アナ・ログ

夏に食べたいもの

佐藤 拓雄

2015/07/14

わが家のベランダには、今年の夏も、次男が幼稚園で育てたミニトマトの鉢がやってきました。
すでに何度か「収穫」されましたが、なにしろ、いわゆる「完熟」状態で収穫して、すぐに食べますから、甘味がすばらしく、とても味がいいのです。
あと何回食べられるか、この夏に食べたいものの一つです。

今回は、次男つながりで、久々に「次男語録」を3つほど。

(その1)
次男「あのね、きょう、○○くん家に、なんだったっけ・・・「もっともっと」?がいたんだよ」
私「もっともっと???」
次男「なんだっけ、ハムスターじゃなくて・・・」
私「あ!モルモット?」
次男「そう!モルモット!」
家族一同、吹き出しそうになるのを我慢しました。

(その2)
ある休日の午後、私が外出から帰ると、外遊びの支度をした次男が玄関にいました。
午前中も外遊びをしていたので、
私「お、また遊びに行くの?」
次男「ちがうよ、「また」じゃないよ。1かい目だよ!」
私「なんで?さっきも外で遊んできたんでしょ?」
次男「さっきは、公園!こんどは(マンション内の)プレールーム!だから「また」じゃないの!」

(その3)
幼稚園で書いたという、七夕の短冊。
「おべんとうが はやく たべれますように」と書いてありました。(「ら抜き言葉」には目をつぶってください)
私「そんなにお弁当を早く食べたいの?」
次男「ぼく、ちょっっっっとだけ、おそいから」
と満面の笑み。
素直、無邪気、とはこういうことか (^ ^)

次男は間もなく6歳。
語彙が増え、大人と対等に話すこともあるかと思えば、こんなふうに子どもならではの話の展開になったり。
日々成長中です。

明日の「アナ・ログ当番」は、飯田アナウンサーです。

夏が来れば思い出す

佐藤 拓雄

2015/07/01

夏が来なくても思い出しますが、長女と次男が夏の生まれです。
次男が生まれた6年前の夏に、育児休暇を取りました。
(写真は次男誕生の日の夏空です)

たった7週間でしたが、これでも長い方のようで、育休取得者の半分以上は2週間以下という統計がありました。
そうした短い期間の人も含めた、男性の育休取得率が、2012年度で1.89%。子どもが生まれた男性の100人に2人も取っていない計算です。

現在の政権は、男性の育休取得率を上げる、ということを声高に言っています。
統計としての取得率に意味がないとは言いませんが、それだけを取り上げて、上がった下がったと言ったところで、少子化や子育て環境全体の中で、さほど大きな意味があるとは、私には思えません。
そもそも、育休は、勤め人、しかも正規雇用だけの話。自営の人もいる、さらには、これだけ非正規雇用が増えている現在、育休だけを論じても、私が取った当時と比べても、意味は相対的に低くなっていると思うからです。
そこは言わずに、一方では、非正規雇用がますます増えるような政策が打ち出される、その矛盾のほうが、私には目立って見えます。

そして、突き詰めて言えば、育休自体は、どっちでもいいことだと私は思っています。休みを取ろうが取るまいが、男も女も、親としてやるべきこと・責任を果たすのみ、というのが今の私の心境です。育休の後も、子育ては20年続きます。その間、どう働き、どう家庭生活を成り立たせるか、ということのほうが、育休を取るか取らないかということより、よほど重要なことです。そして、それに対して社会がどういう仕組みで支え合うのか。

ただ、取りたい人が取れるという環境であることは大事だと思っています。全体の中で何人が取った、ということよりも、取りたい人が取れる、そういう社会全体の寛容さがほしいと思います。
だいたい、「イクメン」なんていう言葉があること自体が、今の世間の状況を端的に表していると思いませんか。
父親の代わりはいないし、母親の代わりもいない。だからやる。それだけのことで、それを理解し合えれば、つまりは「お互い様」だから支え合うということになると思うんですけどね・・・

次は、飯田アナウンサーです。

雨の日の過ごし方

佐藤 拓雄

2015/06/15

写真は、梅雨入り直前、空がまぶしい仙台放送本社前です。

さて、雨の日の過ごし方、と言われても、何か特に変わることはありません。
皆さんもそうではないですか?
雨の日と言っても、仕事も、日常の雑事も、すべきことはあまり変わるわけではなく・・・

雨の日に大きく変わることとがひとつありました。長男の野球の予定です。

妻は、雨とわかっていても、中止が決まるまでは、明け方に起きて食事や弁当の準備をしなくてはならず、準備を終えた頃に、中止、集合時間や予定の変更、といった連絡が来ます。
もちろん、とにかく準備しておかないことにはどうにもなりませんし、中止や集合が遅くなったり、というのは、単に時間的な面で見れば余裕が出るものですので、そこから慌てることはありませんが、徒労感は拭えません。
小学校から始まって、高校になった今も、雨の日の野球の朝は、いつも同じです。

私が、雨と長男の野球で思い出すのは、少年野球の時代。
雨が上がった後のグラウンドの水取りを、子どもたちと一緒に何度もやりました。
大きめのスポンジで水たまりの水を吸わせ、バケツに絞って、その水を側溝に捨てる、ひたすらそれを繰り返して、どうにかこうにか野球のできる状態にするのです。
素手でこの作業をやると、とにかく冷たく、おまけに、手はふやけ、砂が爪に入り、こっちの言葉で言う「やんだくなる」状態です。
ある時、ふと気がついて、炊事用のゴム手袋を持って行くようになって、手の辛さからは解放されましたが、屈んで起きての繰り返しによる腰の辛さはどうにもなりませんでした。時には砂を大量に持ってきて、スコップで水はけの悪い所に撒く、ということもあり、これも腰にきましたね・・・
長男が中学生になって以降は、さすがにそういう場面に親が出ていくことはありませんが、当時は、雨の降っている時よりも、前の日の雨があがった朝のほうが憂鬱でした。
今も、雨の上がった休日の朝は、「少年野球のお父さんたちは、水取りやっているんだろうなあ、お疲れ様です」と心の中で思ってしまいます。

ちょっと本題から外れたでしょうか?

