アナ・ログ

あの日あの時一番役立った物は?

佐藤 拓雄

2012/01/24

あの地震発生時、私の一家5人は、ばらばらの場所にいました。

私は仙台放送の社内、妻と当時1歳7ヶ月の次男は自宅、長男(当時小6)と長女(当時小4)が学校。

私は、当然、第一報から緊急放送に入りましたが、やはり気がかりは家族のことでした。
学校にいるはずの長男長女はどうしているのか、妻と次男はどこにいるのか。
そもそも皆無事なのか。
仙台に住んでいる、私と妻の親の安否も気がかりです。

気がかりだらけ、不安だらけの中、その不安がさらに募るような、甚大な被害の情報が次々に入ってきます。
そして、私はその場でそれを伝え続けるしかありません。
もちろん、みんな同じです。
仙台放送でも、発生直後は、誰もが、家族の安否が確認できないまま、緊急放送にあたっていました。

そんな中、夕方6時ごろだったでしょうか。
携帯電話のメールに、「災害伝言版」からの知らせが届きました。
「全員無事です。家にいます。○○(長男)と○○(長女)は学校で、これから迎えに行きます」
というような内容。妻が地震直後に書きこんでくれたものでした。

どれほど安心したことか。
通信の混乱の中で、書き込んだ時刻と、届いた時刻には、タイムラグがありましたが、正直、当日の夜前に、家族の安否が確認できたことで、私はその後の仕事に集中できました。
そうでなかったら、どうなっていただろう、と今も思います。

災害を伝えるのは、私たち放送局の使命。その放送を仕事にしている以上、このような緊急事態では、家族の安否が不明でも、自分の使命を果たすべく、目の前の仕事に全力で取り組まなければならない・・・と頭では理解していますが、私も弱い人間です。冷静を保つこともできず、家族を捜しに行きたくなって、仕事どころではなくなってしまったのではないか・・・

結果としては、「れば・たら」の話ですし、私は、ほんの数時間、家族の安否が分からないだけですみました。
これが何日も安否が確認できなかった人や、孤立状態でまったく連絡が途絶した人は、一体どれほどの気持ちだったのでしょう。
そして、そんな人が、あの日、県内だけでも何十万人といたのです。

弱い私を、あの日救ってくれたものの一つが、「災害伝言版」でした。

次は、「スーパーニュース」を一緒にやっている梅島アナウンサーです。

2012年 辰

佐藤 拓雄

2012/01/17

新しい年を迎え、今年こそはよい年になってほしい、とただただ願うばかりです。

そして、今日は阪神大震災の日。
私たちも、この日を胸に刻み続けなければいけないという思いを新たにしています。

さて、年が明けた今年最初の取材は、今月3日から4日、気仙沼でした。
写真は、気仙沼魚市場の「初売り」の日、1月4日です。

地元の方々は、「今年こそ」という願いと、長い復興の道のりを見据えて「今年だけでなく」という思い、また、進まない復旧へのもどかしさ、それぞれ複雑で様々な思いを抱えながら、新しい年を迎えられたようでした。

がらっと話を変えます。
冬休み中の娘(辰年)から、算数の問題が分からないので教えてほしいと言われました。
問題文を見ると「あつ子さんとゆう子さんが・・・」という設定。
「懐かしいねえ、W浅野かあ」と私。
すかさず娘は、「え?何それ?AKBでしょ?」
私「・・・・・・」
オジさんである自分を思い知った冬休みのひとコマでした。

新年の「初笑い」になりましたでしょうか。

一つでも多くの笑い、笑顔のある一年になるよう、心からお祈りします。

新年最初のテーマは、明日がラスト。大ベテラン・浅見さんです。

2011年今年を振り返って

佐藤 拓雄

2011/12/14

3月11日を境に、一変してしまった、今年、2011年。

今年をどう振り返っても、これ以外には考えられません。

私自身のことだけで考えても、仕事、生活、あらゆるところで、震災抜きに考えられるものはほとんどありませんでした。
我が家は、家の中でモノが散乱し、食器が大量に壊れ、扉の一部や壁紙が破損、停電・断水・物不足の影響で家族が大変な思いをしましたが、その程度で済んだと言ったほうがよいのでしょう。それでも、私を含め家族それぞれの心には、何かしらの傷が残ったはずです。
ですから、家族や家を失った方の心持ちはいかばかりかと察します。

