アナ・ログ

東日本大震災10年

下山 由城

2021/03/24

“備え”の重要性を再確認しました。

先月13日に宮城で震度6強を観測した地震は、本当に驚きましたね。
部屋にあるものが倒れたり、エレベーターが止まったり、あらゆるところに影響が出てしまいました。県外に住む家族や友人からも心配する連絡がかなり来ました。
この地震は東日本大震災の余震とされています。今後も同規模の余震は起こりえるそうです。専門家の方が「警告だと思う」「10年経つと当時の経験や記憶は薄れてしまう。どうしても防災の意識が低くなってしまう。今回の地震はその警告のような気がする」と話されているインタビューがありました。10年前…東日本大震災で得た教訓を活かし備えなければいけないと改めて痛感します。
つい先日も、「仙台放送Live News イット!」が始まる直前に宮城で震度4の地震が発生しました。この1ヵ月は地震が多いと感じてしまいます。今できることは何だろうか…こういう機会だからこそじっくり考えてみたいと思います。

先月、プロバスケットボールB2リーグの実況で南三陸町を訪れたときに『南三陸町さんさん商店街』に立ち寄りました。せっかくだから何か買っていこうと散策したら「たこ内臓の燻製」と「たこ白子燻製」を見つけてしまいました。珍味でしょうか?まだ食べていないのですが、日本酒に合うだろうなぁと衝動買いしました。南三陸町で作られた逸品…感謝しながらいただこうと思います。


さて、あすからは新しいテーマが始まります。
西ノ入アナウンサーからどうぞ!

高橋 咲良

2021/03/23

10年前、私は高校1年生で、お隣の山形県にいました。
地震が発生した時は、クラス会の真っ最中。大きくて長い揺れに驚き外へ飛び出すと、同じような人が何人もいて、停電したために信号機は止まっていて、これは大変なことが起きたのだと、とにかく無我夢中で家へ帰りました。自宅へと向かう途中、深々と雪が降ってきて、春とは思えない寒い1日だったと記憶しています。
停電していたためにテレビが見られず、数日してから目の当たりにした惨状に胸が締め付けられて、涙が流れました。

今年の3月11日は、名取市閖上に行きました。震災から10年となる今年の3月11日は、雲1つない青空が広がっていました。
この青空に向けて、閖上の記憶前では、14時46分の黙とうの後ハト風船が放たれました。ハト風船には「ありがとう」「忘れない」様々なメッセージが書いてあります。
そしてどのメッセージにも、お名前が書いてありました。
このハト風船は、「空の上にいる大切な人への手紙」だからです。東日本大震災によって、多くの人の命が奪われました。
当たり前のことなのですが、亡くなられた方の数だけ家族や大切な人がいるのだと、このハト風船に綴られたメッセージを見て、改めて感じさせられました。どうか無事、ハト風船がそれぞれの大切な人に届いていますように。

多くの人の命やふるさとを奪い、それまでの生活を一変させてしまった東日本大震災。
もう2度と同じ悲しみを繰り返さないために、私は宮城県のアナウンサーとして、伝えるという職に就く者として、出来ることを精一杯努めていきます。

続いては、下山アナウンサーです。

佐藤 拓雄

2021/03/19

10年前、1歳8か月だった次男は、東日本大震災の記憶は全くないそうです。
現在小学5年。これまで、幼稚園や小学校では、折に触れて震災の話や防災の話をされているようですし、私も時々話をしたり、被災地に連れていったりしていますが、「津波は怖い、海は怖い」という漠然とした恐怖感だけ持っているようで、どうもピンと来ていないようです。
やはり、実感が持てないのでしょう。
全国的に見れば、私の住む仙台は、被災地そのものかもしれませんが、ピンポイントな私たち家族の暮らしは、今や震災の影響を感じなくなっていますので、なおさらです。

10年経った今、震災後に生まれた子どもと当時乳幼児だった子ども、つまり今の小学生以下が、震災を経験していない世代と言えます。
あと10年したら、全ての未成年世代が震災を経験していないことになります。

そう考えても、これから、震災をどう伝えていくのか、ということがますます重要であり、かつ、難しくなっていくのだと思います。

一方で、この1年、大学生の長女は、何度も被災地や震災遺構の見学に連れ出したり、震災の話をしたりして、それなりに感じるところがあったように見えます。
県外の大学に入学したものの1年を通してオンライン授業となってしまい、結果として実家暮らしが続きましたが、その分このような機会を持てて、思わぬ副産物になりました。
長女は、震災当時小学4年。揺れをはじめ当時の記憶はいろいろあるようですが、当初はやはり怖がったり、もう少し年齢が上がっても、今度は学校生活の忙しさや受験等もあったりと、なかなか震災を学ぶ機会が持てませんでした。
大学生になった今、こうした機会を持てたことは、親としてよかったと素直に思っています。
【写真】の、山元町の震災遺構・中浜小学校も、その長女と訪れました。

