アナ・ログ

2020

佐藤 拓雄

2020/01/06

あけましておめでとうございます。
2020年も、仙台放送ならびに仙台放送アナウンサー、さらには当「アナ・ログ」を、変わらずごひいきにしていただければ幸いです。
そして何より、皆さまにとってよい年でありますようにお祈り申し上げます。


さて、今年も初日の出を拝むことができました。【写真】
振り返れば、去年もおととしも、同じような初日の出の写真を載せていました(苦笑)
今年の写真でなくても分からないくらい同じような写真ですが、少なくとも、3年連続で雨も雪も降らず、雲もさほど多くなく、日の出が見えたことは分かります。

この年末年始は、曜日配列にも恵まれ、「働き方改革」なるものが追い風にもなって、結構長いお休みを取ることができました。
いっそ海外で年越しを!と思わなくもないですが、我が家には今年も受験生がいて、それ以前にそんな経済的余裕もなく、結局ずっと家で過ごすという、このところ毎年同じパターンでした。
長男長女が小さいころは、年末となれば毎年のようにどこかへ出かけていたのですが、数えてみると出かけない年末年始はこれで5年連続です。
まあ、家族そろってそこそこ健康に新年を迎えられたことに感謝すべきでしょうね。

健康といえば、今年の元日にふと話題になったのが、以前、元日早々妻が体調を崩して寝込み、にもかかわらず、私に「お雑煮を作れ」という指令を出して、私が渋々見よう見まねで作った年のこと。あれは一体いつのことだったか、考えても誰も思い出せません。
当時の写真などを見直してみると、どうやら2007年の正月のようですが、妻が「そんなに前だったっけ?」と言えば、長女は「いや私はもっと大きかったはずだ」など、全員の記憶はバラバラのまま。だいたい、今考えても、なぜ寝込んでいる人が指令を出してまでお雑煮を作らねばならなかったのか。妻曰く「前日に時間をかけて鶏ガラの出汁をとったから」とのこと。執念とでもいうべきものなのでしょうか(笑)
今年は無事妻が作ったお雑煮をそろって食べ、皆で笑った2020年の元日でした。

いずれにせよ、受験生のいる年末年始は、この2020年で一旦終わりになる、はず。
春からのことも含め、2020年は、我が家にとって、また新たな変化の年になりそうです。

明日は梅島アナウンサーです。

2019年を振り返って

佐藤 拓雄

2019/12/17

戦争と平和について、考えたり感じたりできた一年でした。

大きかったのは、いずれも出張の合間でしたが、広島と沖縄で戦争の跡に触れられたことです。

とりわけ、沖縄県南風原町にある「旧陸軍病院壕(ごう)跡」は、百聞は一見に如かず、感じること・考えることの多い場所でした。

沖縄の旧陸軍病院が、戦争が激しくなるに従い、建物ではなく、山の中に狭い横穴を掘り、「病院」として使用します。
1.8m四方の狭くて真っ暗なトンネルに、粗末な患者用の二段ベッドがあるだけの施設。医療物資も乏しく、著しく不衛生な環境下で、次々に運び込まれる傷病兵の世話をさせられたのが、戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる、女生徒たちでした。
壕の中は空気も薄く、暑さや悪臭もすさまじかったようです。外は銃弾が飛び交う戦場そのもので、極めて危険な状態。そのなかで、生徒たちは、仮眠もとれないほど働かされたそうです。

現在、その壕の一つが修復・整備され、ガイドの案内で入ることができます。
文字通り山を掘った長い横穴で、ここを「病院」ということ自体信じがたい空間です。【写真】のように懐中電灯がないと何も見えません。
今はベッドがありませんが、当時は、患者であふれかえる中、ベッドの脇をすり抜けるように移動していたと想像すると、天井の低さもあり、狭さや閉塞感は、今感じる以上だったことでしょう。

戦況のさらなる悪化で、陸軍病院はその病院壕も捨て、南へ撤退。今度は、「ガマ」という自然の洞窟を「病院」としますが、最後は、病院が「解散」、生徒たちは突然戦場に放り出されることになります。多くの生徒は、この「解散命令」後に命を落としたそうです。

敗色濃厚の中、「本土」への攻撃を遅らせる「時間稼ぎ」として利用され、多数の民間人が戦闘に巻き込まれた沖縄。
その歴史的事実の一端を、恥ずかしながら、この年齢にしてやっと、「肌感覚」として理解できた気がしました。

