アナ・ログ ~アナウンサーリレーエッセイ~

2015年 ともに

2015/03/13
4年前の、あの大地震の後も雪が降りましたが、今年の3月11日も、雪が舞う寒い一日でした…。

夜勤で夕方からの勤務だったため、宮城県庁を訪れ、設置されていた献花台に花を手向け、地震発生と同時刻の午後2時46分に黙祷を捧げました。

あの、立っていられないほどの強い揺れ。
ゆっくりと迫ってきて、木々や車、建物を、いとも簡単にものすごい勢いで飲み込んでいく巨大な津波。
この世の終わりを感じた風景、体験は、今でもはっきりと思い出すことができます。

先日、ロケで石巻赤十字看護専門学校を訪れました。
震災で校舎が全壊してしまったため、今年の春卒業する皆さんは、ずっとプレハブの校舎で過ごしたそうです。
震災から4年。新校舎が完成し、4月からはプレハブの校舎が解体され、新校舎で授業が行われることに…。

4年という歳月。
長かった、短かった、時は止まったまま…
感じ方は、人それぞれだと思います。
目に見える形で動いているものがある一方、ひとりひとりの“心の復興”は、本人にしか、わかりまん…。
心の状態を察し、寄り添いながら、話ができる人でありたいと思います。

二度と、あのような大震災が起きないことを、強く願って…。

明日からは新テーマに変わります!
トップバッターは、稲垣アナです。

2015年 ともに

2015/03/12
阪神・淡路大震災から20年、広島の土砂災害から半年、日本人留学生も犠牲になったニュージーランド地震から4年と・・・次々と災害の犠牲者を追悼しなければならない辛いことがこんなに多くあるのかと思う日が続きます。そして、きのうは東日本大震災から4年、悲しい気持ちと前進しなければという気持ちが交錯した1日ではなかったでしょうか。

「決して、風化させてはならない」
常々、思っていることはこの事です。

風化どころか、まだ住宅も、仕事も、震災前の状態に戻れないままにでいる人たちが沢山いることも現実です。
政治に対するアンケート調査をみますと、年ごとに、
震災、原発からの復興という優先課題が下位になっているという国民の意識も気がかりです。

先日、震災で崩れた仙台城跡の石垣の復旧工事が終了し、竣工式が行われました。4年かかりました。
同時に、ここを通る市道も開通しました。

通るたびに、震災を思い出しています。
そういう思いが、防災、減災につながるのだと思っています。

2015年 ともに

2015/03/11
先日の大雨で…サッシの窓枠から雨水が伝わり…室内に………。

我が家は、地震保険に入っていませんでした……。
「津波の被害にあった人に比べたら…」そんな思いもあり、震災後、壁紙の亀裂等もそのまま………。
激しい揺れを受け…やはり歪んでしまっていたのかもしれません…。

今日であれから4年… = 365日×3年+366日×1年=1461日が経ちました。
今日が、1462日目です。
早かったような……? 遅かったような……? その時々で、感じ方も違ってきています…。

建物だけではなく、人の心、精神状態や体調など、様々なところで当初大丈夫だと思っていた事が、「エッ!!!」という「症状」としてあらわれてくる事も…???

小学生が高校生になる…という4年の歳月…。
あらためて、一日一日の大切さを感じる今日この頃です。

先月17日の朝…岩手県に津波注意報が出されました…。午後には青森で震度5強の地震…。仙台でも久しぶりに、あの時と同じように、徐々にギアがシフトアップしていくような?少し長い揺れを感じました…。そして…窓の外にはあの日と同じように雪が舞い…

「忘れるなよ!!!」
誰かに、そう言われたような気がして……何とも言えないザワザワ感が胸にお起こりました…。

4年がたった今、私たちは…??????????

思い悩まず…自分が直面している状況に真摯に向き合い、ちょっと前向きな気持ちで、地に足をつけ、あせらず、諦めず……
それぞれに…
全ての事に…
丁寧な対処・対応が必要な時なのかもしれません。

仙台放送では、本日午後4時50分から、震災特番
「僕たち私たちの1462日~東日本大震災から4年~」を放送します。スタジオMCは、佐藤アナと小口アナ。大川小学校から寺田アナ、気仙沼から木下アナがそれぞれ中継で、お伝えします。是非ご覧いただき、皆さんからの思いをおよせ頂ければ幸いです。

宜しくお願い致します! 明日は浅見アナです。

2015年 ともに

2015/03/10
明日で震災から4年です。

私が入社した2008年4月から2か月後の6月14日に岩手宮城内陸地震が発生、早番で会社にいた私が速報を伝えることになりました。
1人でニュースを読み始めてまだ5回くらいの私は、何をしてよいのか分からず、全国に届いたのは、カメラの前で慌てふためく私の姿だけでした。
「救えた命も、自分のせいで。。」という思いで、アナウンサー人生がスタートしました。