次の世代に震災を伝えていくことは、私たち震災を経験した者にとっては「責務」と言ってよい、一生の課題だと思っています。
ただ、震災を知り、受け止めていこうという気持ちになるには、それぞれの心境の変化、特に子どもたちは心の成長が大切なのだろうと、このところ思っています。

アナウンサーという仕事を通して、震災を伝え続けていくことはもちろんですが、それとは別に、震災を経験した大人の一人として、少しずつでも、次の世代に震災を伝えていくことも私の責任だという思いも、10年経って強まっています。

次は、高橋咲良アナウンサーです。

梅島 三環子

2021/03/18

10年前に行った沿岸部。
復旧復興なんて、全く想像すら出来ませんでした。
こんなことが起こるのだろうか、というのが正直な感想でした。

あれから10年。
沢山の声をこれまで伺ってきました。
多くの涙も見てきました。
時の流れは、心を少し整理してくれるかもしれませんが、あの日の記憶は傷を負った方々にとって、絶対に忘れられないことと感じます。10年経ったって、何年たったって、悲しみが癒えることはありません。
未だに震災の話すら聞くことができないという方もいらっしゃいます。それが現実なんだと思います。
10年とはいえ、何の節目でもないと思っています。一方、10年だから一歩を踏み出したいというご遺族の声も忘れられません。
それぞれの10年、そして、それぞれのこれからと私なりに寄り添っていければと思います。

明日は拓雄部長です。

堤 勇高

2021/03/17

10年前、私は中学2年生でした。
当時は群馬県に住んでいましたが、友人と外を歩いているとき地面がうねるような感覚をおぼえました。帰り道、停電で消えた信号をケータイの写真に収める友人の姿がなぜか強く印象に残っています。

その日の夜に私はインフルエンザを発症しました。次の日に行った病院は非常電源が使われていて、薄暗い中で診察を受けました。待合室のテレビの映像は現実のものとは思えませんでした。
原発の事故も、寝込むベッドの中で親から聞きました。

それからおよそ8年たって、宮城でこの仕事をするようになり、震災について伝える側となりました。
ニュースをみたり実際に取材をしたりする中で、震災発生の瞬間もその後の10年も、被災された方々の経験はどれ一つとして同じものはなく、中学時代の私が漠然と描いてしまっていた「被災地」という一括りにはまとめられないものだと痛感しています。

私が実体験として伝えられるのは上に書いた程度のことしかありません。実際に故郷を流された方や大切な人を失った方の経験と比べると「経験」とも言えないようなものです。しかし、自分以外の方が経験したことも多くの方に伝えられる仕事をしています。簡単なことではないと承知の上ですが、宮城県のアナウンサーの重要な使命として、これからも学びを絶やさずに伝えられたらと思います。

写真は先日取材させていただいた、津波で流出した写真などの展示・返却会の会場です。10年経つ中でいまだに持ち主のもとに返らない写真などが並べられていました。展示・返却会は今回が最終回となりましたが、今後新たな返却方法が検討されています。まだまだ非常に多くの写真などが残っていましたが、これらが持ち主のもとに返るのも一つの復興なのだと考えさせられました。

次は梅島アナウンサーです。

伊藤 瞳

2021/03/16

私は、出身が埼玉県で、昨年宮城県民となるまで、ずっと関東にいました。
そんな中、2017年、東京の上野で開催された「三陸なう」というイベントが心に残っています。

「三陸なう」は、学生団体主催で、今の三陸を好きになってほしいというコンセプトのもと、これまで複数回、上野公園で開催されているイベントです。(三陸なうHPより)

2017年開催のとき、大学で放送研究会に所属していたことのご縁から、私は司会を担当しました。
会場では、三陸の食材を使用した料理が楽しめるブース、三陸の商品を売るマルシェ、ホヤぼーややおおふなトンといった三陸自慢のご当地ゆるキャラなどが登場するステージが設置されていて、東京で三陸を存分に知ることができる魅力がありました。

