アナ・ログ

出会い

佐藤 拓雄

2020/04/20

何という春になってしまったことか。
自宅近くの桜はいつものように咲きました。【写真】
ただ、今広がっているのは、2020年を迎えた当初には、想像もしなかった世界です。

この春から大学に入り東京で新生活をスタートするはずだった長女は、4月の今もまだ仙台の自宅にいます。大学は閉鎖で新学期は現時点でも5月開始。それも当面オンライン授業とのこと。大学のキャンパスには、入試で行ったきり、一度も足を踏み入れられずにいます。
「出会いの春」の正反対、新たな「出会い」の全くない春。
全国の新入生が同じ思いをしていることと思います。
あと少しの辛抱・・・と思いたい。

長男も、大学キャンパスが閉鎖・立入禁止となり新学期が不透明な状況は同じです。こちらもこのあとしばらくオンライン授業となると発表されました。
先月仙台に帰ってきた後、東京に戻れる状態でなくなり、そのまま家にいます。

図らずも一家5人で過ごす毎日で、家が狭いなあと感じますが、この状況下で離れて暮らす我が子を心配するより、毎日子どもたちの顔を見て過ごせる安心感を持てていることには感謝しなくてはいけないのかもしれませんね。

今月から小学5年生になった次男は、学校生活が2月いっぱいでぷっつり終わってしまったわけですが、この長い長い春休みに、いくつか「出会い」がありました。
ひとつは、暇を持て余す次男に、私が物置きの中から解放した、漫画の「蔵書」たち。
「スラムダンク」、「ドカベン」、「大甲子園」、「ドカベンプロ野球編」と、いずれも全巻を、あっという間に読破しました。時間があるのだから、もう少しゆっくり読んでほしかったところですが、繰り返し読んでくれているので、よしとします。
もう一つは、家族が揃って家にいることが多いなか、引っ張り出してきたボードゲームの数々。次男は「ドンジャラ」と「UNO」に初めて出会いました。連日、この2つに加え、15年以上前から我が家の定番「ドラえもん日本旅行ゲーム」、トランプなどを繰り返す日々。

なんだか毎日がお正月のようですが、ふと我に返ると、今年のお正月は穏やかだったよなあと、今が異常事態であることを思い出し・・・

今回のお題はこれで全員書きました。
明日からは別のお題でお送りします。まずは、西ノ入アナウンサーです。

NEW

佐藤 拓雄

2020/03/31

おかげさまで、仙台放送アナウンス部は、今年も新しい仲間を迎えられることになりました。
今年は女性一人です。
今年も3月に入ってすぐから、アナウンスの研修を行っています。
私も入社当時この日程で研修を受けましたが、この時期に研修として毎日会社に行くことは、アナウンスの面だけでなく、社会人生活スタートにあたっての、とてもよい助走期間になり、精神的に大きな余裕を持って入社を迎えられたので、私たちとしては非常に大切にしている研修です。
まずは、一応入社前ですので、去年の堤君の時と同様に、後ろ姿で、広報写真撮影の雰囲気だけ(笑)【写真】
明日、本人の「初アナ・ログ」で、お目見えします。
どうぞよろしくお願いいたします。

ところで、私の「NEW」は、この春からの我が家の生活です。

長男に続き、長女も大学入学で東京へ。仙台の我が家は私たち夫婦と4月から小5になる次男の3人暮らしになります。
上の二人と年が離れていることもあって、次男はこれまでも何となく一人っ子っぽい扱われ方もしていましたが、これからは形の上でも一人っ子状態。
上の子たちのスケジュール優先という「末っ子の宿命」のようなことが多かったことを思えば、次男にとってはそれもよいのかもしれないと思ったりしています。

そして、この春から東京で新生活を始める長女。
新型コロナウイルスの影響で入学式は中止、新学期も遅れて始まることになりました。
やむを得ないこととはいえ、親としてはやはり残念です。
今年は、全国の卒業生と新入生、そしてその家族が、こういう思いをしたのですね。

