アナ・ログ

東日本大震災11年

牧 広大

2022/03/25

2月下旬、震災の津波で未だ行方不明の妻を探す男性を取材ました。
場所は女川町の港、そこから3キロほど船で海に出て、男性は捜索のため海の中へ潜りました。
「海の中、潜ってしまえばそんな寒くないよ~」
そう男性は話していましたが、この時期、寒さが一番厳しい冬のど真ん中。船の上や陸地に上がった時など、冷たい風が体に吹き付け、過酷な環境です。
妻を探すため、7年前にダイビングの資格を取り、男性は毎月、そして7年以上、海に潜り続けています。

県内の行方不明者は1,215人。東日本大震災の発生から11年経った今でも未だこれだけの方々の行方が分かっていない事実を決して忘れず、日々震災と向き合いながら伝えていければと思います。

先日も最大震度6強を観測した大きな地震がありました。1週間以上が立ちましたが、今も揺れが続いています。大きな被害を受けた地域もありました。新幹線の完全復旧もおよそ一カ月先。
日ごろの備えを大切にしながら、皆様もお過ごしください。

続いては新しいお題、高橋アナからです。

飯田 菜奈

2022/03/24

東日本大震災の発生から11年。
今年も、あの時と同じ3月に、県内で最大震度6強を観測する地震がありました。ほんの数日前に11年前のことを振り返ったばかり。地震や津波は恐ろしいものと、改めて確認した直後の地震。
東日本大震災を経験しているからこそ、大きな揺れの際に、ものすごい恐怖を感じるのかもしれません。11年前を思い出すから。ライフラインが止まる、津波が来る…。当時と同じ状況になるのか…。その思いがよぎります。

一方で、東日本大震災を経験しているからこそ、日ごろから地震への備えをし、いざというときに冷静に行動できるのかもしれません。家具などは地震の際に倒れないようなものを選んだり、最低限の食料などは備えて生活していたり。

『地球は生きている…。』地震が起きるたびに思います。
頭では理解しています。日本に住んでいる以上、地震とつきあいながら生きていかないといけないことを。
でも、これ以上、大きな地震が起きませんように…。願ってやみません。

今日できることは、今日のうちに。
あたりまえの日常に感謝しながら、悔いのない毎日を過ごしたいですね。

☆写真☆
他県では桜の開花の便りが届き始めました(写真は2019年にお花見をした時のもの)
仙台はいつになるのか…。待ち遠しいです!

ラストは牧アナウンサーです。

下山 由城

2022/03/23

自然災害は本当に突然くるのだな…と。
今月16日深夜に起きた大きな地震には実感させられました。先日まで東日本大震災11年のニュースを伝えることが多かったのですが、その数日後にこのような事態になるとは…。被害にあわれた方も多いと思います。一刻も早い復旧を願っております。

東北新幹線が脱線してしまって、完全復旧は4月20日前後になるとの発表がありました。例えばプロ野球の開幕が近づいていますが、選手たちの移動は困りそうです。先日まで東京でオープン戦が行われていましたが、バスと飛行機に分かれて仙台に戻ることになったと聞きました。地震による影響はしばらく続きそうです。こういうときだからこそ、自分にできることをしっかりと考えるタイミングにしたいと思います。

話は変わりますが、先日「古酒」を同期入社の仲間からもらいました。
栃木県の酒蔵のもので、洞窟で長期熟成させたとのこと。『秘蔵弐拾年以上』とラベルに書いていますので、つまり少なくとも20年は寝かせていたということでしょうか。添付されていた冊子を読んでみると…洞窟は第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)から昭和20年にかけて造られた地下工場の跡地。戦車を作る計画だったものが、工事が遅れ、まったく未使用のまま放置されていたもの酒蔵が再利用することにしたのだそうです。洞窟内は太陽の光がまったく入らず、外気温の影響を受けにくい。そのため年間を通じて10℃程度で、変化も緩やかなことから、貯蔵熟成する上で理想的な環境になるのだとか。

栃木県で20年以上の古酒というと、東日本大震災の影響は何かしら受けているのではないか…と思ったのですが、冊子に書いてありました。震度6弱の地震が起き、その後もしばらく大きな余震があったので洞窟に入れず、ある程度の熟成酒が壊れていることは覚悟していたようですが、まったくの無傷だったとのこと。
洞窟エリアの地層は、那須鳥山地方に見られる中川層群と呼ばれているもので、はるか昔の火山噴火によって形成された凝灰質砂岩を中心にできているそうです。学会でも土木遺産に認められるほど完全性が高く、大きな地震でもまったく崩れることはなかったそうです。2㎞ほど離れた対面する山では、地滑りによる事故も発生したそうなので、洞窟がどれだけ頑丈だったかがわかります。

思い返してみればつい最近でも大きな地震や豪雨によって、酒蔵が流されたり、瓶が倒れて割れてしまったりなどの被害で出たニュースを何度も目にしました。宮城の酒蔵のエピソードも調べればたくさん出てきます。自然災害によって大きな痛手を受けたなかでも、それを乗り越えようと作り手の方々が奮闘したストーリーを知るだけでも、お酒の見方が少し変わる気がします。
このお酒は、しっかりと味わっていただきます。


次は飯田菜奈アナウンサーです!