小さなお子さんからご年配の方まで幅広いお客さんが、東京で「三陸」を楽しんでいる様子、司会をしながら感じられました。今でも脳裏に焼き付いています。

上野公園で見たのは、被災地「三陸」ではなく、
間違いなく、魅力的な土地、「三陸」でした。
好きになる、訪れたくなる街「三陸」でした。

11日で震災発生から10年となりました。
昨年宮城県民となった私だからこそ、今後も被災地を知ることを続けて、伝承していきたいと思います。ですが、被災地の「過去」のみならず、「今」の魅力をみんなに好きになってもらえる伝承も私は大切にしていきたいです。

写真は、「三陸なう」の会場で、撮ってもらった思い出です。
左は、東日本大震災を機に誕生したという宮城のご当地ヒーロー「破牙神ライザー龍」。右は、岩手県大船渡市のゆるキャラ「おおふなトン」です。今振り返っても、このイベントに関わらせていただけたこと、感謝の気持ちでいっぱいです。

明日は、堤アナウンサーです。

西ノ入 菜月

2021/03/15

私がアナウンサーを目指そうと決意したのは、東日本大震災がきっかけです。

10年前のあの日、私は中学3年生で、兄とともに埼玉県の実家にいました。卒業式を間近に控え、短縮授業で早めに帰宅し、ゆっくりしていたら突然の激しい揺れが襲いました。埼玉でさえ立っていられないような非常に激しい揺れで、家が軋むような音と共に物が倒れました。

あまりの恐怖で身体が動かず、揺れが収まってから飛び出そうなほど波打つ心臓を感じながらテレビをつけて、ニュースを確認し…。そこで初めて、東北が一番の被害を受けたことを知りました。

その時、東北にいなかった私でさえあまりの恐怖に震えていたのに、東北各地のアナウンサーが代わる代わる冷静に的確に状況を伝えている姿を見て、「命の危険にあった中でも、自分の使命を果たしているアナウンサーのみなさんはなんて勇ましいのだろう」と感じ、いつしか憧れに変わりました。

その時に抱いた思いを、今は自分が、力強い使命をもって宮城のみなさんに伝えていきたいです。そのためには、気持ちだけではなく技術力も伴わなければ話になりません。有事の際に、宮城のみなさんに信頼して情報を聞いていただけるよう、東北のアナウンサーとして日々精進していきます。

写真は石巻の復元船サン・ファン・バウティスタ号です。老朽化のため、原寸大の船は2021年3月末で解体されることが決まっていますが、復興のシンボルとして力強く大海原を臨むその姿からは、勇気や希望を感じます。形だけではなく、心の復興を目指して。

明日は伊藤アナです。

金澤 聡

2021/03/12

2011年3月11日の地震発生時は出張で東京にいました。
明朝6時、東京にいる仙台放送の社員とともにジャンボタクシーに乗って仙台に向かいました。
新幹線と高速道路は使用できず国道4号線を只管北上しました。
食料と当時2歳の長男のオムツを買うためにスーパーに寄りました。この日は首都圏内でも食料は陳列棚にほとんどなくビーフジャーキーとナッツ詰め合わせしか買えませんでした。オムツは数量限定販売だったため1パックしか購入できませんでした。

国道4号線は渋滞でした。上り車線は避難する車で混雑し、下り車線は被災地へ向かう車で停滞。10時間近くかかり福島入りし、給油のためにガソリンスタンドに向かうも長蛇の列。車のラジオから「福島原発で爆発が起きました!」と連呼するアナウンサーの声。渋滞は続きました。

13日未明に信号機も作動していない暗闇の仙台に到着。2歳の長男と妊娠7か月の妻にオムツを渡して無事を確認。その足で会社へ向かいました。

数日後、南三陸町へ向かいました。道路はえぐれて、津波の引き波で家屋などが沖へと流されました。何もない町を見て平衡感覚を失い、しばらく座り込みました。車中泊が続きました。眠れない真夜中に、車から出て夜空を見上げると満天の星。輝きが増して見えたのは、停電で灯ひとつない漆黒の闇に包まれていたからだと気づき、何とも言えない不条理感に。

その後気仙沼に移動しました。取材で何日も家を空けている間、身ごもの妻は幼い子の手を引いて毎日炊き出しに並び、エレベーターが停止しているマンションの8階まで水を持って階段を上っていると聞きました。取材中に多くの方にお願いされたことがありました。娘の行方が分からないのでカメラを通じて話しかけたい。赤いランドセルを手に携えた方には入学控えた孫の安否がわからず、どこにいるか調べてほしいと。切実な思い全てにお答えすることはできませんでした。

3月の梅の花を見ると毎年思います。震災の時、家族のことをどうすればよかったのか、被災地のこと、被災された方のことをどう伝えればよかったのか。これからもずっと考えていきます。