ともあれ、また、我が子を送り出すことになり、長男を送り出した経験があるので少しは慣れたかと思いましたが、親としての感慨はやはり深いものがあります。
子育ての本当の卒業は、子どもが経済的に自立してからだと思っていますが、それにしても、一緒の暮らしが終わり、長女は長女の人生を本格的に歩み始める、この春。
親としてできるのは、健康に、そして、明るい未来が拓けるよう、離れた所から見守り祈るだけです。

さて、明日のアナ・ログは、新型コロナの影響もなく、無事入社式を迎える、私たちの新しい仲間、伊藤瞳アナウンサーです!

サンキュー

佐藤 拓雄

2020/03/17

「サンキュー」という言葉を普段あまり使わないので、このお題でパッと思いついたのは、パンサー尾形さんとドリカムでした(笑)
ドリカムは「サンキュ.」でしたか。

くだらない話はこのくらいにして。

東日本大震災は、発生から9年が経ちました。

9年前、何事もない普通の日が決して当たり前ではない、平穏な一日が明日もまたやって来ることは、文字通り「有り難い」ことなのだということ、日常が日常であることのありがたさを多くの人が感じたはずです。
もちろん私もその一人です。

私は、個人的には、震災の前後にも、日常のありがたさというものを強く感じる大きな出来事がありました。

そのたびに、平穏な日常にもっと感謝すべきだと心からそう思うのですが、情けないもので、喉元過ぎれば熱さを忘れる、ということなのか、そのありがたさをだんだん忘れてしまうんですね。

今回のコロナウイルス騒動でも、平穏無事がいかに奇跡的なことなのか、また痛感させられました。

震災発生から数えて10回目の3月11日を迎えた今、平穏な日々に感謝する気持ちを忘れてはいけないと、改めて思っています。

【写真】は、石巻の和菓子屋さんのいちご大福。私が知っているいちご大福の中で一番美味しい=世界一美味しい、と私は思っています。
ここの和菓子は、どれもすべて絶品で、あんこ大好きの私は、店のショーケースごと買い占めてしまいたいと思うほどです。
このお店も、震災で店舗の一つを失うなど、大きな被害を受けたと聞きます。
こんなにおいしいものが食べられることにも感謝の念を忘れず、ありがたくいただかなくてはいけませんね。

明日は、梅島アナウンサーです。

誕生日

佐藤 拓雄

2020/02/21

先日聞いた話ですが、福山雅治さんは、今も誕生日になると、親に「産んでくれてありがとう」とメールを送っているとか。
自分の子どもたちからそんなことをされたことないなあ、と思ったのですが、考えてみると、自分だって親にそんなことをしたことはありませんでした。自分だけ感謝されたいとは、随分都合がよすぎると反省した次第です。

それはともかく、昨日梅島さんが書いていたとおりで、私も、自分の誕生日より、子どもの誕生日のほうが大切です。

長男が生まれた日は、私にとっては「父親になった日」。
長女が生まれた日は、「娘の父親になった日」。
次男が生まれた日は、「3人の子どもの父親になった日」。

どれも、私の人生が大きく変化した日です。
だから、考えてみれば、私の方こそ、子どもたちに、「生まれてきてくれてありがとう」と感謝すべきなのかもしれませんね。

それでも、次男が「誕生日にはこれを買ってもらいたい」と当然のように言ってくると、誕生日は物欲の日か!とイラッとしてしまう自分がいます(苦笑)

【写真】は、私たち家族全員の誕生日に、私の父が炊いて届けてくれるお赤飯。もともとは母が炊いてくれていましたが、母が亡くなってからは、父が引き継ぐ形で、必ず届けてくれます。本当にありがたいことです。お赤飯を炊く親の思いは、自分が親になって初めて分かったことの一つです。

