アナ・ログ

五月晴れ

佐藤 拓雄

2012/05/08

新緑の季節、写真は、昨日の仙台放送前。五月晴れに、並木の若葉が目に眩しいくらいでした。

さてさて、本題は、景気の悪い話ですみませんが、今年も、やはり花粉症に苦しめられました。

今シーズン一番ひどかったのは、先月中ごろ。
鼻水、鼻づまり、咳、頭痛、胃の痛み、微熱、頭はぼーっとする、さらには全身のだるさ・・・とまるでインフルエンザのような症状。
とどめは、声がれ。アナウンサーとしては、致命的です。
かかりつけの耳鼻科に駆け込み、症状は少しずつ改善し、放送に耐えられないほどの状況ではなかったので、なんとか「スーパーニュース」も「ともに」も、「欠席」して迷惑をかけるようなことはありませんでしたが、本当に辛かったです・・・

毎年恒例のことですが、こんな思いを毎年続けるって、やっぱりおかしい!
この時期は、仕事に向かうエネルギーはもちろん大きく減退するし、日常生活だって、ぐったりしていてほとんど何もできないのです。

厚生労働省のホームページを見ると、「正確な患者数はデータがないが、全国で2割を超えるという調査報告もある」という趣旨のことが書いてありました。
2割!2000万人は超えるって事ですよね。すごい人数!
今までも指摘がありましたが、これほど花粉症の人がいるとしたら、社会生活全体に多大な影響があるに違いありません。生産性、めちゃめちゃ下がるでしょう。もう、この時期は、日本全体をお休みにしましょうよ。
と言っても、各地で花粉の飛ぶ時期は違うし、言うほど簡単じゃないよなあ、ハァ~・・・

・・・と、それこそ生産性のない話をダラダラと書き綴ってしまいましたが、5月の声を聞くと、あの苦しみはなんだったのか、というほど、花粉症は鳴りを潜めます。

なので、五月晴れの空は、私の心も五月晴れ!
根本的には何も解決していないのですが、とりあえず、あと11ヶ月ほどは、悩まされない、と思えるだけでも、気持ちは軽くなります。
お題の「五月晴れ」にやっとたどりついたので、本日はここまで。

明日は、林アナウンサー。産休生活はどうですか?

2012年 春

佐藤 拓雄

2012/04/16

きょうからは、お題は、「2012年 春」。

先日、夜に駅前へ行って、気がつきました。
1年前の春は、こうではなかったと。

去年つまり2011年の春、4月20日過ぎのことです。
高校時代の級友が突然仙台放送を訪ねてきました。ボランティアをしに宮城県へ来たそうです。
関西在住で、何年も会っていなかった友人で、連絡先もお互い分からなくなっていましたが、震災のニュースで私の姿を見て、仙台放送に行けば会えると思って、来てくれたのでした。

その懐かしい友人と「食事でも」と駅前に行きました。
時刻は夜の8時半ごろでしたが、行ってみると、お店が軒並み店じまい。どのお店も、閉店時刻が午後8時ごろと、大幅に営業時間を短縮していました。
しかも、どこも明かりを落としぎみで薄暗い。
そんな中、10時までやっているという牛タン店を見つけて入ることができましたが、友人も、「まだこんなに震災の影響があるんだね・・・」と驚いていました。

そして今年、2012年春。
駅前のお店は、通常の営業時間。町の明かり、建物の明かりも、震災前と同じようです。
日常、普通であることのありがたさを改めて感じるとともに、震災で失われた日常が、すべてのところで取り戻されますように、と願わずにはいられませんでした。

続いては、広瀬アナウンサーです。

新たなスタート!