来年で戦後75年。
いつまでも「戦後」であり続けるように、戦争をもっと知っていかなければいけないとの思いを強くした2019年でした。

ちなみに、「病院壕跡」の脇には「憲法九条の碑」というのがあり、その意味は実に重いと感じました。

明日は、飯田アナウンサーです。

11/26 いい風呂の日「お風呂と私」

佐藤 拓雄

2019/12/05

【写真】は、愛媛県松山市の道後温泉本館内、「坊ちゃんの間」。かつて、夏目漱石が松山に教師として赴任した際、湯上りにくつろいだと言われる場所だそうです。
現在は、保存修理工事のため、非公開になっているようです。写真だとなかなか表現できていませんが、風情とはこういうことか、というようなことを感じる温泉でした。

さて、大学時代、最初に住んだアパートは、風呂・トイレ共同でした。しかも風呂に入れるのは、週3日だけ。
築何年か分からないほど古いアパートで、かぐや姫の「神田川」が聞こえてきそうな環境でした。

親から仕送りをもらう立場として贅沢はできないと、親に大いに遠慮したのと、そういうアパートでも、初めての一人暮らしで「自分の城」という意識があり、決して我慢してそこに住んでいる、という感覚はありませんでした。

ただ、汗をかく季節になって、その不自由さを感じるようになりました。
銭湯にも行きましたが、入りたい時に入れない、というのが、じわじわとストレスになってきました。
同時に、半年ほど一人暮らしをしてみて、なんとなくお金のやりくりが見えてきて、もう少し家賃が上がってもやっていけると思えたため、同じ町内に新築の物件を見つけ出して、引っ越しました。

風呂とトイレが分かれていないタイプのユニットバスでしたが、自分の中では、「文明開化」と言えるほどの(笑)ランクアップ。

12月中旬で寒くなってきたころの引っ越しで、手伝ってくれた友達は、帰り際「じゃあ、熱いシャワーを思う存分浴びてくれ」と言い残していきました。
その言葉通り、シャワーの蛇口をひねり、出てきた熱いお湯に、じんわりとありがたみを噛みしめた、大学1年の冬でした。

明日は、寺田アナウンサーのお風呂話です。

七五三

佐藤 拓雄

2019/11/22

七五三と言われてまず思い出すのは、やはり3人の子どもの七五三です。
自分の七五三は、もはや全く記憶がありません。

今回、子どもたちの七五三当時の写真を見返してみました。【写真】は、12年前、長女7歳の七五三。着付け完了!という一枚です。

印象的だったのは、長男5歳、長女3歳の七五三でした。
記念写真を撮るにあたり、3歳の長女は、初めて、ということばかり。
初めての和服、初めてのかっちりアップの髪、そして、初めてのメイク。
スナップ写真には、生まれて初めてファンデーションや口紅を塗られて、少々強張った緊張気味の表情が写っていました。あまりに口紅の色が濃いので、「これはいくらなんでも」と私が言って、落としてもらった記憶があります。
3歳の女の子のすべすべの肌に、メイクは不要でした。

一方で、アンシンメトリーにアップにしたヘアスタイルは、本人がかなり気に入ったようで、写真撮影が終わって、メイクを落とし、せいせいしたという表情で、普段の服装に戻っても、ヘアスタイルだけはそのまま、というスナップ写真もありました。

男の子は、着物を着るだけなので、長男は面白がっていたように思います。

それから11年後、今度は次男が5歳になり、記念写真を撮りました。
長男とは、顔や体形がかなり似ている次男ですが、性格はちょっと違い、着物の着付けの段階から、「服がキツい」とかちょっと文句を言って嫌な顔を見せたかと思えば、家族5人の写真には、かなり緊張したのか、硬い表情で母親の手をぎゅっと握って収まっていました。

七五三の写真撮影ひとつとっても、三者三様。
同じ親から生まれて、顔も似ていて、同じように大切に育てているつもりですが、つくづく、それぞれ別の人格なんだなあと思います。
三人それぞれ、自分らしく、自分の人生を健やかに歩んでほしい、というのは、七五三の日だけでなく、親として、永遠の願いです。


続いては、西ノ入アナウンサーです。

「私、〇〇マニア?です。」

佐藤 拓雄

2019/11/08

出張の帰り、京都駅に偶然「ドクターイエロー」が!【写真】
20年近く前、当時「新幹線マニア」だった長男に付き合って、毎週のように新幹線を見に行ったことを思い出しました。

