佐藤 拓雄
2011/08/10
2011年3月11日午後2時46分。
その時、私は、本社4階アナウンス部の自分のデスクにいました。
フロア中の携帯電話から「緊急地震速報」のけたたましい音が鳴り、報道フロアからも、「緊急地震速報」のサイレン音が聞こえてきました。
程なく始まった揺れは、どんどん強くなり、社屋全体が、まるで列車か何かのように、北の方向へ走り出すような感覚でした。
どのデスクからも物がドサドサと落ちてきます。
立っているのも困難なほどの揺れ。
アナウンサーとして、「とにかくスタジオに向かわなければ」と、激しい揺れの中、左右によろけながら、這うようにしてニュースセンターのスタジオへ。
まだ大きな揺れが続く中で、緊急の放送に入りました。
時間の経過とともに、次々に入ってくる情報ひとつひとつの、あまりの恐ろしさ、信じ難さ。
一体何度、全身が凍りつく思いをしたことでしょうか。
24時間体制の放送を続ける中、3日目の夜だったと思います。私はこんなことを放送で申し上げました。
「仙台放送では、随時、被害状況と生活に関する情報をできる限り詳しくお伝えします。どうかご活用いただければと思います。そして、一人でも多くの方のご無事が確認できるよう、祈る気持ちで、取材・放送を続けていきます。」
また、さらに数日後の放送では、こうも申し上げました。
「仙台放送では、同じ被災者として、何とか皆様のお役に立ちたい、ともにこの大災害から何とか立ち直っていきたい、そういう思いで取材・放送にあたっています。」
私は、これが、「ともに」の原点だと思っています。
私たちローカルのテレビ局の役割、すべきこと。この非常時に、改めてはっきりした私たちの使命と、私たちの思いを凝縮した「ともに」という言葉を胸に、日々の仕事に向き合っています。
末筆ながら、犠牲になられた方々に、心よりお悔やみ申し上げるとともに、今も困難な生活を送っている方々が、一日も早く元の生活を取り戻せますよう、お祈り申し上げます。
続いては、スーパーニュース担当、梅島アナウンサーです。