佐藤 拓雄

2012/04/04

去年の春、我が家の長男は小学校を卒業し、中学校に入学しました。

長男の小学校生活は、2011年3月11日でぷっつり終わってしまいました。
震災後、授業が再開されないまま、卒業式。その卒業式も、小学校の体育館が避難所になったこともあり、6日遅れで行われました。
体育館は使用せず、校内の多目的広場で、6年生のみ、内容も大幅に簡素化しての式でした。
卒業生全員による「誓いの言葉」的なものも、プログラムからなくなってしまいました。長男は、委員の一人としてその「言葉」の中身を考えていたとのことで、残念な様子でした。

親の私はといえば、余震が続いていた頃で、すぐ放送できるようにとほぼ徹夜の泊り勤務があり、卒業式のその日が泊り明けにあたってしまいました。急ぎ帰宅して、大慌てで小学校に向かい、眠たい目をこすりながら式に参列していた覚えがあります。
あっという間の6年間、長男の成長への感慨もさることながら、よく卒業式ができた、ということや、全員無事でよかった、というようなことが、何度も頭をよぎりました。

「卒業祝い」をしようにも、物資不足で買えるものも少なく、なんとか手に入ったドーナツをケーキの代わりにしてみんなで食べました。そのドーナツだって、節電で薄暗いドーナツ屋さんに並び、一人何個までとか制限があり、しかもバリエーションがいつもよりはるかに少ない、そんななかで買ってきたものでした。

今考えてみると、あらゆる面で尋常ではない状況下の卒業式でした。
私の住んでいるような、仙台の内陸部で、津波の被害は全くなく、地震の被害も少ない、そういうところでさえ、一年前は、そんなでしたよね・・・

中学校の入学式も1日遅れで、震災の混乱の中、長男は、新たなスタートを切ったのでした。

そういうことを、長男自身がどのくらい実感として受け止めているのかは、正直よく分かりませんし、今の彼を見る限り、彼の生活に、震災の影響はほとんど感じられません。
ただ、将来、自分自身の卒業式について、「震災で6日遅れたんだよなあ・・・」ということは、思い出すはずで、そういうことを、将来の友人にでも話したりするのかな・・・それも、ひとつの震災体験であり、やはり語り継ぐに値するものだな、と思っています。

明日は、スーパーニュースを一緒に担当している、梅島アナウンサーです。

ともに(3)

佐藤 拓雄

2012/03/27

このたび、「FNSアナウンス大賞」という賞をいただきました。
フジテレビ系列のアナウンサーを毎年表彰するものですが、「大賞」の受賞は、私にとっては初めてです。
先日、表彰式がありました。

大賞をいただいた放送は、震災直後の3月12日夜、東京のスタジオとやりとりしながら宮城の被害を伝えたものです。大惨事を伝えた内容だけに、「大賞」と言われても、私の気持ちは複雑で、喜んでいられるような心境ではありません。

それでも、あの時の放送が、一定の評価を受けたことは、私たち仙台放送が、あの震災を伝える中で、少しでも使命・責任を果たすことができたということかもしれない、とも思います。

思えば、あの日、私たち仙台放送も、地震と津波で大きな被害を受けました。

社内では、物が散乱し、ニューススタジオのセットは倒れかかり、スタジオが使えなくなりました。

沿岸部の情報カメラは、女川、気仙沼、仙台空港と、それぞれ津波の第一波をかろうじて捉えましたが、その後、電源喪失など、様々な原因で映像を送れなくなりました。

最も痛かったのは、ヘリコプターの被害です。地震で格納庫のシャッターと衝突したヘリコプターは、点検のため、外に出したところで、津波に襲われ、600メートルも流され、全損しました。

沿岸部の支局の記者たちは、津波の真っ只中で孤独な取材を続けていました。しかし、連絡もなかなか取れず、撮影した映像を送ることもできません。数日間、高台で孤立状態になった記者もいました。

伝える側の私たちも、被災者でした。

そんななかで、私たちは、この宮城のテレビ局として、なんとか使命を果たしたい、宮城の人たちの役に立ちたい、そのために何ができるのか、模索を続けながら放送にあたってきました。
そして、その思いを凝縮した言葉が、私たちのキャッチフレーズ「ともに」です。