次は、高橋アナウンサーです。

寒さあれこれ

佐藤 拓雄

2020/02/17

先日、家の近くで霜柱を見つけました【写真】

暖冬の今年ですが、霜柱を見て、そういえば、と思ったことがあります。

私が仙台に初めて来たのは、1989年2月のこと。
大学受験のためです。
初めて降り立った仙台駅のペデストリアンデッキで、まず思ったのが、「風が痛い」ということ。
寒い、というよりも、刺すように痛い、という感覚でした。
やっぱり東北なんだなあ、という思いと、この感覚が意外と心地よい、と感じたことも覚えています。

そんな仙台に住んで、31年。
そういえば、いつの頃からか、「風が痛い」という感覚をほとんど感じなくなったと思うのです。

温暖化だからなのか、それとも、単に私が「寒冷地仕様」になったからなのか。
変わったのは、地球なのか私なのか、という大きいのか小さいのか分からない話になってしまいましたが、私の感じる寒さは、31年前とは、ちょっと違っています。

とは言え、家にいるときは、家族の中でも寒がりと言われてしまう私です。
中途半端に東北の人なのでしょうか・・・


明日は、寺田さんです。あれ?前回と同じだ。

1月22日はカレーライスの日

佐藤 拓雄

2020/01/27

私の通っていた大学には、当時、「貧食」と呼ばれる学食がありました。「ひんしょく」と読みます。
「貧乏食堂」の略とも、「貧民食堂」の略とも言われていました。
正式には、確か「教養部第二食堂」だったはずですが、キャンパス敷地の校舎から遠いところにあるプレハブの粗末な建物は、まさに「貧食」の名がふさわしいたたずまい。
ただ、「貧食」と呼ばれていたのは、外観より、破格の安さが理由でした。

メニューはカレーとスパゲティのみ(だったはず)。というのは、カレー以外のものを頼んだことがないからです。
とにかく、「貧食」と言えばカレーなのです。
最も安いのが、「カレー(小)」、私の記憶では150円。貧乏学生を救う、「神」価格です。
これを筆頭に、充実のカレーラインナップ。
私の定番は、「焼肉カレー」。薄切りの豚肉を焼いたものがのった、贅沢な一品です。とにかくこれが好きでした。それでも確か300円台だったと思います。
大きく乱切りしたニンジンやジャガイモがゴロゴロ入った「おふくろカレー」は、まさにおふくろの味。
財布に余裕があるときは、生卵をトッピングしたりもしたなあ。

少ない金額で腹一杯。お昼時には、毎日、貧乏学生の長蛇の列ができます。しかも、男子のみ。そして、グループでなく、一人で来る人が多かった。そんなムサい男の行列とあの外観では、女子は入りづらかっただろうと思います。
そのうち、時間をずらして行くことが増えましたが、それでも女子学生の姿はありませんでしたね。
逆にそういう気安さがあって、私の「貧食係数」は当時かなりのものだったと思います。

その「貧食」、残念ながら今はもうありません。
地下鉄東西線の工事のために、十数年前、惜しまれつつ閉店し、そのまま復活しませんでした。

実は、「貧食」最後の日に、同じ大学を出た記者と一緒に取材に行き、カレーを食リポし、学生に「貧食愛」をインタビューしました。
翌日のニュースで放送し、私の「貧食愛」を語る予定だったのですが、急な事件か何かで放送できなくなり、そのままお蔵入りしてしまいました。
最後までスポットが当たらない運命だったのかもしれません(涙)

【写真】は全く関係なく、独り暮らしをする長男宅を訪問した際に、近所で食べたインドカレー。バターチキンカレーが絶品でした。

明日は、寺田さんです。

2020

佐藤 拓雄

2020/01/06

あけましておめでとうございます。
2020年も、仙台放送ならびに仙台放送アナウンサー、さらには当「アナ・ログ」を、変わらずごひいきにしていただければ幸いです。
そして何より、皆さまにとってよい年でありますようにお祈り申し上げます。


さて、今年も初日の出を拝むことができました。【写真】
振り返れば、去年もおととしも、同じような初日の出の写真を載せていました(苦笑)
今年の写真でなくても分からないくらい同じような写真ですが、少なくとも、3年連続で雨も雪も降らず、雲もさほど多くなく、日の出が見えたことは分かります。

