金澤 聡
2021/03/12
2011年3月11日の地震発生時は出張で東京にいました。
明朝6時、東京にいる仙台放送の社員とともにジャンボタクシーに乗って仙台に向かいました。
新幹線と高速道路は使用できず国道4号線を只管北上しました。
食料と当時2歳の長男のオムツを買うためにスーパーに寄りました。この日は首都圏内でも食料は陳列棚にほとんどなくビーフジャーキーとナッツ詰め合わせしか買えませんでした。オムツは数量限定販売だったため1パックしか購入できませんでした。
国道4号線は渋滞でした。上り車線は避難する車で混雑し、下り車線は被災地へ向かう車で停滞。10時間近くかかり福島入りし、給油のためにガソリンスタンドに向かうも長蛇の列。車のラジオから「福島原発で爆発が起きました!」と連呼するアナウンサーの声。渋滞は続きました。
13日未明に信号機も作動していない暗闇の仙台に到着。2歳の長男と妊娠7か月の妻にオムツを渡して無事を確認。その足で会社へ向かいました。
数日後、南三陸町へ向かいました。道路はえぐれて、津波の引き波で家屋などが沖へと流されました。何もない町を見て平衡感覚を失い、しばらく座り込みました。車中泊が続きました。眠れない真夜中に、車から出て夜空を見上げると満天の星。輝きが増して見えたのは、停電で灯ひとつない漆黒の闇に包まれていたからだと気づき、何とも言えない不条理感に。
その後気仙沼に移動しました。取材で何日も家を空けている間、身ごもの妻は幼い子の手を引いて毎日炊き出しに並び、エレベーターが停止しているマンションの8階まで水を持って階段を上っていると聞きました。取材中に多くの方にお願いされたことがありました。娘の行方が分からないのでカメラを通じて話しかけたい。赤いランドセルを手に携えた方には入学控えた孫の安否がわからず、どこにいるか調べてほしいと。切実な思い全てにお答えすることはできませんでした。
3月の梅の花を見ると毎年思います。震災の時、家族のことをどうすればよかったのか、被災地のこと、被災された方のことをどう伝えればよかったのか。これからもずっと考えていきます。
次は西ノ入アナウンサーです。