ともに(2) 稲垣 龍太郎 2012/03/14 先日、ニュース読みの練習で過去の原稿を見ていたとき、ある文章に目を奪われました。「わかめをしゃぶしゃぶで味わいました。」わかめをしゃぶしゃぶ!?わかめって、お味噌汁や酢の物にして食べるものではないのか!?しゃぶしゃぶって、お肉やお魚でするものじゃないのか!?それはもう、わかめのしゃぶしゃぶってどんなものなのか気になって仕方ありませんでした。そこで勤務終了後、旬の海の幸が味わえそうな行きつけのお店に行ったところ、なんと、私が訪れるのを待っていたかのように、ありました!「わかめとたこのしゃぶしゃぶ」早速頂いてみることに…沸騰したダシにくぐらせると、深緑のわかめが何とも鮮やかな緑に!画像がないのが申し訳ないくらい、明るい緑色へと変化しました。大将によると、サッとダシを通すくらいでいいのだとか。ポン酢につけて食してみると、歯応えがあり、口の中には磯の香りが広がっていきました。塩気があるのでお酒にも合いますねー。大のベガルタファンの大将にもっと話を聞いてみると、志津川で養殖されたもので、気候の関係で、今の時期しか取れない貴重なものだそうです。震災の影響もあり、今年は例年よりも価格が上がっているということでした。震災から1年…私にとって仙台にやってきて1年、こうして宮城の文化を知る1年でもありました。いも煮、茶箱、わかめのしゃぶしゃぶ…今まで生きてきた中で知らないものに数多く出会った1年でした。震災から1年ということは、まもなく私も2年目。もう1年目も終わりですね。私自身ももっと前進しなければ。次回のテーマは「ともにIII」です。トップは柳沢部長です。
ともに(2) 2012/03/13 先日、報道フロアで作業をしていた所、あるモニタに地震速報・震度7の文字が。全く揺れを感じなかったため不思議に思ったところ、発災当時のONエアVTRでした。当時、私は東京出張中でした。フジテレビのフロアでテレビを観ていましたが、ほとんどが関東の映像。その瞬間がどのような様子で仙台放送がどんな放送をしていたのか、当時は知ることができませんでした。その後銀座の東京支社に移り、夜には都心と逆方向に向かって45分かけて徒歩で実家へ帰宅。「帰宅困難者ばかりで東京は大変だ」と思ったのが、震災の第一印象。さらに“東京タワーの先が折れた”というニュースに、日本の心まで折られたと感じた初日の夜でした。翌朝、東京を出発。その道中、自衛隊や消防などの救急車両の数に驚き、ちょうど福島・二本松を通りかかった時に原発が爆発。16時間くらいかけて仙台に到着した頃にはすでにヘトヘト。これだけでも大変な思いをしたつもりでいましたが、被災地に到着し実際に被害に遭われた方々とお会いすると、その思いは改めなければならないと大いに反省しました。その後、気仙沼や南三陸町から中継を繰り返すことになります。現場で動き回ることで、現地の雰囲気や現況は肌感覚で感じられます。一方、その他の情報には疎くなり、事態の全容までは把握しづらいという一面もあります。そのことに加え、上にも記した通り私自身は被災していないという思い。そんな私が、全国に向けて宮城県全体の被害を伝えるという役割を全うできていたのか…もちろんそうでなければならないのですが、当時も今でもそして今後も、そこで胸を張れることはありません。もうすぐ1年。どんなに思いを馳せても、被災された方々の気持ちを真に理解できる日は訪れないと思います。それでも今後、自分が果たすべきこととは。。心を痛めた方々に対し、自分なりの表現で明るさと楽しさを感じて頂くこと。そして、前を向いて、ともに歩むこと。それが“皆が笑顔になれる魔法の箱”、テレビの使命なのではないか。そんなことを考えた1年でした。意外と大学生の頃に抱いていた、原点に戻っていたりします。さぁ、私もリスタート。良いことが続くよう、頑張ります。次は稲垣君です。