さて、それとほぼ同じ頃、何度かこのアナ・ログにも書いていますが、「ドラマニア倶楽部」という深夜番組をやっていたことがあります。

仙台放送以外の他局も含め、ドラマについて、生放送でひたすら30分間語る、という内容。
ドラマ好きの私が、仙台放送の先輩ディレクターとドラマの話でしょっちゅう盛り上がり、その先輩ディレクターの企画で始まった、マニアックな深夜番組でした。
インターネットが普及しつつあった時代で、ネットに掲示板を作り、不特定多数のドラマニア達の書き込みを次々に紹介してあれこれ言ったり、そんなところもなかなか斬新でしたが、今なら、すぐに「炎上」でしょうか。そう考えると、わずか20年でも、時代が大きく変わったと感じます。

番組のために、週に15~18本くらいの連続ドラマを観る日々でした。
録画機器が、VHSのビデオだけという、今からすると「原始時代」のような環境で、自宅に2台、会社に数台というビデオデッキを駆使して録画し、次々に観る毎日。
当然自分にとっては全く面白くないものも観なくてはいけないわけで、いくら「ドラマニア」と言えども、大変でしたが、単なるドラマ好きが仕事になるとは、テレビ局っていいよなあ、とも思った仕事の一つでした。

現在は、好きなものだけを好きなように観る、気楽なドラマニア生活。

最近は、インターネットで「北の国から」を一気に見直しています。連続ドラマだった1981年から82年の最初のシリーズ、その第1回からです。
ストーリー自体を忘れていたり、今この年齢で観ると、以前と随分捉え方が違うなあ、と思ったりもしますが、やはり、いい。全24回を終わり、「83冬」から「2002遺言」まで続くスペシャルを順次、という段階に入りました。

並行して、「踊る大捜査線」とか、さらにはるか昔のトレンディドラマとかまで観たりして、便利な時代を満喫する一方で、これではいくら時間があっても足りません。
「踊る」なんかは、ディスクに保存して持っているのに、また観てしまいます。
あ、これ、もちろん違法なものではなく、有料の公式動画ですよ。念のため。


次は寺田アナウンサーです。

お腹いっぱい食べたい!「秋の味覚」

佐藤 拓雄

2019/10/23

まずは、【写真】。言わずもがなの「はらこめし」です。
先日、妻の友人から手作りのものをいただきました。
これまた言わずもがなですが、美味でした。
「はらこめし」を食べると、「宮城の秋」という気がしてきますね。
宮城ならではの、大いに誇りたい料理です。
毎日食べてもいいくらい、それこそ「お腹いっぱい食べたい!秋の味覚」です。

ところで、今年は、サンマが深刻な不漁。これも毎日食べたいほどの秋の味覚ですが、この秋、我が家の食卓には、一度も上がっていません。

そのサンマにまつわるお話を一つ。

大学生のころ、宮城のサンマがあまりに美味しいので、実家の家族にも食べてほしいと思い、送ったことがあります。
脂ののった、丸々と太った大きなサンマが実家に到着。
早速母が塩焼きにしたそうですが、脂がのっているだけに、煙がすごい。
台所の窓を開けて煙を外に追い出しつつ、おいしそうなサンマが焼けてきたころ、遠くから消防車のサイレンの音が聞こえてきたといいます。
「どこかで火事かしら」と思っているうちに、サイレン音は家のすぐ近くに。
すると、玄関のブザーが鳴り、ドアを激しくたたく音が。
慌ててドアを開けた母の前にいたのは、なんと消防隊員!
「お宅が火事だと通報がありました!大丈夫ですか!!」
「はあ????」
お分かりと思いますが、窓からモクモクと出るサンマの煙が、近所の人に火事と間違われ、119番されてしまったわけです。
私のせいではありませんが、サンマを送ったことで、かえって申し訳ないことをしたと思いつつも、結局は笑ってしまいました。
以来、サンマの塩焼きを食べるたびに、この「事件」を思い出します。