次は西ノ入アナウンサーです。

寺田 早輪子

2021/03/11

「震災発生から〇年」とお伝えすると、取材先で、「何か『区切り』を付けないといけないように聞こえて、つらいのよ」というお話をいただき、深く考えさせられます。
「震災発生から10年」という言葉は、より、そう感じさせる響きに、私にも聞こえます。

10年で、かさ上げ工事などで被災地の景色は大きく変わりました。また当時、取材でお話をうかがった小学生は、高校生や大学生に。コロナ禍の就活に歯を食いしばりながら頑張っている子もいます。

このように、大きく変わったことがある一方で、変わらない「思い」があることを、取材を通して実感する日々です。

心の復興には一人一人、違いがあります。個々の思いにどれだけ向き合えるか、宮城で取材を続けてきた一人として、「あの日のことを、話したい」と思った時に、そばにいるアナウンサーでありたいと感じています。

「アナ・ログ」 続いては、金澤アナウンサーです。

飯田 菜奈

2021/03/10

東日本大震災から、明日で10年です。
長いような早いような、不思議な時間の経過を感じます。

ここ数年のうちに、「東日本大震災の時は宮城に住んでいなくて…」という声をよく聞くようになりました。東日本大震災を経験した人が他のエリアに移り住み、経験していない人が、今現在宮城に住んでいる…。
10年という月日の流れを感じます。

先月13日の地震、怖かったですね。
『あ、振出しに戻る…』
10年前の記憶がフラッシュバックした方、多かったのではないでしょうか。
『せっかくここまで復興したのに、また津波 !?』
そんな、絶望にも似たショックのような感情になりながら、揺れに耐えました。

地震の被害はあったものの、津波が来なかったのは不幸中の幸いだったと思います。ただ、またいつ地震があるかわかりませんね。
地球は生きている…東日本大震災の教訓を忘れるべからず!そんなメッセージを、先月の余震は意味していたのかもしれません。
水道の蛇口から水が出る喜び、スイッチを押せば電気がつく安心感、あたたかいご飯が食べられる幸せ、何より、生きているということ。
感謝しながら、生活したいと思います。
地震への備えをしっかり行いながら。

☆写真☆
日常の中で”小さな幸せ”を探すことを心がけています。自分の名前に【菜】の字が入っているので、菜の花が咲いていると嬉しくなって、思わず写真を撮ってしまいます。

明日は寺田さんです!

牧 広大

2021/03/09

きょうから新しいテーマ、「東日本大震災10年」です。
3月11日で、東日本大震災が発生してから丸10年を迎えます。
10年経った今のこと、10年経って思うこと、それぞれ変わったものも多くあれば、変わらず思うことも多くあると思います。

先日、バスケットの中継で南三陸町のベイサイドアリーナに行きました。
10年目を迎える3.11を前に、一番日付が近い日程で、宮城で開催した仙台89ERSのホームゲーム。
「被災地で何か感じてもらえるようなプレーをしたい」とナイナーズの多くの選手やスタッフが意気込んでいました。
B2リーグでも上位の攻撃力を誇るアウェイ香川相手に2日間とも大接戦となる熱戦が繰り広げられ、震災当時は遺体安置所や避難所となったアリーナが、連日熱気に包まれていました。

ゲーム2では被災地に勝利を届けた仙台。
震災当時は活動休止に追い込まれ、選手は残りのシーズン仙台でプレーできなくなったり、当時ホームアリーナだった仙台市体育館の天井がはがれたりと、チームは解散危機に陥りました。
そんな苦境を乗り越えてきたチームが、震災後、被災地の体育館で試合を行う。
多くのブースターから応援を受け、被災地で勝利を届ける。
シーズン中重ねる勝ち星の中でも、大きな意義を持った1勝だったと感じます。

「プロである自分自身がプレーで戦う姿を見せたり震災についてのメッセージを発信したりすることで、震災を風化させないことにもつながると思う」
宮城出身の片岡選手がこの試合に向けての取材で、そう話してくれました。
この言葉を聞いて、スポーツ選手ならではの震災の伝え方、語り部など震災を経験した人ならではの伝え方、震災を経験していない自分ができる伝え方、震災を風化させないためにも、人それぞれの伝え方があると感じました。
今後も自分だったらどう伝えていけるのか、今回のバスケットの中継で改めて感じる機会となりました。

写真は試合が行われた南三陸町総合体育館、9年連続での南三陸での試合開催とのことですが、震災から10年目を迎える今年もこの地で試合が見られる喜びを感じながら写真に収めました。

続いては飯田アナです!