ともに手を携え、ともにこの大災害から立ち直っていきたい、という思いを胸に、最後の一人が復興したと言えるまで、復興の道筋を伝え続けていくこと。
これが私たちの使命だと肝に銘じ、これからも震災と向き合っていきます。

次は、無事出産を終えた(!)寺田アナウンサーです。

ともに(2)

佐藤 拓雄

2012/03/02

震災発生一年を前に、「ともに」をテーマに綴っているアナ・ログ、今日から2巡目です。

私は、震災発生時から緊急放送に入り、翌朝まで放送が続きました。
明け方、浅見さん&林さんと交代し、2時間弱の仮眠をとった後、往復時間も合わせて1時間程度でしたが自宅に帰ることができました。着替えその他必要なものがあったのと、なんといっても、家族に一目でも会いたかったからです。(その間も家にも戻らず仕事を続けていた方々には悪いので、ほんの1時間とはいえ、2日目の朝にこっそり帰宅したことは、今までほとんど話しませんでした…)

ともかく、家族の無事を確認し、会社に引き返そうとするものの、やはり心もとなく、かつ、こんな時に家族を置いて仕事に行くことがなんとも心苦しく、後ろ髪をひかれる思いの私に、妻が一言、喝を入れてくれました。
「家は私が守るから、パパは自分の使命を果たしてちょうだい!」
頼もしい一言で、もう一度、私のスイッチが入りました。
そうだ、自分は、被災者のため、宮城のために、すべきことがある、使命を果たさなくては、と。そして、被災者には、とりもなおさず自分の家族も含まれるのだ。自分の仕事をしなくては。
…(寝不足の)目が覚めた思いで、仕事に戻りました。

だからといって、そのあと一切迷いがなくなった、と言えば嘘になります。弱い私は、やはり、時に家族が気になり、心が揺れてしまうこともなくはありませんでした。でも、妻のその一言は、私の使命感を呼び起こしてくれるには十分でした。

…と、ここで終われば、ちょっと「深イイ話」…おっと…ですが、仙台市中心部が日常を取り戻すのと同じようなスピードで、妻も日常を取り戻していき…あれあれ?妻よ、あの良妻ぶりはどこへ行った?オレは自分の使命を果たせばよかったんじゃなかったのか?
結局、アナウンサーの仕事だけでなく、家庭でのこまごまとした様々なことも、私の大事な「使命」で、これを果たさないと…というのが、オチでして(苦笑)

でも、そんな家族がいて、日常があること、「ともに」過ごす日々が大切なのだということも、震災を経て、改めて痛感しました。

以上、今回は、家族と「ともに」でした。

続いては、浅見さんです。あれ?前回と同じだ。順番は厳正な抽選なので、こういうこともあるのです。

ともに(1)

佐藤 拓雄

2012/02/22

去年4月から担当している番組「ともに」は、気がつけば、今月で11回放送しました。
一年の月日があっという間に流れた、というのが実感です。
でも、被災地は、月日だけが流れ、復興のスピードは、その月日に見あっただけのものには、残念ながらなっていません。

番組の中で、継続してお伝えしてきた、南三陸町歌津。
私は、毎回ここを訪れ、そのたび、高台の歌津駅から中心部の風景を見ることにしてきました。
写真は、その歌津駅から見た歌津の中心部。上が去年9月5日、下が今年2月8日です。
夏と冬で、草の色が違うくらいで、ほとんど変化がないように見えませんか?
がれきが撤去されてから半年近く経っているのですが、何もない、荒涼とした景色が、続いているのです。

番組「ともに」は、おかげさまで、回を重ねるごとに、放送してくださる他地域の局が増えてきました。
関西テレビ(関西地区)、東海テレビ(東海地区)、岡山放送(岡山、香川)、テレビ熊本、テレビ静岡。
そして、こうした県外の方々からの温かいメールが番組宛に届いています。
深夜に放送してくださっているところが多いようですが、送信時刻を見ると、真夜中の、番組を見てすぐに送ってくださったと思われるものも少なくなく、離れていても、そのお気持ちが強く伝わってきます。