それにしても、サンマ。
「お腹いっぱい食べたい!」どころか、このまま食べずにシーズンが終わるのではないか、と思う今年の秋です・・・

明日の当番は、西ノ入アナウンサーです。

コーヒーの話

佐藤 拓雄

2019/10/08

私は去年の夏までは、大のコーヒー好きでした。
しかし、この1年ちょっとコーヒーを全く飲んでいません。
胃の調子を悪くして、どういう訳か、コーヒーを飲もうという気が一切なくなってしまったのです。胃の調子がよくなっても、香りだけは大好きですが、重たいというか、胃に入れたくない感覚なのです。(酒は平気で飲むのに・・・苦笑)

代わりに好んで飲むようになったのが紅茶。
今までのコーヒーと同じ頻度で飲むようになりました。
そうなって感じるのが、コーヒーと紅茶の、似て非なるところ。
味とか、そもそも豆と葉だし、ということではなく、社会における位置づけです。ちょっと大げさか。

まず、コーヒーはだいたいどこにでもあります。
会社でも、コーヒーは、全員の共有のものとして豆を買い、常に淹れて置いてありますが、紅茶はそんなことはありません。自分でティーバッグを持ち込み、自分のために淹れて飲む。
打合せや会議などでは、当然のようにコーヒーが出てきますが、紅茶が出てくることはまずありません。「コーヒー飲めません」と言いにいことも多く、そんな時は黙って残すしかありません。
先日は、系列の会議で「コーヒー飲めませんので私の分は結構です」と言ったら、気を遣って紅茶をわざわざ持ってきてくださり、かえって恐縮してしまいました。
街にもコーヒー店はいくらでもあるのに、紅茶店はほとんどありません。(コーヒー店に紅茶は置いてありますが。)
ペットボトルや缶でも、コーヒーは迷うほど選択肢があるのに比べ、紅茶は実に少ない。駅の売店や自販機など、スペースの少ない所では置いてないことさえあります。
「お茶飲みましょう」は、「お茶」なのに、実態は「コーヒー」。

こんな世の中ですので、紅茶派の人はどこか肩身が狭いように思うのですが、それでも声を上げないほど慎み深いのか、そもそも本当に少数派なのか。
たかが紅茶ではありますが、少しばかり世の不条理を感じつつ、今日も職場ではマイ・ティーバッグで紅茶を飲んでいます。

【写真】最近お気に入りの、石巻産の紅茶「KITAHA」。東北では唯一の国産紅茶です。渋みが少なく、すっきりさっぱりした味わいが好きです。

明日は、高橋さんです。

ショックだったこと

佐藤 拓雄

2019/09/13

今日から新しいお題「ショックだったこと」。

この夏、次男の強い要望で、カブトムシをオスメス1匹ずつ飼いました。
どちらも、エサをたくさん食べ、飼育ケースの中を所狭しと動き回る、元気なカブトムシでしたが、夏が終わる前にそろって寿命が尽きました。
残念ですが、自然の摂理、仕方のないこと。

メスは、土の中に潜ったきり出てこなくなり、そこで命を終わらせたようです。
外に埋めるため、死骸を探して、ケースの中の土をそっと掘り返すと、もぞもぞと動く白い小さな幼虫が!

実は、死んだ2匹は、つがいとはいっても、同じケースで飼っていたのはわずか3日ほどでした。オスが非常に攻撃的なので、分離したのです。
ですから、卵を産んだかどうかは微妙だったのですが、2匹は、命を次の世代に繋げていました。なんという自然のたくましさと儚さ。
次男は「仲が悪いのかと思ったけど、本当は仲良しだったんだね」と、邪気のない一言。そう言う次男の心持ちに、清々しさも覚えます。

結局、少なくとも40匹はいる(!)ことが判り、親子で大いに心躍らせ、慌てて土を追加し、毎日様子を観察して、大切に育てています。

実は、私がカブトムシの幼虫を大切にしたい気持ちには、もう一つ理由があります。

小学生のころ、カブトムシの幼虫を飼い、重大な失敗をしたからです。
今も忘れない、本当にショックだった出来事です。

以前「昆虫」というお題の時に書きましたので一部を再録します。

・・・
サナギになって土の中にいるときに、気になって掘り起こしました。
サナギの姿を見つけて一安心し、土をかぶせましたが、やってはいけないことでした。
サナギになる時にカブトムシが自分で作った「部屋」を私が壊してしまったのです。
羽化したカブトムシは、羽の部分がつぶれて開かない状態でした。
デリケートなサナギの時期に土があたってしまったのが原因と考えられます。
自然の摂理に反した行為で生き物を傷つけ取り返しのつかないことをした・・・その心の痛みは今も忘れられません。
・・・

今度はこんなことがないように、そして、生まれてきた小さな命を死なせないようにと、観察と手入れの毎日です。

今回の【写真】は、在りし日のオス君。実に食欲旺盛でした。

次は堤アナウンサーです。どんなショックが?!