東日本大震災の発生直後、気仙沼や南三陸町で、中継車などに泊まり込みながら連日中継をしていました。
宿泊先を確保できるようになった期間も含めて、1ヵ月を沿岸部で過ごしました。
気仙沼では、火の海となった町やヘリコプターによる救助活動、バスが運行され交通網が動き出したニュースなどを伝えてきました。
南三陸町では、震災から1ヵ月の4月11日の午後2時46分には、志津川小学校の校庭で黙とうを捧げる方々の様子を中継でお伝えしました。
目の前に起きていることを喋り続けました。
しかしこれらのことが、テレビをご覧下さっている方々に、果たして何か力になっているのか。分からないままでした。

震災から1年後の3月11日に発刊された重松清さん著「希望の地図」という書物があります。
今月、私は初めてその本を手に取りました。
その中に、岩手県北バスの方で「鉄道や飛行機が止まっていても、バスが動いていることを知らせたい一心で、報道機関にリリースを送り続けた。すると3月16日にフジテレビのテロップでバス運行情報が出るようになりました」と仰る方の一節があります。
ふと気仙沼にいた頃、取材した題材の中から「仙台へのバスが動き始めた」ニュースを選んで中継で伝えたことを思い出しました。直後にデスクから「バスの情報を詳しく教えて欲しいと視聴者から電話があった」と連絡が入り、詳細を伝達しました。それからバス運行のテロップが出るようになった記憶があります。
このことと、本の中のバスの話は直接関係ないものでしょう。
ただ、一生懸命に自分の役割をこなすことで、どなたかの思いに繋がる可能性があるのだと考えさせられました。
沢山の方々が色んな思いを抱えている事柄を1つ1つ伝え続けることの大切さを痛感した2015年の3月です。

次は柳沢さんです。

2015年 ともに

2015/03/09
「震災前と同じ気持ちで生活は出来ない。」


これは、災害公営住宅に住んでいる方が言っていた言葉です。



先日7日に放送された「ともに希望を!スペシャル」の取材で、多賀城市の災害公営住宅を訪ねました。



私が取材した桜木地区の災害公営住宅は津波避難ビルとしても建てられ、住民の方だけでなく、地域の方も避難出来るような作りになっています。
また、住民同士や地域住民とのコミュニケーションも重視し、集会所なども備えられており、津波対策だけでなく、住民の方が新しい環境になじめるように配慮された作りになっています。

住民の方にお話しを聞くと、「やっと安心して暮らせる。」「慣れるまで不安だけれど、新しい友達を作りたい。」など前向きな意見が多い中で、「仮設にいた時より、安心して暮らせるけど、震災前の同じ気持ちでは生活出来ない。」という意見も聞かれました。



復興は着実に前に進んでいると思います。
ただ、復興し終えることはあるのでしょうか。本当の意味での『復興』とは何でしょうか。



答えが出るかは分かりませんが、ずっと向き合っていかなければいけない問題だと感じています。


次は、広瀬アナウンサーです。

2015年 ともに

2015/03/06
「家族と離れたくない」

そう言った途端、少女の目から涙がこぼれました。

石巻市で、津波で妹を亡くした女子高校生。
仙台放送では震災直後から彼女を取材してきました。

4年前は中学生だった彼女も、
今年4月には大学進学のため、宮城県を離れることに。

旅立ちを前に、先月、私は彼女にインタビューをしました。

「家族」というキーワードが出た時、彼女は涙を流したのです。

その涙は、彼女が私たちの前で見せた初めての涙でした。

知らない土地での新生活への不安と期待…、それだけではない「涙」でした。

震災で彼女は妹という大切な存在を失いました。
そして、「家族」が、かけがえのない、大切な大切なものということを痛いほどに、気づかされたのです。


家族は大事。命は大事。

これは、4年前のあの日、世界中の誰もが抱いた思いです。

2011年3月11日。世界中の誰もが、深く思い知らされたこのことが、
今、まるで、忘れ去られてしまったかのようなひどい事件や事故が世界中で起きています。

「家族」を思って涙を流した彼女の思い。
世界中の人々が、共有すべき思いです。

家族は大事。命は大事。
何気ない毎日を、たんたんと過ごせることは幸せなことだと…。

もうすぐ、あの日から4年。

今年も、被災地・宮城から、「大切なもの」を世界に発信します。

☆写真は取材で訪れた小学校で5年生と一緒にいただいた給食!何十年ぶりの給食!美味しかったです!