高橋 咲良

2022/03/22

東日本大震災の発生から11年となってから数日後の先週水曜日の夜、また、大きな地震が発生してしまいました。
私は地震発生時、仙台市内の自宅におりましたが、どこかにつかまっていないと立っていられないような大きな揺れが、1分近く続いたような感覚でした。
大きくて長い揺れに、不安や恐怖を感じた方が、大変多くいらっしゃると思います。
11年前のあの日よりも、強い揺れを感じたという方もいらっしゃいました。この地震で、家屋の屋根や壁が壊れたり、ガラスが割れたり、断水したりと、様々な被害が確認されています。
一刻も早い復旧を願うと共に、私たちも地域の放送局として、復旧に繋がる情報や皆さんの命や生活を守るための情報を伝え続けます。

今回の地震でも、石巻港で30センチなどの津波を観測しましたが、11年前のあの日の巨大な津波は、それぞれの大切な人、懐かしい故郷、あたたかな住まい、生業、すべてを奪いました。

今回私は、11年前の津波によって自宅と全ての農業用ハウスが流された、山元町のいちご農家の方を取材しました。
仙台放送では、その方を震災発生直後から取材していて、過去のVTRを見ますと、海から2キロ程の場所にあった農園は壊滅状態で、折れ曲がった骨組みだけになったハウスや、泥をかぶり真っ黒になったイチゴなどが映し出されていました。
あれから11年。
震災前と同じ場所には立派な農業用ハウスが再建され、そこには、真っ赤なイチゴが数えきれない程実り、頬張ると思わず笑顔がこぼれる甘いイチゴが育っていました。この風景を取り戻すまでに、どれだけの苦労があっただろうと思いました。
がむしゃらに復興へ向けて走り続け「あっという間の11年だった。」と、その方は話しました。

過去のVTRの中で、おじいちゃんの膝の上にのって、あどけなく笑う女の子。当時2歳だった女の子は、中学1年生・13歳になっていました。
大きくなった彼女は、誰から言われるでもなく、自らイチゴの栽培のお手伝いをはじめました。今の彼女の将来の夢は「農園を継ぐこと」だそう。
その言葉を聞いて、お父さんは「これから、また別のやりたいことが見つかるかもしれないし、それはそれでもちろんいいが、嬉しい」と顔をほころばせました。

彼女は今も、津波の映像は見られないと言います。
当時2歳だった幼い少女の心にも、あの日の光景は悲しい記憶として、深く刻まれているのだと感じました。
そこから立ち上がり、いちごを復活させた家族の背中を見て抱いた「継ぎたい」という思い。いちごを守りたいという思いは、確実に次の世代へ繋がっていると感じました。

続いては、下山アナウンサーです。

金澤 聡

2022/03/18

“スポーツでは、勝敗以上に価値のある試合がある”

先日行われたサッカーJ2リーグ、ベガルタ仙台といわてグルージャ盛岡の試合もそのひとつ。
3月12日に行われた被災地クラブ同士の初のJリーグ舞台での対戦。震災からの希望の光として活動してきた両チームの『東北ダービー』でした。

ベガルタ仙台は、J1再昇格してから2年目のシーズンに被災。
震災発生からおよそ1か月後には、様々な支援や協力があってリーグ戦に参戦。再開初戦の川崎フロンターレに逆転勝利を収め、まさに「希望の光」として、被災したサポーターへ明日に向かう一条の光を見せました。
翌年2012年にはクラブ最高位の2位に躍進し、アジアのクラブNo.1を決める、ACL(アジアチャンピオンズリーグ)に出場しました。
残念ながら昨年はJ2リーグへの降格が決まり、今シーズンは1年でのJ1復帰を目指しての再起のシーズンを迎えています。

いわてグルージャ盛岡は、2011年は東北社会人サッカーリーグ1部に属し震災発生後は被災地に出向きボランティア活動を行っていました。2013年には全国地域サッカーリーグ決勝大会で初優勝を果たし、その年にJリーグ入会が承認され、2014年のJ3リーグ参加が決定しました。
そして今年はJ3リーグから昇格し、J2リーグに舞台を移して戦います。