時間が経つにつれ、私たち被災地と、そうでない地域との「温度差」は広がっていきますが、その一方で、遠くからこちらを思ってくださる方々もいる。「ともに」復興を願ってくださる方々がいる。
被災地から外へ発信すると同時に、こうした「ともに」を被災地に伝えていくことも、私たちの役割なのだ、ということをこのところ感じています。

次は、浅見アナウンサーの「ともに」です。

寒い日が続きますが3日は節分4日は立春…もうすぐ春ですね!

佐藤 拓雄

2012/02/03

先日、系列の会議で、新潟県の越後湯沢に行きました。
文字通りの豪雪でした・・・
写真に撮ると、そのスケール感がなかなか表現できないのですが、雪の量がケタ違いです。
素直に驚いていたら、関東より西の方々に、「仙台の人が何で驚くの?」と言われてしまいました。
もちろん、仙台では、スキー場でもない限り、こんなに雪が積ったことはありません。

「冬来たりなば春遠からじ」とは言うものの、まだまだ春は遠い、湯沢なのでした。

話は変わって、春といえば、私にとっては、花粉症。
この「アナ・ログ」でも何度も書いていますが、毎年、春は憂鬱な季節です。

去年の大震災は、まさにその憂鬱な春を直前に控えた時期のことでした。

ところが、去年は、どういうわけか、花粉症の症状があまり出ませんでした。
取材も行ったし、連日の寝不足と疲労で、体調も決して万全ではなかったのですが・・・

思い当たることは二つ。

ひとつは、震災による極度の緊張状態。
交感神経と副交感神経、どっちがどうかはよく分かりませんが、なんだかそういうことのような気もします。

もうひとつは、昨シーズンは震災前から意識的にやっていたことですが、薬を常用しなかったこと。
アレルギー薬をシーズン直前から飲んで、というのが「常識」かとは思いますが、早めに薬を飲んで、結局シーズン終盤に最悪の状態になって、ということをこのところ繰り返していたのと、薬を常用しているうちに効きが弱くなっていくような気がしていたためで、「今日はマズい」と感じる日だけ飲むことにしてみたのです。

どちらも医学的根拠は不明ですし、医師の指示を無視するのも、あまりよいことではないと思いますので、人にはお勧めできません。あしからず。

それにしても、あと何年、こうやって悩まされるのだろう、と思うと、気が滅入ってくるのでした・・・

次回は、「ともに」という番組を「ともに」担当している林アナウンサーです。

あの日あの時一番役立った物は?

佐藤 拓雄

2012/01/24

あの地震発生時、私の一家5人は、ばらばらの場所にいました。

私は仙台放送の社内、妻と当時1歳7ヶ月の次男は自宅、長男(当時小6)と長女(当時小4)が学校。

私は、当然、第一報から緊急放送に入りましたが、やはり気がかりは家族のことでした。
学校にいるはずの長男長女はどうしているのか、妻と次男はどこにいるのか。
そもそも皆無事なのか。
仙台に住んでいる、私と妻の親の安否も気がかりです。

気がかりだらけ、不安だらけの中、その不安がさらに募るような、甚大な被害の情報が次々に入ってきます。
そして、私はその場でそれを伝え続けるしかありません。
もちろん、みんな同じです。
仙台放送でも、発生直後は、誰もが、家族の安否が確認できないまま、緊急放送にあたっていました。

そんな中、夕方6時ごろだったでしょうか。
携帯電話のメールに、「災害伝言版」からの知らせが届きました。
「全員無事です。家にいます。○○(長男)と○○(長女)は学校で、これから迎えに行きます」
というような内容。妻が地震直後に書きこんでくれたものでした。