ともに(2) 梅島 三環子 2012/03/12 震災から1年が経ちました。私は1年前のあの日のことを振り返ろうと思います。私はあの日、東京に出張中でした。午後2時46分。その瞬間は、東京へ向かう新幹線の中で迎えました。車両は、上野駅手前の地下を走っているところでそれほど揺れは感じませんでした。「ぽんぽん」と、少し弾む感じといいましょうか…。しかし、その後車内は真っ暗になり緊急停止。すぐに非常電源に切り替えられ、車内には灯りがともりましたがそこから3時間近く閉じ込められることになりました。一番不安だったのが、情報が無いこと。「強い地震が発生した模様です。しばらくこのままでお待ちください。」流れるアナウンスから思ったことはただ一つ。「まずい…どっちだ?」静岡出身の私は、東海の地震…そして、もちろん東北の地震が頭をよぎりました。その後NHKのラジオが車両に流されてからは、被害状況をひたすら聞くのみ。仙台が、東北が大変なことになっているのに何も出来ない自分が本当に情けなく、また悔しかった覚えがあります。夕方、上野駅まで車両が動き全員新幹線を下ろされました。タクシーも捕まらず、歩いて宿泊先の赤坂まで…。数多くの帰宅難民とともに土地感もそれほど無い都内を歩き続けました。県内にいた方に比べたら、私なんて何の苦労にも値しませんがやっぱりそれなりにはしんどかったですね。3・11…それ以来、新幹線が上野に近づくとちょっとドキッとしてしまいます。明日は広瀬アナウンサーです。
ともに(2) 金澤 聡 2012/03/09 あの震災から1年。復興への道程はまだ一里塚。今年は道標をしっかりたてて、確実な道を歩むことが大事かと思っています。何里離れているかは分かりませんが、遠く沖縄での取材中の車内。FMラジオのDJが、東日本大震災の復興の思いを語っていました。仮設住宅で生活をされている人の声、故郷から離れて生活されている方の声など、震災から1年経ってもなお苦しい生活をされている方の声を紹介していました。沖縄でもいまだ自分のこととして考えてくれていることに心が熱くなりました。楽天のキャンプを見に来ている地元・沖縄の方も話していました。沖縄から楽天を応援することで東北・宮城が元気になってくれればと。沖縄の小さな町でも聞けた復興の思い。全国のひとつひとつの小さな思いが大きな動きになっていき、それが復興の歩を進めていく年になればと思っています。南の島の守り神も東北も見つめていることを忘れない1年にしたいとも思っています。次回は、梅島アナウンサーです。
ともに(2) 寺田 早輪子 2012/03/08 「寺田早輪子さんへ また会えてうれしかったです。」昨年末、私の元に、かわいらしいお手紙が届きました。これは、その中の一文です。そのお手紙は、震災直後に、私が女川町で取材し、再度、昨年末に会いに行った小学生の女の子からのお手紙でした。彼女は、大津波が街を襲った時、高台の学校にいて無事でしたが、それからしばらく、避難所となった学校での生活を余儀なくされました。津波で大好きなおばあちゃんを亡くした彼女。それでも、震災直後の取材で、力強いメッセージをこめた作文を私に読んで聞かせてくれました。「今は深い、深い悲しみでいっぱいです。でも、校庭には無事だった樹齢100年のヒマラヤ杉があります。私もヒマラヤ杉のように、堂々とした学校を取り戻していきたいです。」津波で破壊された街を、毎日見ていた彼女。そんな彼女から発せられたメッセージ。大人の私の方が「しっかりしなければ!」と思わされた出会いでした。去年12月に、再度、彼女と会った時には、何だか照れた様子で、はにかんだ顔が本当にかわいらしかった。そんな彼女から届いたお手紙。くわしい内容は二人の秘密ですが(^^)…、うれしい言葉がいっぱいありました。そして…、「またいつか会いたいです。」そう、締めくくられていました。未曾有の被害、混乱の中、お話を聞かせてもらっただけでもありがたいことなのに、「また会いたい」と言ってもらえたことは、取材者として、一人の人間として、とてもありがたいことです。彼女はこの春、中学生になります。そして、私はこの春、お母さんに…。震災で傷ついた街で、初めて取材させてもらったあの日、偶然に出会った二人は、ともに、「一歩前に進む春」を迎えます。どんな中学生になるのかな…?楽しみです!私の方こそ、「また、会いたいです。」「アナログ」。続いては、金澤アナウンサーです!
