場があったあたりで、川の両側の建物は、ほとんどが流されてしまったような場所です。写真に写っている白い建物も、残っているのは外側だけで、中はすべて津波の被害を受けています。
周辺の土地にも、川岸にも、川底にも、今もがれきが残っています。
そんな川に、サケが戻ってきていたのです。時期が早いためか、数はそれほど多くありませんでしたが、時折すばやく泳ぎ、元気な様子でした。

先日は、がれきの隙間で大きな実をつけた「ど根性ナス」について書きましたが、同様に、またしても、自然のすごさを見た気がしました。
今回は、それに加えて、自然の大きなサイクルが、津波が来た後でも守られているということに、なんとも複雑な感情がわきました。

間もなく冬。
考えてみれば、あの日の後も、何事もなかったかのように春、夏、秋・・・と季節はめぐっています。
人間の営みと自然の営みのギャップ。でも、人間もまた自然の一部であり・・・

被災地で見つける自然には、いつもいろいろ考えさせられます。

続いては、飯田アナウンサーです。「宮城の冬は今度がやっと3回目、まだ寒さに慣れません」とのことです。

いも煮

佐藤 拓雄

2011/10/18

先日、取材で出会った被災地の方が、こんなことを話してくださいました。
「津波で自宅を失い、避難所にいたとき、山形の人が炊き出しに来て、芋煮を作ってくれた。体が温まっただけでなく、山形出身の自分にとっては懐かしい味で、本当にありがたかった。」
ギリギリの状況の中で、心も温めてくれた、芋煮。「故郷の味」というのは、そういうものなのでしょうね。

芋煮といえば、去年のちょうど今頃、長男の所属していた少年野球クラブで、芋煮会がありました。
部員だけでなく、それぞれの家族も参加してのにぎやかな芋煮会。当時1歳3ヶ月の次男も、「初・芋煮会」で、写真のように、空になった大鍋に頭から突っ込んだり大はしゃぎ。楽しいひと時を過ごしました。

ところで、この芋煮会。宮城県で暮らすようになった当時は、とてもカルチャーショックを受けました。
大学入学直後にもらった学生新聞か何かに、一年の行事みたいなコーナーがあり、そこに「秋と言えば、芋煮会」と当たり前のように書かれていたのですが、それまで関東で暮らしてきた私にとっては、生まれて20年で、初めて聞く言葉だったのです。
芋を煮る?どういうことだろう?芋を煮てどうするんだろう?何か、お供えでもするのだろうか?お祭りか何かの一種だろうか?
どうにもよく分かりません。
「芋煮会」=「河原などで豚汁を食べ、酒を飲み、時にはバーべキューもして楽しく過ごす会」だとは、全く想像できませんでした。

それから二十数年、もはや「芋煮会」に何の違和感もなく、当たり前の文化?習慣?として、私の中に定着しましたが、仙台生まれの妻や子どもたちには、もちろん、当たり前の行事であるだけでなく、故郷の味の一つなんだろうな、とも思います。とすると、私と彼らでは、感じる芋煮の味がきっと違うのでしょうね。

続いては、広瀬アナウンサーです。

2011年 秋

佐藤 拓雄

2011/10/05

写真は、先月上旬の南三陸町歌津地区で見つけた、ナスです。
「ともに」の先月の放送でもご紹介しましたが、自分でも写真を撮っておきました。

場所は、JR歌津駅の近く、津波で全てを流されたところです。(歌津駅は高台にありますが、その線路さえも流され、復旧のメドはまったく立っていません。)
ナスの後ろに見える建物は、津波の被害を受け、コンクリートの外側だけがかろうじて残った状態です。
がれきが撤去されて、更地になったこの場所で、コンクリートとがれきのわずかな隙間に根を張っていました。
長さおよそ15cm、丸々と大きな実で、いかにもおいしそうに見えました。

ちょっと前に、コンクリートの隙間から出た大根が、「ど根性大根」などと言って話題になりましたが、これは、言ってみれば、「ど根性ナス」です。

もともと生えていたものが、家や線路が流されるほどの津波に耐えたということはないでしょうし、こんな場所に誰かが植えたとも考えにくい。とすると、種か何かが流れてきて芽を出したのか、苗が流れてきて根付いたのか・・・
それにしても、すごい生命力。自然はすごいですね。驚きました。

4月に、名取市閖上で、津波で根元から折れた桜が花を咲かせた話題も放送したのですが、そのときは、生命の力強さを感じる一方で、大地震と大津波という自然の怖さ、それに対する人間の無力さを感じさせられた直後だっただけに、複雑な心境でした。