この年末年始は、曜日配列にも恵まれ、「働き方改革」なるものが追い風にもなって、結構長いお休みを取ることができました。
いっそ海外で年越しを!と思わなくもないですが、我が家には今年も受験生がいて、それ以前にそんな経済的余裕もなく、結局ずっと家で過ごすという、このところ毎年同じパターンでした。
長男長女が小さいころは、年末となれば毎年のようにどこかへ出かけていたのですが、数えてみると出かけない年末年始はこれで5年連続です。
まあ、家族そろってそこそこ健康に新年を迎えられたことに感謝すべきでしょうね。

健康といえば、今年の元日にふと話題になったのが、以前、元日早々妻が体調を崩して寝込み、にもかかわらず、私に「お雑煮を作れ」という指令を出して、私が渋々見よう見まねで作った年のこと。あれは一体いつのことだったか、考えても誰も思い出せません。
当時の写真などを見直してみると、どうやら2007年の正月のようですが、妻が「そんなに前だったっけ?」と言えば、長女は「いや私はもっと大きかったはずだ」など、全員の記憶はバラバラのまま。だいたい、今考えても、なぜ寝込んでいる人が指令を出してまでお雑煮を作らねばならなかったのか。妻曰く「前日に時間をかけて鶏ガラの出汁をとったから」とのこと。執念とでもいうべきものなのでしょうか(笑)
今年は無事妻が作ったお雑煮をそろって食べ、皆で笑った2020年の元日でした。

いずれにせよ、受験生のいる年末年始は、この2020年で一旦終わりになる、はず。
春からのことも含め、2020年は、我が家にとって、また新たな変化の年になりそうです。

明日は梅島アナウンサーです。

2019年を振り返って

佐藤 拓雄

2019/12/17

戦争と平和について、考えたり感じたりできた一年でした。

大きかったのは、いずれも出張の合間でしたが、広島と沖縄で戦争の跡に触れられたことです。

とりわけ、沖縄県南風原町にある「旧陸軍病院壕(ごう)跡」は、百聞は一見に如かず、感じること・考えることの多い場所でした。

沖縄の旧陸軍病院が、戦争が激しくなるに従い、建物ではなく、山の中に狭い横穴を掘り、「病院」として使用します。
1.8m四方の狭くて真っ暗なトンネルに、粗末な患者用の二段ベッドがあるだけの施設。医療物資も乏しく、著しく不衛生な環境下で、次々に運び込まれる傷病兵の世話をさせられたのが、戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる、女生徒たちでした。
壕の中は空気も薄く、暑さや悪臭もすさまじかったようです。外は銃弾が飛び交う戦場そのもので、極めて危険な状態。そのなかで、生徒たちは、仮眠もとれないほど働かされたそうです。

現在、その壕の一つが修復・整備され、ガイドの案内で入ることができます。
文字通り山を掘った長い横穴で、ここを「病院」ということ自体信じがたい空間です。【写真】のように懐中電灯がないと何も見えません。
今はベッドがありませんが、当時は、患者であふれかえる中、ベッドの脇をすり抜けるように移動していたと想像すると、天井の低さもあり、狭さや閉塞感は、今感じる以上だったことでしょう。

戦況のさらなる悪化で、陸軍病院はその病院壕も捨て、南へ撤退。今度は、「ガマ」という自然の洞窟を「病院」としますが、最後は、病院が「解散」、生徒たちは突然戦場に放り出されることになります。多くの生徒は、この「解散命令」後に命を落としたそうです。

敗色濃厚の中、「本土」への攻撃を遅らせる「時間稼ぎ」として利用され、多数の民間人が戦闘に巻き込まれた沖縄。
その歴史的事実の一端を、恥ずかしながら、この年齢にしてやっと、「肌感覚」として理解できた気がしました。