アナ・ログ、続いては、高谷アナウンサーです。

2015年 ともに

2015/03/05
2月25日、震災で仙台城の石垣が崩れ、復旧工事のため通行止めとなっていた「市道仙台城跡線」再開のニュースを取材しました。

仙台市の担当の方が、通行再開の瞬間まで、道路で車は待てないようにするとおっしゃっていたので、正直通る車はあまりいないのではないかと思っていました。再開時刻の午前11時半になると、私の予想は外れ、十数台もの車が再開と同時に通っていきました。

私は震災後に入社したので、「仙台城跡線」はこの日初めて通ったのですが、想像以上に石垣が近くとても迫力がありました。また、4年という月日を感じながら通りました。
震災で石垣が崩れ、一個一個の石を積み直したという事実を知って通るのと、何も知らないで通るのでは感じ方は違うと思います。

入社直後に友達を仙台城跡に案内したときには、迂回路を通らなければいけませんでしたが、今度友達が仙台に遊びにきたときは、仙台城跡線を通って仙台城跡まで案内したいですね☆


「2015年ともに」明日は、寺田アナウンサーです。

2015年 ともに

2015/03/04
「復興とは、新たな日常の創出」

この言葉は、新潟県の中越地震の被災地を訪れたとき、
中越地震を伝える「中越メモリアル回廊」の整備に携わったある学芸員の方の言葉です。

●被災者の言葉
旧・山古志村(現在は長岡市に合併)にある「やまこし復興交流館おらたる」(写真)。
ここにある「被災体験が書かれたパネル」
ここでは、被災者の想いをいったん文章にしてもらい、それを一定の字数制限を設けて短縮。その後、執筆した被災者に確認してもらい、展示しているということです。
ミュージアムなどで長い説明文というのは、よほど興味がない限り、途中で読む気がしなくなるもの。訪れた人は、そのパネルを見て、気になった被災者の声が記録された映像を再生して視聴することができます。
中越地震を伝える上で、訪れた人への「魅せ方」が、とても研究されている施設だと感じました。

●中越地震を伝える4施設の配置
長岡市や小千谷市などの4ヵ所に、ミュージアムは分散・配置されています。
また、観光名所に立ち寄ったり、じっくり見たりすると、とても1日では巡りきれない配置です。
学芸員の方曰く「1日ではまわりきれないよう配置することで、この中越地域に宿泊してもらい、この土地の良さを知ってもらいたい。『中越地震』という入口(きっかけ)から、中越の観光面での魅力も感じてもらい、交流人口を拡大させ、中越地域の活性化につなげたい」ということでした。

●被災者が自ら伝える
中越地震で、現在も水没した数軒の家が並ぶ「木籠(こごも)メモリアルパーク」。
かつて水没した家で暮らしていた住民が、近くの案内所のような建物を拠点に、訪れた人を案内して、今も中越地震を伝えているということです。
また、こうした交流により、旧山古志村の魅力を知り、リピーターになる人も多いそうです。

震災から4年、宮城県でも、「震災遺構」についての議論は高まっています。
私のような仙台市の中心部に暮らしている者が何を言っているのだと思われるかもしれません。しかし、「ふるさとの日常を取り戻すこと」に加えて「被災地・宮城として、これから震災をどのように伝わるように伝えていくのか」を考えることが、今後の県内の交流人口を拡大、「復興=新たな日常の創出」につながるのではないでしょうか。

次は、小口アナウンサーです。

2015年 ともに

2015/03/03
震災から、4年。
着実に、被災地の姿は変わりつつあります。

先日、取材で3年ぶりに南三陸町志津川を訪れました。
当時取材させていただいた、小学6年生の女の子は
この春、高校生に。
すっかり、あどけなさは抜け、
しっかりとした自分の考えを持つ少女になっていました。

成長した彼女と一緒に、
3年前と同じ場所、自宅跡地に行くと、
そこは盛り土がされ
跡地そのものすら見ることが出来ない状況。

復旧・復興工事は、進んでいるものの
かつての街の姿が変わっていくことに、
戸惑いを感じられずにはいられませんでした。

しかし、彼女は、
「さみしいけれど、新しい町が出来ていくのは嬉しいこと」と
教えてくれました。

それぞれが、震災と向き合い、受け止めて、
前に進んでいるのだと実感した瞬間でした。

一方で町内には、震災の記憶が風化されていると感じる風景も…。

県内でも、震災に対する温度差が生じていることを痛感する今日この頃。
あの日の記憶が、多くの人の心に
今も深く刻まれていることを望まざるをえません。

明日は、稲垣アナウンサーです。

2015年 ともに

2015/03/02
2011年4月23日。雨の等々力競技場。

東日本大震災の影響でおよそ1カ月半中断していたJリーグが再開。

ベガルタ仙台にとっては特別な川崎フロンターレ戦となりました。
1点先制されましたが、太田選手が足をつりながらゴールを決め同点。
終了間際の87分にコーナーキックから鎌田選手のゴールで逆転勝利。
被災地チームとして絶対に勝利したいという執念が生んだ白星でした。