一方、このナスに関しては、単純に生命の力強さを感じられ、やはり半年という時間で私自身の心境も変化してきているのだな、とも改めて思いました。

ともかく、被災地に、ひっそりと、しかし力強く実をつけていた、ど根性ナス。
「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉がありますが、このナスだけは、誰にも食べさせられないなあ、などと思いつつ、現地を後にしました。

明日は、10月で入社丸半年を過ぎた、新人・稲垣アナウンサーです。

震災から半年

佐藤 拓雄

2011/09/14

写真は、何度も取材に訪れている南三陸町で、同じ場所から撮影したものです。
上が5月9日、下が9月5日。
小さくて見えにくいかもしれませんが、がれきが撤去され、風景はかなり変化しました。

現地で食事をできるようになったのも、大きな変化です。
6月ごろまでは、あらかじめ食料を用意して、被災地に向かいました。
今は、コンビニも、店舗を修繕したり、プレハブを建てたりして、多くが営業を再開しています。営業している食堂も増えてきていて、取材先での食事を仙台から持っていくことは、非常に少なくなりました。むしろ、積極的に現地で調達するようにしています。

一方で、3階建ての建物の屋根に乗っかったままの自動車、山あいの草むらで無残な姿をさらす小船、骨組みだけの建物など、手付かずのものも多く残されています。

人々の生活もそうです。

復旧に向かうところと、あの日のままのところ。

半年が経ち、被災地の時計は、同じ地域でも、その進み方に差が大きくなってきているように感じます。

次回は、金澤アナウンサーです。

2011年、夏

佐藤 拓雄

2011/09/09

会社の中で、蚊に刺されました。
入社以来初のことのような気がします。
私は、蚊に刺されると腫れる性質なので、これには困りました。
その日は、室内にもかかわらず、手足に虫除けスプレーをして仕事をしました。

「節電の夏」、仙台放送も、社内は常に28度以上。暑いです。
逆に、蚊にとっては居心地がよかったのでしょうか。
とすると、社内での虫さされは、節電の思わぬ弊害かもしれません。

「節電」の大合唱は、被災地にも及んでいます。
にもかかわらず、ある町で、仮設住宅にお邪魔したら、網戸がついていませんでした。
エアコンは付いていますが、県などは、仮設住宅でも、エアコンの設定温度を28度にするよう呼びかけています。
また、全てを流された方々の中には、エアコンの電気代も負担になるとおっしゃって、電力不足とは無関係に節電する方もいます。

涼しい日もありましたが、猛暑の印象が強い、この夏。
せめて、仮設住宅や避難所の方が、電気の心配などせずに暮らせるようにできないのでしょうか。

このテーマは、トリは、新人・稲垣アナウンサーです。

ともにII

佐藤 拓雄

2011/08/24

「ともに」という番組を、4月から担当しています。

番組では、様々な意味での「復興」をメインテーマに、宮城の今を生きる方々に焦点をあてながら、私たちの宮城がこの大災害から立ち直る、その一助になれればという願い、そして、絶対に忘れてはならないという思いをこめて放送しています。

5ヶ月が過ぎた今、取材や、皆様から寄せられるメール・FAXの声、そして、自分の日常生活などから感じられるのは、時間が経てば経つほど、県内でも、日常を取り戻しつつある地域と、いまだ避難生活を送る方のいる地域とで、日に日に広がる温度差です。

今月の番組では、家族を津波で亡くした仙台の男性が、仙台七夕まつりの設営や撤収の仕事に打ち込む姿をお伝えしました。
仙台の中心部などは、ややもすると、本当に地震があったのかと思うほど、日常が戻ってきています。その仙台の町の中で、深い悲しみを抱えながら仕事をしている方がいるという現実は、「海の町」の被災とはまた質の違う重さがあるということを、改めて思い知らされました。

復興の道のりは、まだまだ、本当に長いものになりますが、その長さに比例して、「温度差」は広がっていくと思われます。そういうなかで、復興の道のりを、ともにたどっていくこと、そして、伝え続けていくこと、これが私たち放送局そしてアナウンサーにできる「ともに」の、大きな柱だと思って、番組や日々の仕事に取り組んでいます。