「一隅を照らす」という言葉を、被災地の取材中に出会った、ある僧侶の方からいただきました。
天台宗開祖の最澄の言葉で、一人ひとりが自分の持ち場を果たすことで、世の中がよくなる、というような意味だそうです。
本当にそのとおりだと思いました。
私のできることなどあまりに小さいですが、それでも、目の前の自分の使命・役割を果たしていくことが、復興の道のりの一助になるのだ、と信じさせてくれる言葉でした。

今年も、来年も、そのあとも、この言葉を胸に、自分の使命を果たしていきたいと思っています。

そして、来年が希望のあふれる明るい年になりますよう、心から願います。


次は、稲垣アナウンサーです。前回の結論にはズッコケましたが、今回は立派に一年を振り返ってくれますよね?(苦笑)

今年の自分を漢字1字で表すと

佐藤 拓雄

2011/11/30

私の場合、「揺」でしょうか。

3月11日の揺れ。
正直に言いますが、揺れの中をスタジオへ向かった時、あまりのすさまじい揺れから、とんでもない被害が出る、ということが頭をよぎり、ものすごく動揺しました。「この世の終わり」かと思うと、心臓がとてつもない速さで動き、口から飛び出しそうでした。
動揺の正体は、緊張ではありません。恐怖です。

発生直後からの緊急放送に入ってまもなく、県内全域が停電していることが分かりました。
ということは、この放送が、一番届いてほしい人に届いていないということか?では、誰に向けて放送しているんだろう?
心が大きく揺れました。

物資不足が深刻になってくると、我が家も、食料が先細りになり、ガソリンも給油できない、一番下の子のオムツもひょっとすると足りなくなる?というような状況に陥りました。当然のことながら、私はろくに家にも帰らず、仕事。スーパーの列にも、ガソリンスタンドの列にも並ばず、家族を守らなくていいのか、と心が揺れたりもしました。
しかし、家族を含めたすべての被災者のために、自分の使命を果たすしかない、と自分に言い聞かせ、仕事に向き合いました。

それから8ヶ月半。
今でも、震災と向き合う毎日ですが、取材、放送の過程でも、一体何をどう伝えるべきか、今必要な放送とは何か、常に悩み、揺れ動いています。
でも、一人の宮城県民として、ともに前へ進んでいきたい、という思いだけは、揺るがず、強く持っています。

次は、金澤アナウンサー。震災を経て、第2子ご誕生という、はたから見ても大きな出来事が続いた一年を送ったのだろうなあと感じましたが、果たして・・・

あなたのドラ1は?

佐藤 拓雄

2011/11/25

その人を初めて知ったのは、私が中学三年の夏でした。
夏期講習の帰り道、甲子園の中継に、駅前の商店街がざわついていました。
「1年生だってよ・・・」
池田高校を破ったその投手は、聞けば、4月1日生まれ。学年こそ一つ上ですが、実質同い年でした。

そして、その人は、翌年も、さらにその翌年も、甲子園を沸かせました。

私が大学受験に失敗し、悶々と浪人生活を送っていた頃、その人は、プロ2年目にして15勝を挙げ、輝きを放っていました。
同い年で天と地ほどの差があること、これはいったい何なんだろう、とひたすら憧れました。

仙台放送に入社し、新人として(正確には2年目ですが)もがいていた頃、その人は、巨人のエースとして、伝説の10・8で胴上げ投手になりました。

ひじを故障したときも、カムバックしたときも、巨人を退団したときも、メジャーに挑戦して大ケガをしたときも、メジャーのマウンドに立ったときも、引退したときも、そして、引退後も・・・
メディアを通してでしかありませんが、折に触れ、その考えや人となりを知れば知るほど、ますます尊敬の念が強くなりました。