9月10日は牛タンの日

佐藤 拓雄

2019/09/09

牧君の言う通り、肉は大好きですが、鶏のムネ肉とササミは、パサパサするのであまり好きではありません(苦笑)

それはさておき、この夏、帰省した大学生の長男が、牛タンを食べたいというので、私と長男・次男という佐藤家の野郎3人で牛タン屋に行きました。
定型的な仙台の牛タン定食を、実はこれまで食べたことがなかったという小4の次男でしたが、一口食べて大喜び。「仙台人」として知っておくべきことを、また一つ知ったということでしょうか。ってそんなに大げさなことじゃないか。


さて、15年くらい前、ある番組で、仙台市内のお店を取材しました。

典型的な「仙台の牛タン店」ではなく、洋食の要素が入った、オリジナルのメニューを出す牛タン店でした。
そのとき取材したのは、絶品のタンカツ。
2センチはある厚切りのタンを、薄い衣で包み、浅い油で「揚げ焼き」のようにしたもの。歯ごたえのあるタン焼と違い、噛むとスッと肉がほぐれるような柔らかさでした。
朗らかで温かいご主人と奥様の人柄、そして、タンカツ以外のメニューも絶品ぞろいで、その後は取材抜きで昼も夜もしょっちゅう通う、大好きなお店になりました。

お気づきになった方もいるかもしれませんが、ここまですべて過去形で書いたのは、そのお店がもう無くなってしまったからです。
ご主人が急逝され、閉店してしまったのです。

このお店のことは、2007年6月の当アナ・ログで詳しく書きました。

読み返してみましたが、改めてこのお店のことが鮮明に思い出されます。
10年以上たちましたが、私の中でここに匹敵するお気に入り牛タン店は見つかりません。

さらに残念なことに、タンカツはじめ、このお店の料理を撮った写真が一つもありませんでした。
考えてみると、15年くらい前は、今のように何の料理でもすぐに写真を撮る、という時代ではなかったんですね。

仕方ないので、今回の【写真】は、先日、仙台放送の男性アナウンサー5人全員で食べた、とあるお店の超厚切りの牛タン。実にウマかった。


明日こそまさに「牛タンの日」。梅島さんの牛タン話です。

ちょっとラッキーなできごと

佐藤 拓雄

2019/08/22

先日、お盆に入るころ、家族で福島に一泊しました。
お墓掃除とお墓参りに小旅行を兼ねた、我が家の夏の定番コースのようなものです。

お盆休みの時期、しかも天気はあまりよくない予報で、どうなるかなと心配&覚悟をして出かけましたが、行きは上りだったためか全く渋滞なしですいすい到着。
天気も、雨は降らず、かと言って、日差しもほとんどないという、「お墓掃除日和」とでも言いたいくらいでした。

翌日は、思いつきで、裏磐梯から米沢へ抜ける峠越えのルートを行ったところ、これまた混雑なくすいすい。(ただし、かなりのつづら折りの道で運転はまずまずハードな感じがしました。)

峠を降りた米沢で、名物の冷たいラーメン【写真】に舌鼓を打ちました。美味い。
あっさりしているのに、しっかりした味のスープ(なんのこっちゃ?)、ツルツルした、やや細めのちぢれ麺。てっぺんに載った「ガリ」がさっぱり感を演出します。
あー、また食べたくなってきました。
ただでさえ「冷し〇〇」好きの私ですが、たまらない一品でした。
で、このお店が、入った時には、全く並ばず、すんなり座れたのですが、そのあと長い行列が。本当に数分の差です。

そして、米沢から仙台までの帰り道。
東北中央道~山形道は交通量は少なめ、混んでいるはずの東北自動車道下りは、わずかな区間しか走らなかったためか、これまた渋滞にはまらず。

満員電車なのになぜか自分の前だけ席が空いて座れちゃったりするという、ドラえもんのひみつ道具があった記憶がありますが、そんな感じさえする、「ちょっとラッキー」なことが続いた2日間でした。


明日は、寺田アナウンサーの「ちょっとラッキー」話です。

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