続いては、この番組を「ともに」担当している、林さんです。

ともに

佐藤 拓雄

2011/08/10

2011年3月11日午後2時46分。
その時、私は、本社4階アナウンス部の自分のデスクにいました。
フロア中の携帯電話から「緊急地震速報」のけたたましい音が鳴り、報道フロアからも、「緊急地震速報」のサイレン音が聞こえてきました。
程なく始まった揺れは、どんどん強くなり、社屋全体が、まるで列車か何かのように、北の方向へ走り出すような感覚でした。
どのデスクからも物がドサドサと落ちてきます。
立っているのも困難なほどの揺れ。
アナウンサーとして、「とにかくスタジオに向かわなければ」と、激しい揺れの中、左右によろけながら、這うようにしてニュースセンターのスタジオへ。
まだ大きな揺れが続く中で、緊急の放送に入りました。

時間の経過とともに、次々に入ってくる情報ひとつひとつの、あまりの恐ろしさ、信じ難さ。
一体何度、全身が凍りつく思いをしたことでしょうか。

24時間体制の放送を続ける中、3日目の夜だったと思います。私はこんなことを放送で申し上げました。

「仙台放送では、随時、被害状況と生活に関する情報をできる限り詳しくお伝えします。どうかご活用いただければと思います。そして、一人でも多くの方のご無事が確認できるよう、祈る気持ちで、取材・放送を続けていきます。」

また、さらに数日後の放送では、こうも申し上げました。

「仙台放送では、同じ被災者として、何とか皆様のお役に立ちたい、ともにこの大災害から何とか立ち直っていきたい、そういう思いで取材・放送にあたっています。」

私は、これが、「ともに」の原点だと思っています。

私たちローカルのテレビ局の役割、すべきこと。この非常時に、改めてはっきりした私たちの使命と、私たちの思いを凝縮した「ともに」という言葉を胸に、日々の仕事に向き合っています。

末筆ながら、犠牲になられた方々に、心よりお悔やみ申し上げるとともに、今も困難な生活を送っている方々が、一日も早く元の生活を取り戻せますよう、お祈り申し上げます。

続いては、スーパーニュース担当、梅島アナウンサーです。

寒かった思い出

佐藤 拓雄

2011/02/23

先日、出張で熊本に行きました。
仕事に行ったわけですから、自由時間はなくてなかば当然ですが、滅多に行けないところなので、熊本城だけでも、と急ぎ足で見学してきました。

さすがは「日本三名城」の一つ、見事な天守閣でした。でも、調べてみると、「日本三名城」って、名古屋城、姫路城、大阪城、熊本城って、なぜか4つ出てくるんですが・・・
とにかく、もっと時間をかけてしっかり見学したかったですねえ。
なにしろ、このときは、飛行機の時間を気にしながら、天守閣前の広場まで文字通りカケ足で上がり、天守閣の中に入る時間はなく、写真だけ撮って、本丸御殿をさーっと見て、ものの30分で帰ってしまいましたので。

ともあれ、熊本城。
驚いたのは、その敷地の広さです。外から見える石垣が長い長い。
入るときにもらったリーフレットによると、面積は98万平方メートルとなっています。仙台の台原森林公園が約60万平方メートルだそうなので、その1.5倍もあることになります。

ところで、この時の熊本、例年にない寒さだったそうです。
宮城県で暮らすようになって20数年、冬に宮城より南へ行くと暑くて仕方ないと感じるほど、宮城の気温が自分の中で標準になってしまっていますが、この日の熊本、確かに、体で感じる寒さは、宮城とあまり変わりませんでした。

そんな寒さの中、靴を脱いで見学する「本丸御殿」に入ったところ、足が冷たい冷たい。廊下の板張りの床が、寒さでキンキンに冷えているのです。しかも高台だからか、けっこう風が強くて冷たく、庭に面した所はさらに寒いわけです。昔の人は寒いときは大変だったんだろうなあ、なんてあまりにベタな感想を持ちつつ、急いで見学して外に出ました。御殿の中は、まさに絢爛豪華。豪壮な大広間は、復元だそうですが、圧倒されました。

天守閣前の広場には、「加藤清正」がいました。虎と戦ってはいませんでしたが、観光客に囲まれ、「よう来たのう」とか言っていました。最近、各地のお城などにこういう「戦国武将」がいるようですが、流行りなんでしょうか?城がすごいだけに、こういう「実物」はビミョーだなあ・・・と別な意味での寒さを感じてしまいました。・・・すみません。

以上、最新の「寒かった思い出」でした。

原アナウンサーは、何が寒かったのでしょうか?

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