真摯な姿勢、冷静な理論、前向きな考え方、人生観・・・やはり今でも、見上げるところにいる存在です。


桑田真澄さん。
1985年、ジャイアンツのドラフト1位です。


このテーマは次回で終わり。ラストは、林アナウンサーです。

冬が来る前に

佐藤 拓雄

2011/11/09

冬が来る前は、秋。
当たり前ですね、すみません。
こんなことを言うのは、秋から冬に向かう自然の話をしたいからです。

先月の「ともに」でも放送しましたが、1ヶ月ほど前、南三陸町志津川で、遡上してきたサケを見つけました。
放送用のカメラでは、しっかり撮影できましたが、私のデジカメでは、うまく写らなかったので、周辺の状況が分かる写真を掲載します。

八幡川という川の下流です。
河口から1キロほど。南三陸町役場があったあたりで、川の両側の建物は、ほとんどが流されてしまったような場所です。写真に写っている白い建物も、残っているのは外側だけで、中はすべて津波の被害を受けています。
周辺の土地にも、川岸にも、川底にも、今もがれきが残っています。
そんな川に、サケが戻ってきていたのです。時期が早いためか、数はそれほど多くありませんでしたが、時折すばやく泳ぎ、元気な様子でした。

先日は、がれきの隙間で大きな実をつけた「ど根性ナス」について書きましたが、同様に、またしても、自然のすごさを見た気がしました。
今回は、それに加えて、自然の大きなサイクルが、津波が来た後でも守られているということに、なんとも複雑な感情がわきました。

間もなく冬。
考えてみれば、あの日の後も、何事もなかったかのように春、夏、秋・・・と季節はめぐっています。
人間の営みと自然の営みのギャップ。でも、人間もまた自然の一部であり・・・

被災地で見つける自然には、いつもいろいろ考えさせられます。

続いては、飯田アナウンサーです。「宮城の冬は今度がやっと3回目、まだ寒さに慣れません」とのことです。

いも煮

佐藤 拓雄

2011/10/18

先日、取材で出会った被災地の方が、こんなことを話してくださいました。
「津波で自宅を失い、避難所にいたとき、山形の人が炊き出しに来て、芋煮を作ってくれた。体が温まっただけでなく、山形出身の自分にとっては懐かしい味で、本当にありがたかった。」
ギリギリの状況の中で、心も温めてくれた、芋煮。「故郷の味」というのは、そういうものなのでしょうね。

芋煮といえば、去年のちょうど今頃、長男の所属していた少年野球クラブで、芋煮会がありました。
部員だけでなく、それぞれの家族も参加してのにぎやかな芋煮会。当時1歳3ヶ月の次男も、「初・芋煮会」で、写真のように、空になった大鍋に頭から突っ込んだり大はしゃぎ。楽しいひと時を過ごしました。

ところで、この芋煮会。宮城県で暮らすようになった当時は、とてもカルチャーショックを受けました。
大学入学直後にもらった学生新聞か何かに、一年の行事みたいなコーナーがあり、そこに「秋と言えば、芋煮会」と当たり前のように書かれていたのですが、それまで関東で暮らしてきた私にとっては、生まれて20年で、初めて聞く言葉だったのです。
芋を煮る?どういうことだろう?芋を煮てどうするんだろう?何か、お供えでもするのだろうか?お祭りか何かの一種だろうか?
どうにもよく分かりません。
「芋煮会」=「河原などで豚汁を食べ、酒を飲み、時にはバーべキューもして楽しく過ごす会」だとは、全く想像できませんでした。

それから二十数年、もはや「芋煮会」に何の違和感もなく、当たり前の文化?習慣?として、私の中に定着しましたが、仙台生まれの妻や子どもたちには、もちろん、当たり前の行事であるだけでなく、故郷の味の一つなんだろうな、とも思います。とすると、私と彼らでは、感じる芋煮の味がきっと違うのでしょうね。