来年で戦後75年。
いつまでも「戦後」であり続けるように、戦争をもっと知っていかなければいけないとの思いを強くした2019年でした。

ちなみに、「病院壕跡」の脇には「憲法九条の碑」というのがあり、その意味は実に重いと感じました。

明日は、飯田アナウンサーです。

11/26 いい風呂の日「お風呂と私」

佐藤 拓雄

2019/12/05

【写真】は、愛媛県松山市の道後温泉本館内、「坊ちゃんの間」。かつて、夏目漱石が松山に教師として赴任した際、湯上りにくつろいだと言われる場所だそうです。
現在は、保存修理工事のため、非公開になっているようです。写真だとなかなか表現できていませんが、風情とはこういうことか、というようなことを感じる温泉でした。

さて、大学時代、最初に住んだアパートは、風呂・トイレ共同でした。しかも風呂に入れるのは、週3日だけ。
築何年か分からないほど古いアパートで、かぐや姫の「神田川」が聞こえてきそうな環境でした。

親から仕送りをもらう立場として贅沢はできないと、親に大いに遠慮したのと、そういうアパートでも、初めての一人暮らしで「自分の城」という意識があり、決して我慢してそこに住んでいる、という感覚はありませんでした。

ただ、汗をかく季節になって、その不自由さを感じるようになりました。
銭湯にも行きましたが、入りたい時に入れない、というのが、じわじわとストレスになってきました。
同時に、半年ほど一人暮らしをしてみて、なんとなくお金のやりくりが見えてきて、もう少し家賃が上がってもやっていけると思えたため、同じ町内に新築の物件を見つけ出して、引っ越しました。

風呂とトイレが分かれていないタイプのユニットバスでしたが、自分の中では、「文明開化」と言えるほどの(笑)ランクアップ。

12月中旬で寒くなってきたころの引っ越しで、手伝ってくれた友達は、帰り際「じゃあ、熱いシャワーを思う存分浴びてくれ」と言い残していきました。
その言葉通り、シャワーの蛇口をひねり、出てきた熱いお湯に、じんわりとありがたみを噛みしめた、大学1年の冬でした。

明日は、寺田アナウンサーのお風呂話です。

七五三

佐藤 拓雄

2019/11/22

七五三と言われてまず思い出すのは、やはり3人の子どもの七五三です。
自分の七五三は、もはや全く記憶がありません。

今回、子どもたちの七五三当時の写真を見返してみました。【写真】は、12年前、長女7歳の七五三。着付け完了!という一枚です。

印象的だったのは、長男5歳、長女3歳の七五三でした。
記念写真を撮るにあたり、3歳の長女は、初めて、ということばかり。
初めての和服、初めてのかっちりアップの髪、そして、初めてのメイク。
スナップ写真には、生まれて初めてファンデーションや口紅を塗られて、少々強張った緊張気味の表情が写っていました。あまりに口紅の色が濃いので、「これはいくらなんでも」と私が言って、落としてもらった記憶があります。
3歳の女の子のすべすべの肌に、メイクは不要でした。

一方で、アンシンメトリーにアップにしたヘアスタイルは、本人がかなり気に入ったようで、写真撮影が終わって、メイクを落とし、せいせいしたという表情で、普段の服装に戻っても、ヘアスタイルだけはそのまま、というスナップ写真もありました。

男の子は、着物を着るだけなので、長男は面白がっていたように思います。

それから11年後、今度は次男が5歳になり、記念写真を撮りました。
長男とは、顔や体形がかなり似ている次男ですが、性格はちょっと違い、着物の着付けの段階から、「服がキツい」とかちょっと文句を言って嫌な顔を見せたかと思えば、家族5人の写真には、かなり緊張したのか、硬い表情で母親の手をぎゅっと握って収まっていました。

七五三の写真撮影ひとつとっても、三者三様。
同じ親から生まれて、顔も似ていて、同じように大切に育てているつもりですが、つくづく、それぞれ別の人格なんだなあと思います。
三人それぞれ、自分らしく、自分の人生を健やかに歩んでほしい、というのは、七五三の日だけでなく、親として、永遠の願いです。


続いては、西ノ入アナウンサーです。

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