震災の影響を受けながらも、クラブの歴史を刻んできた仙台と岩手のチームが対戦した、特別な意味での3月12日の試合でした。
胸の透くような青空の下、両チームともに気持ちの入ったプレーを見せてくれました。

勝敗よりも、対戦することに大きな価値がある試合。
仙台と岩手の『東北ダービー』は震災の教訓と復興の思いを改めて考える大事な試合だと思います。

次は高橋アナウンサーです。

梅島 三環子

2022/03/17

3月11日、今年もこの日を迎えました。
3月11日が特別な日になって11年。被災地でそんな声を聞きました。
ただ、震災のことを考えるのはこの日だけではありません。
あの日起こったことに目を向け、考え、気づき、あの日の教訓を絶対に活かさなければなりません。そして、未来の命を守らなければいけないのだと思います。

11年が経ち、子供たちを含めあの日を知らない、また記憶が薄れている人たちが増えてきています。
災害は、必ず繰り返します。

3月11日。
私にとっては、伝えることの意味を深く考えるきっかけになっています。

明日は金澤さんです。

伊藤 瞳

2022/03/16

アナウンサーになって迎えるのは、2度目の東日本大震災発生日でした。

1年目の時は、閖上から中継を行う咲良アナに付いて、現地で見学という形で過ごしました。発生日に被災した場所で過ごすのは初めてのことで、あの日の出来事は本当にあったことなのだと、ずっしりと噛みしめたのを覚えています。
就職前は、関東で暮らしてきた自分にとって、流れる一瞬、一瞬に重みがあって、人生で最も東日本大震災を「感じた」日でした。

そして先日。
2年目になって、今度は同じ閖上から中継をする立場になりました。もちろん、今年も流れゆく時間の重みを感じながらではありましたが、受け止めるのに必死だった1年目と比べると、落ち付いて冷静な心持でした。震災11年の閖上を見つめながら、自分が今ここで、「伝え手」として発信する意味を考えていました。
2年目は、これまで生きてきた中で、東日本大震災を最も「考える」時間だったと思います。

東日本大震災を、見つめる上でも考える上でも、これまで宮城にいなかった時間分、大きなブランクがあるのは分かっています。ただ、それを逃げ道にせずに、これからも一人の「伝え手」として何が出来るのか考え続けていきたいと思います。

写真は、11日にお伝えした、震災メモリアル公園の絵灯篭です。

次は、梅島アナウンサーです。

堤 勇高

2022/03/15

東日本大震災の発生から11年。
私にとっては仙台放送のアナウンサーとして3年目の3月11日です。

先日、震災についてのニュース企画を担当しました。津波で大きな被害を受けた雄勝の若手硯職人を取材し、伝統の継承について伝えるニュースを放送しました。

私は入社1年目の夏ごろにも一度雄勝石の取材をしたことがありました。ニュース番組ではありませんでしたが、今回と同様に硯の工房にもお邪魔し、製作過程も見せてもらいました。
その取材から今回まではおよそ2年半ですが、今回の取材で驚かされたのが風景の変化です。私の知っている雄勝は震災後の姿のみですが、1年目で取材した時の記憶にある硯工房が、今回の取材で雄勝に到着した際に全く見つからなかったのです。

職人の方に案内いただき、ようやく見つけることができましたが、当時の記憶と合致するのは工房の敷地内の景色のみ。周辺については全くと言っていいほど記憶と違っていました。
海沿いのかさ上げされた土地から少し下ったところに、埋まるように建っていた工房。
逆に考えれば一帯のかさ上げ工事などの復興事業がこの2年あまりでどれほど進んだのかを実感した出来事でした。

11年という年月が経ちましたが、その最近の2年でも大きな変化がある被災地、復興はまだまだ続くとともに、続いていかなければいけないと感じます。

写真はその雄勝硯取材の際に撮影した巨大な硯。雄勝硯伝統産業会館に展示されています。この写真の角度では伝わりづらいですが、縦方向の長さは人間と同じくらいあり、雄勝石の重厚感がより迫力をもって伝わってきました。

次は伊藤アナウンサーです。

西ノ入 菜月

2022/03/14

先日取材で、石巻市の南浜・門脇地区へ伺いました。

写真は、石巻南浜津波復興祈念公園の高台で撮ったものです。看板の写真のように、震災前はこの場所に多くの住宅が立ち並んでいました。しかし、津波とその後の火災で大きな被害を受け、多くのものが失われました。

今は復興を願う公園に整備され、景色は大きく変化しています。

今回の取材で対応して下さった女性は関東出身で、実際に東北で被災された当事者の方ではなく、復興支援をするため震災直後に石巻に移り住んだのだそうです。
それ以来、今までずっと震災の記憶を伝える取り組みをされています。