ともに(2) 柳沢 剛 2012/03/07 あの日から、間もなく1年です。以前も書きましたが、震災翌日、私はヘリコプターで宮城県沿岸をリポート。この世のものとは思えない光景を目の当たりにし…精神的にも極限状態で…何処で何をしゃべったのかは全く覚えていませんでした。実は最近、1年ぶりにその時のVTRを見る機会があり…女川上空で…「女川は壊滅状態です…女川湾と万石浦が瓦礫でつながっています…」とリポートしていたのです…。「えっ!」と思う人も多いと思います。私もビックリしました…。もしそれが本当だとすると…津波により牡鹿半島全体が瞬間的に島になったことになります。本当はどうだったのか?今回「めざましテレビ」のクルーと女川町を訪れました。確かに津波は女川湾から国道を伝い、一番高い女川高校の前まで瓦礫を運び、万石浦の浦宿まで達していたと現地の人から話を聞くことが出来ました。(この模様は「めざましテレビ」3月9日(金)の7時台で放送される予定です)(あくまで予定です)女川町はめざましテレビの中継で幾度となくお世話になった場所。春のコウナゴに初夏のホヤ、夏のカツオに秋のサンマ。温泉掘削に岸壁の穴釣り。お魚市場にトリックアート。そうそうダイビング免許を取ったのも女川でした。1年ぶりに訪れた女川の町…マリンパルの建物が辛うじて残っていましたが、地盤沈下により海水が入り込み近付けず…お世話になった旅館やスーパーは跡かたもなくなり、全て更地になっていました…。1年の歳月がたってもまだこの状態。運び出される瓦礫、運び込まれる港湾資材…。大きなダンプカーがひきりなしに行きかっていました。モヤモヤ感を残したままの帰り際…。女川から石巻に入る直前に「お魚市場」の看板が…。そうです!マリンパルの中にあった「お魚市場」が場所を移し営業していたのです。(写真)6店舗だけではありますが、新たなスタートを切っていたのです。1人の男性が沢山の魚を買い求めていました。聞けば、この場所でお魚市場が再開したと聞き、1年ぶりに50km程離れた涌谷町から駆けつけたとの事。店主とは顔なじみで、ともに再開を喜びあっていました。それまでのモヤモヤは吹っ飛び、とっても暖かい気持ちになりました。ともに笑顔!!良いですよね。次は、寺田さんです。
ともに(2) 飯田 菜奈 2012/03/06 もうすぐ、震災からちょうど1年です。3月11日。私たちからたくさんのものを奪い取った東日本大震災。あの日を境に、一人一人の生活、考え方、生き方・・・変わったものが、たくさん。先月、私の父方の祖父が天国へ旅立ちました。85歳でした。1年と数か月の間、入退院を繰り返していて、最後に一緒に食事に出かけ、ちゃんと話ができたのはその前になります。兄弟が多かった祖父。その、祖父の弟さんや妹さんも葬儀へ来てくれました。私が仙台で仕事をしていることを知っていて、震災の日、津波を目の当たりにした体験を話すと、「アナウンサーの仕事やめられないね。震災の体験を“伝える人”としての使命を担ったね。語り継いでいかないと。」と言われました。祖父に見た目や雰囲気がよく似ている、祖父のご兄弟。兄弟なので当たり前かもしれませんが・・・。もし祖父が生きていたら、きっと同じことを言うだろうな・・・。そう思いました。その“使命”を果たすべく、生きていかなくては・・・と思います。明日は、柳沢部長の登場です。
ともに(2) 林 佳緒里 2012/03/05 「ともに」復興へ向かっていくために、自分でも力になれることは何だろう?これは、震災後、誰しもが考えたことだと思います。被災地に行ってボランティア活動、被災地の特産品を買うなどいろいろあります。私は、こういう仕事に身をおく以上、被災地の現状を多くの方に知ってもらうため、取材して伝えることもその一つだと思っています。そしてもう一つ。各被災地では、「一口オーナー制度」というものを導入しています。そのオーナーになってみるのも大きな支援の一つだと思います。例えば、漁業の町では、オーナーから預かったお金を漁具の購入費用などにあて、代わりに漁獲できた海産物などを贈ってくれるという仕組み作りが行われています。私も取材でお世話になったご縁から、亘理の「鈴木観光いちご園」のオーナー制度に参加しています。これは、オーナーから預かったお金を来シーズンのイチゴ苗の購入費用にあて、そのジーズンに収穫できたいちごが贈られてくるというものです。この観光いちご園は、震災で以前あったハウスが全壊、ご自宅も全壊してしまいました。これまで一緒だったご家族での経営も今は別々です。亘理に残って、以前とは別の亘理町内の場所で、鈴木観光いちご園の再開に尽力しているのは、次男の鈴木信之さんです。