どれほど安心したことか。
通信の混乱の中で、書き込んだ時刻と、届いた時刻には、タイムラグがありましたが、正直、当日の夜前に、家族の安否が確認できたことで、私はその後の仕事に集中できました。
そうでなかったら、どうなっていただろう、と今も思います。

災害を伝えるのは、私たち放送局の使命。その放送を仕事にしている以上、このような緊急事態では、家族の安否が不明でも、自分の使命を果たすべく、目の前の仕事に全力で取り組まなければならない・・・と頭では理解していますが、私も弱い人間です。冷静を保つこともできず、家族を捜しに行きたくなって、仕事どころではなくなってしまったのではないか・・・

結果としては、「れば・たら」の話ですし、私は、ほんの数時間、家族の安否が分からないだけですみました。
これが何日も安否が確認できなかった人や、孤立状態でまったく連絡が途絶した人は、一体どれほどの気持ちだったのでしょう。
そして、そんな人が、あの日、県内だけでも何十万人といたのです。

弱い私を、あの日救ってくれたものの一つが、「災害伝言版」でした。

次は、「スーパーニュース」を一緒にやっている梅島アナウンサーです。

2012年 辰

佐藤 拓雄

2012/01/17

新しい年を迎え、今年こそはよい年になってほしい、とただただ願うばかりです。

そして、今日は阪神大震災の日。
私たちも、この日を胸に刻み続けなければいけないという思いを新たにしています。

さて、年が明けた今年最初の取材は、今月3日から4日、気仙沼でした。
写真は、気仙沼魚市場の「初売り」の日、1月4日です。

地元の方々は、「今年こそ」という願いと、長い復興の道のりを見据えて「今年だけでなく」という思い、また、進まない復旧へのもどかしさ、それぞれ複雑で様々な思いを抱えながら、新しい年を迎えられたようでした。

がらっと話を変えます。
冬休み中の娘(辰年)から、算数の問題が分からないので教えてほしいと言われました。
問題文を見ると「あつ子さんとゆう子さんが・・・」という設定。
「懐かしいねえ、W浅野かあ」と私。
すかさず娘は、「え?何それ?AKBでしょ?」
私「・・・・・・」
オジさんである自分を思い知った冬休みのひとコマでした。

新年の「初笑い」になりましたでしょうか。

一つでも多くの笑い、笑顔のある一年になるよう、心からお祈りします。

新年最初のテーマは、明日がラスト。大ベテラン・浅見さんです。

2011年今年を振り返って

佐藤 拓雄

2011/12/14

3月11日を境に、一変してしまった、今年、2011年。

今年をどう振り返っても、これ以外には考えられません。

私自身のことだけで考えても、仕事、生活、あらゆるところで、震災抜きに考えられるものはほとんどありませんでした。
我が家は、家の中でモノが散乱し、食器が大量に壊れ、扉の一部や壁紙が破損、停電・断水・物不足の影響で家族が大変な思いをしましたが、その程度で済んだと言ったほうがよいのでしょう。それでも、私を含め家族それぞれの心には、何かしらの傷が残ったはずです。
ですから、家族や家を失った方の心持ちはいかばかりかと察します。

「一隅を照らす」という言葉を、被災地の取材中に出会った、ある僧侶の方からいただきました。
天台宗開祖の最澄の言葉で、一人ひとりが自分の持ち場を果たすことで、世の中がよくなる、というような意味だそうです。
本当にそのとおりだと思いました。
私のできることなどあまりに小さいですが、それでも、目の前の自分の使命・役割を果たしていくことが、復興の道のりの一助になるのだ、と信じさせてくれる言葉でした。

今年も、来年も、そのあとも、この言葉を胸に、自分の使命を果たしていきたいと思っています。

そして、来年が希望のあふれる明るい年になりますよう、心から願います。


次は、稲垣アナウンサーです。前回の結論にはズッコケましたが、今回は立派に一年を振り返ってくれますよね?(苦笑)

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