同じく関東出身の私は、去年7月に東日本大震災に関する内容をアナ・ログで書いた際、
「被災をしていない自分が、震災を経験された方の気持ちを代弁しても良いのか」と綴りました。
実はこの女性も、自分が震災の当事者ではないことに関して最初は後ろめたさがあったとおっしゃっていました。

ただ、「被災をしているから、していないから」ということが大事なのではなく、あの日の出来事を、記憶を「繋ぎ続けていくこと」が何よりも大事なのだということを、この女性から学びました。

今年で11年の月日が流れましたが、これから先、震災を知らない世代は増え続けていきます。その世代にも、あの日の様子を自分事のように感じてもらえるような伝え方、自分には関係のないことだと思わないような伝え方が出来るように、日々勉強していきたいと思います。

宮城県では、震災で、未だに1215人の方の行方が分かっていません。
東日本大震災は過去のことではなく、当事者の方々、家族の帰りを待ち続けている方々、支援を続けている方々、そして、同じ時代を生きる私たちにとっても、現在進行形で続いていることなのだと感じています。

防災・減災を学ぶことが当たり前の世の中になって、悲しい思いをする方が少しでも減ってほしいと、心から思います。

明日は堤アナです。

佐藤 拓雄

2022/03/11

東日本大震災は、今日でちょうど11年になりました。

その分、震災を経験していない世代が増えた、ということでもあります。
小学生以下は、震災後の生まれか、当時乳幼児で震災の記憶がありません。

子どもだけではなく、大人にも、そういう側面があります。

最近、地元紙・河北新報に、震災後に入社した若手記者たちが、震災をどう伝えていくか、ということを特集した記事がありました。
2年ほど前には、阪神淡路大震災の被災地の地元紙・神戸新聞が、震災後の入社が6割になり、どう伝えていくかを模索している、という新聞記事を読みました。

私たち仙台放送でも、震災後の入社、つまり、取材者・伝え手として震災を経験していない人が、毎年増えています。
アナウンス部も、現在在籍している11人のうち6人が震災後の入社です。

確かに、発生当時から震災を伝えてきた人と、震災後に入社した人では、経験や受け止め方に違いがあるでしょうし、見えているものが違うことは想像できます。

ただ、私は、それでいいと思います。
大切なことは、被災した宮城県のテレビ局として、伝え続けていくこと。

震災発生直後から、折に触れ言ってきたことですが、最後の一人が「復興した」と言えるまで、伝え続ける責任が私たちにはあります。それだけではなく、震災を知らない世代に伝えていくことも、これからますます大切になってきます。

震災後に入社した後輩たちには、固定観念にとらわれることなく、必要以上に構えず、等身大の感性で、震災に向き合ってほしいと伝えています。
伝えること自体を次の世代に繋いでいくことも、自分の責任の一つだと思っています。

次は、その震災後入社世代の一人、西ノ入アナウンサーです。

寺田 早輪子

2022/03/10

今日からの「アナ・ログ」新たなタイトルは『東日本大震災11年』です。
「日常」は当たり前のことではない…と思い知らされたあの日からもう11年が経ちます。あれから県内各地で様々な「震災当日の体験」と「震災後」のお話を伺いました。

3月11日。テレビでは犠牲になった方々の人数を振り返ります。私はその人数が記された原稿を伝えるたび、「それぞれに家族がいて、友人がいて…」ということに思いを巡らせます。記された人数の何倍もの人々が、大切な存在を失い、一通りではない思いを抱いて、震災後を過ごしているということを、普段の取材を通して痛感しているからです。

11年が経って、やっとお話を伺える方もいらっしゃいます。
新たに出会い、初めてうかがうお話もたくさんあるのです。

先日、石巻市内での取材帰りに鮮やかな黄色がとても印象的なキッチンカーを住宅街で発見。そばで荷物を運び出していたご高齢の男性に声をかけ、お話しをさせていただきました。男性は70代。元々、市内でラーメン店を経営していたのですが、津波火災で店を失い、手を繋いで一緒に避難しようとしていた妻が津波に巻き込まれ、いまだ行方不明であるとお話してくださいました。

「もしかしてな…、もしかしてな…」
改めてインタビュー取材をさせていただいた時、男性が繰り返し繰り返しつぶやいた言葉です。
「もしかして、あの時、手を離さなければ…」「もしかして、今もどこかで無事なのでは…」
いろいろな思いの詰まった言葉だと受け止めました。

震災11年。誰にとっても心の区切りはつきません。
新たな思いに触れるたび、伝え続けることの意義を深く噛みしめています。
つらい体験を「忘れてほしくない」という気持ちから、懸命にお話してくださった皆様の思いを、これからもつなげるために。

☆写真は…、黄色のキッチンカーの前で。ご紹介したエピソードはあさって12日(土)「ともに」で放送します。
続いては、佐藤拓雄アナウンサーです。