ゼロからのスタートを決め、ビニールハウスは自分で組み立て、苗は友人から譲り受け、今年も1月から、観光いちご園を再開させていらっしゃいます。私も2月上旬に、いちご狩りにお邪魔させていただきました。規模は以前の3分の1ということですが、そこには確かに真っ赤に色づいたイチゴがありました。どれほどのご苦労があって、どれほどのお気持ちがあって、このイチゴがあるのだろう?そう思うと、一粒一粒がより美味しそうに、輝いて見えました。一緒にいった2歳の息子には、その価値は分からないと思いますが、いつか必ず、その時の写真を見せて、そのことを伝えたいと思います。微力ながら、自分にもできることがあるはず!震災からまもなく1年、自分にできる「ともに」をあらためて考えるきっかけの節目なのかもしれません。明日は、ななちゃんです。
ともに(2) 2012/03/02 多賀城市で津波の被害にあったドイツ人家族が今、ドイツで復興支援の活動を続けいる、というニュースが先日、放送されました。言葉の通じない避難所で手を差し伸べてくれた多くの日本人への「恩返し」だといいます。ドイツといいますと、前回の「ともにI」でも紹介した東芝チャリティーコンサートで、南西ドイツ放送交響楽団スペシャルアンサンブルの四重奏が素晴らしい旋律を奏でてくれました。終演後、その南西ドイツ放送交響楽団スペシャルアンサンブルから、仙台フィルハーモニー管弦楽団へ義援金が贈られました。仙台フィルが、自分たちも被災していながら、東北の方々を元気づけるために、様々なコンサートしていることに感銘を受けたアンサンブルのメンバーが「彼らの活動を応援したい」「彼らの活動を支援することで東北の方々を応援したい」そんな思いから、自分たちが所属するオーケストラのメンバーに参加を呼び掛け、有志で寄付金を募ったものです。また、会場には、県内の高校吹奏楽部の活動支援のための募金箱が設けられましたが、その浄財は、宮城県吹奏楽連盟に贈られました。南西ドイツ放送交響楽団スペシャルアンサンブルのヴィオラ奏者・中閑光子さんの心温まるメッセージも会場に響きました。オープニングのMCで「では、東北の皆さまへのエールと復興への願いを込めて、演奏して頂きます」と。そんな気持ち通りのチャリティーコンサートでした。
ともに(2) 佐藤 拓雄 2012/03/02 震災発生一年を前に、「ともに」をテーマに綴っているアナ・ログ、今日から2巡目です。私は、震災発生時から緊急放送に入り、翌朝まで放送が続きました。明け方、浅見さん&林さんと交代し、2時間弱の仮眠をとった後、往復時間も合わせて1時間程度でしたが自宅に帰ることができました。着替えその他必要なものがあったのと、なんといっても、家族に一目でも会いたかったからです。(その間も家にも戻らず仕事を続けていた方々には悪いので、ほんの1時間とはいえ、2日目の朝にこっそり帰宅したことは、今までほとんど話しませんでした…)ともかく、家族の無事を確認し、会社に引き返そうとするものの、やはり心もとなく、かつ、こんな時に家族を置いて仕事に行くことがなんとも心苦しく、後ろ髪をひかれる思いの私に、妻が一言、喝を入れてくれました。「家は私が守るから、パパは自分の使命を果たしてちょうだい!」頼もしい一言で、もう一度、私のスイッチが入りました。そうだ、自分は、被災者のため、宮城のために、すべきことがある、使命を果たさなくては、と。そして、被災者には、とりもなおさず自分の家族も含まれるのだ。自分の仕事をしなくては。…(寝不足の)目が覚めた思いで、仕事に戻りました。だからといって、そのあと一切迷いがなくなった、と言えば嘘になります。弱い私は、やはり、時に家族が気になり、心が揺れてしまうこともなくはありませんでした。でも、妻のその一言は、私の使命感を呼び起こしてくれるには十分でした。…と、ここで終われば、ちょっと「深イイ話」…おっと…ですが、仙台市中心部が日常を取り戻すのと同じようなスピードで、妻も日常を取り戻していき…あれあれ?妻よ、あの良妻ぶりはどこへ行った?オレは自分の使命を果たせばよかったんじゃなかったのか?結局、アナウンサーの仕事だけでなく、家庭でのこまごまとした様々なことも、私の大事な「使命」で、これを果たさないと…というのが、オチでして(苦笑)でも、そんな家族がいて、日常があること、「ともに」過ごす日々が大切なのだということも、震災を経て、改めて痛感しました。以上、今回は、家族と「ともに」でした。続いては、浅見さんです。あれ?前回と同じだ。順番は厳正な抽選なので、こういうこともあるのです。