試合終了の笛が響くと、手倉森誠監督(当時)は感極まって涙を流し、記者会見でこう話しました。

『東北の、被災地の我々のチームに対しての日本全国からの思いというのがね、あのボールに乗り移って勝たせてもらったのかなと思います』



あれから4年。
手倉森監督のもとでコーチをしていた渡辺晋監督がチームをけん引。

今シーズンの開幕戦の相手は、モンテディオ山形。
3月7日。「みちのくダービー」で幕が開きます。
渡辺監督はこう意気込みを話します。

「3・11前に開幕戦を迎えられ、しかも相手は同じ東北の山形。ホームだし、特別な思いで臨む試合なので絶対に勝ち点3をあげないといけない。我々はそれにむけてしっかり準備してきた。サポーターと一緒にひとつになって勝利したい」と。

サポーター、そして、地域とともに歓喜のその瞬間を目指して、
5年目の希望の光は今年もいよいよ船出を迎えます。

(写真:ベガルタ仙台宮崎キャンプ場)

次回は梅島アナウンサーです。

2015年 ともに

2015/02/27
何を話せば良いのだろう。
震災に関して、私の口から出る言葉や書く文章は、未だになんだか浅く、薄っぺらく、頼りなく・・・。
何を信じながら、どこを見据えながら、誰のために、何のために取材をしているのか。考え始めると時々出口が見えなくなります。

「ともに」ではVTRのあと、1分半ほど「アトコメ」という、取材へ行った感想や補足情報などをお伝えする時間があります。
まずは私が形を作り、拓雄さんや、ディレクターや制作チームの皆さんに、言葉づかいも含めて、伝えるべきことを間違えていないか見ていただきます。
修正が重なる度に「まだ私は話の本質が見えていないのか」と少し落ち込んだりもしますが、誰かの心に響けば良いなと思いながら、なんとか文章を考えています。

アトコメで使う言葉の「正解」を探していた時期もありました。
けれど、そんなものはどこにもなかった。
自分が思ったことをそのまま話せば良い。結局ここに落ち着きました。
こちらも、とても難しいですけれど。

「震災から4年」という言葉は、ある意味とても使いやすく
これからテレビ、新聞、様々な媒体で目にすると思います。
私もきっとニュースでお伝えすると思います。「4年が経ちました」と。
では、被害に遭われた方はどう感じているのでしょう。
ある方は「私たちにとっては、何の節目でもない」と話していました。
この言葉の意味を、私は今も考え続けています。


つづいては、金澤アナウンサーです。

2015年 ともに

2015/02/26
東日本大震災の発生から、まもなく4年になります。
今回は、仙台放送の震災復興キャッチフレーズ「ともに」をテーマに、震災への今の思いを綴ることにします。

去年秋、私自身の家の修理がやっと終わりました。
地震で、壁紙や壁板に大きな亀裂がいくつも入り、キッチンの扉と壁は、落ちた電子レンジの直撃で穴が空きました。
それらが修復され、震災3年半にして、ようやく家の中が、震災の影響を感じない状態に戻りました。

私の家はマンションで、建物全体は一部損壊の判定を受けました。
集合住宅なので、建物も内装も、基本的に管理組合で全体として取り組まなければならず、勝手なことを自分ではできませんが、これほど時間がかかるとは思ってもみませんでした。
人手と資材の不足の中、震災全体の中で言えば被害は小さい方で、かえってこのために後回しにされてしまった、という状況もあったようです。

私の被害などあまりに小さなものですが、それでも、毎日、部屋の中の被害を目にしながら生活するのは、それなりの負担感がなかったといえば嘘になります。
私でさえこうなのですから、家を失った方、今も仮設住宅で暮らす方、半壊した自宅で暮らし続ける方…こうした方々のお気持ちは察するに余りあります。

阪神大震災のあと、兵庫県が行った「生活復興調査」をみると、「自分が被災者だと意識しなくなった」人が過半数となったのは、震災1年となっています。住宅の被害状況別では、一部損壊の人で1年、半壊の人で3年、全壊の人は10年。これが過半数ですから、実際には、もっと時間がかかっていることになります。同様の調査は、宮城県では行われていませんので比較しにくいのですが、感覚的には、私たち東日本大震災からの生活復興のほうが、ペースは遅いように感じられます。

震災や被災者であることを意識しなくなることも、ひとつの復興で、全員が一日も早くそうなってほしいと願います。
一方で、意識しなくなることと、忘れることは違うとも思います。
生活から震災のにおいが消え、それでも、震災を忘れない。大切な人を失った方には、そんなことができるはずもなく、都合のよい考えなのでは、と思いながらも、できれば、誰もがそういう心持で暮らせるようになってほしい。
それが4年経った今の私の気持ちです。

あすは木下アナウンサーです。