続いては、広瀬アナウンサーです。

2011年 秋

佐藤 拓雄

2011/10/05

写真は、先月上旬の南三陸町歌津地区で見つけた、ナスです。
「ともに」の先月の放送でもご紹介しましたが、自分でも写真を撮っておきました。

場所は、JR歌津駅の近く、津波で全てを流されたところです。(歌津駅は高台にありますが、その線路さえも流され、復旧のメドはまったく立っていません。)
ナスの後ろに見える建物は、津波の被害を受け、コンクリートの外側だけがかろうじて残った状態です。
がれきが撤去されて、更地になったこの場所で、コンクリートとがれきのわずかな隙間に根を張っていました。
長さおよそ15cm、丸々と大きな実で、いかにもおいしそうに見えました。

ちょっと前に、コンクリートの隙間から出た大根が、「ど根性大根」などと言って話題になりましたが、これは、言ってみれば、「ど根性ナス」です。

もともと生えていたものが、家や線路が流されるほどの津波に耐えたということはないでしょうし、こんな場所に誰かが植えたとも考えにくい。とすると、種か何かが流れてきて芽を出したのか、苗が流れてきて根付いたのか・・・
それにしても、すごい生命力。自然はすごいですね。驚きました。

4月に、名取市閖上で、津波で根元から折れた桜が花を咲かせた話題も放送したのですが、そのときは、生命の力強さを感じる一方で、大地震と大津波という自然の怖さ、それに対する人間の無力さを感じさせられた直後だっただけに、複雑な心境でした。

一方、このナスに関しては、単純に生命の力強さを感じられ、やはり半年という時間で私自身の心境も変化してきているのだな、とも改めて思いました。

ともかく、被災地に、ひっそりと、しかし力強く実をつけていた、ど根性ナス。
「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉がありますが、このナスだけは、誰にも食べさせられないなあ、などと思いつつ、現地を後にしました。

明日は、10月で入社丸半年を過ぎた、新人・稲垣アナウンサーです。

震災から半年

佐藤 拓雄

2011/09/14

写真は、何度も取材に訪れている南三陸町で、同じ場所から撮影したものです。
上が5月9日、下が9月5日。
小さくて見えにくいかもしれませんが、がれきが撤去され、風景はかなり変化しました。

現地で食事をできるようになったのも、大きな変化です。
6月ごろまでは、あらかじめ食料を用意して、被災地に向かいました。
今は、コンビニも、店舗を修繕したり、プレハブを建てたりして、多くが営業を再開しています。営業している食堂も増えてきていて、取材先での食事を仙台から持っていくことは、非常に少なくなりました。むしろ、積極的に現地で調達するようにしています。

一方で、3階建ての建物の屋根に乗っかったままの自動車、山あいの草むらで無残な姿をさらす小船、骨組みだけの建物など、手付かずのものも多く残されています。

人々の生活もそうです。

復旧に向かうところと、あの日のままのところ。

半年が経ち、被災地の時計は、同じ地域でも、その進み方に差が大きくなってきているように感じます。

次回は、金澤アナウンサーです。

2011年、夏

佐藤 拓雄

2011/09/09

会社の中で、蚊に刺されました。
入社以来初のことのような気がします。
私は、蚊に刺されると腫れる性質なので、これには困りました。
その日は、室内にもかかわらず、手足に虫除けスプレーをして仕事をしました。

「節電の夏」、仙台放送も、社内は常に28度以上。暑いです。
逆に、蚊にとっては居心地がよかったのでしょうか。
とすると、社内での虫さされは、節電の思わぬ弊害かもしれません。

「節電」の大合唱は、被災地にも及んでいます。
にもかかわらず、ある町で、仮設住宅にお邪魔したら、網戸がついていませんでした。
エアコンは付いていますが、県などは、仮設住宅でも、エアコンの設定温度を28度にするよう呼びかけています。
また、全てを流された方々の中には、エアコンの電気代も負担になるとおっしゃって、電力不足とは無関係に節電する方もいます。

涼しい日もありましたが、猛暑の印象が強い、この夏。
せめて、仮設住宅や避難所の方が、電気の心配などせずに暮らせるようにできないのでしょうか。

このテーマは、トリは、新人・稲垣アナウンサーです。

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