続いては、寺田アナウンサーです。

私の好きな宮城県

佐藤 拓雄

2015/06/05

私が宮城県にやってきたのは、大学に入学した1989年。平成で言うと元年です。
それ以来、宮城に住んで27年目。もう人生の半分をとっくに超える時を、宮城県民として生きているので、生まれ育った出身地よりも、私にとっての地元は、宮城県としか思えません。

生活の本拠としても、宮城県には、本当に何の不満もありません。
アナウンス部の皆さんがこれまでに書いているように、食べ物はおいしい、なんでも近くにある、自然も豊かで気候もおだやか、人は優しい・・・挙げればきりがありません。

私が宮城県に住み続けているのは、もちろん、就職で仙台放送に入ったことで決定づけられたわけですが、実はそれ以前の学生時代から、宮城に住み続けたいと強く思っていました。

今挙げたような魅力の他にも、父親が福島県郡山市出身で、祖父母の住む実家があり、仙台は郡山のちょっと先、くらいの感覚で、もともと親しみがあったこと。そんな孫の私が東北地方に来たことを、祖父母がとてもとても喜んでくれたということ。それほどちょくちょく顔を出すことはありませんでしたが、近くにいる、という思いは、祖父母にも届いていたような気がします。

そして、当時もう一つ大きな動機づけになっていた、ちょっとセコい理由もありました。
宮城に移り住んだ平成の初めは、バブル経済真っ只中。不動産が高騰し、学生ながら、ぼんやりと、将来自分で家を持つなんてことはできないものなんだろうなあ、と思っていました。
それが、こっちに来て、新聞の折り込みチラシを何気なく見て、びっくり。ここなら自分の家が持てるかも、と現実味はないながらも期待を持ったことを今でも憶えています。
実際には、東京の高騰が異常過ぎたんでしょうけどね・・・

ともかく、そんなこともあったりして、来てすぐから、宮城こそ自分の住むまち、この土地が好きだ、という思いを持ち、今に至っています。
この仙台放送の就職試験では、宮城に一生住みたい、ということをアピールした記憶もありますが、宮城で就職することができて、めでたしめでたし。
学生時代の妄想(?)どおり、ここで家族を得て、自分の家も手に入れました。
そういうふうに考えると、恵まれた人生を送れているんですね。感謝です。

写真は、ひと月程前の青葉通。ビルの谷間の新緑が◎

次は、福島県出身の寺田さんです。

OVO !!

佐藤 拓雄

2015/05/13

とにかく圧倒的な超人的パフォーマンス!
人間って、すごい。人間には限界がないのか、と思うほど無限の可能性を感じます。
あまりにすご過ぎることを、いとも簡単にやっている(ように見える)からで、それもこれも、アーティストたちの鍛練の賜物であることは言うまでもありません。

シルク・ドゥ・ソレイユが感じさせてくれる、そんな「人間の力」は、「生きる勇気」と言い換えることもできます。

加えて、今回のオーヴォは、全体として世界観が明るく、「生命バンザイ」的なポジティブさに満ちあふれた内容で、元気が出ます!


さてさて、オーヴォの公演では、ロビーで買った食べ物飲み物を座席でも食べることができます。
全国各地の公演で、共通のメニューの他に、「ご当地メニュー」の食べ物があるんですよ。
仙台公演は、仙台名物の、アレを使ったご当地メニュー。

写真は、名古屋公演のご当地メニュー、その名も「名古屋ドッグ」!
コッペパンの半分にエビフライ、半分に小倉マーガリンという、「名古屋感」満載だぎゃー。
(右のミネストローネは、全国共通メニューです。)

ところで、会場では、できれば開演10分前には席に着いていましょう。
もう始まってますからね!


次は、稲垣アナウンサーです。

便利アイテムと言えば

佐藤 拓雄

2015/04/23

私の便利アイテム。これです!

お分かりになりますか?

米研ぎ棒と、米研ぎ専用ボウル。

どちらも某ホームセンターで購入。
「棒」は私が見つけ、「ボウル」は妻が買ってきました。

「棒」は、まあそのまま。米を研ぐ時に、これでシャカシャカやります。
最大のメリットは、素手を使わないので、真冬でも冷たい思いをせず、米研ぎが辛くなりません。
優れモノです。

しかし、それを凌ぐ優れ度なのが、「ボウル」。
底に小さな穴がいくつも空けてあるのです。
米粒は通さず、水だけが抜けていく、絶妙な大きさの穴です。
研ぐそばから、水切りされていきますし、最後の最後、水をしっかり切りたい時に、すばらしい効果を発揮します。
米研ぎの水切りで、米をシンクにこぼしてしまった、という、小さいことだけど結構ヘコむ経験をされた方は多いのではないでしょうか?
あるいは、ざるに入れて水を切ると、ざるの目に米粒が入り込んで、取るのが面倒くさいという、これまた小さなイライラとか。
かと言って、いつも無洗米というわけにもいかず・・・というような、あまりにも小市民的ですが、そういうストレスからの解放感が心地よい、米研ぎ専用ボウル。
かゆい所に手が届く。逆転の発想。コロンブスの卵。
・・・キリがありませんが、とにかくそんな便利アイテムです。

実際、この2つが我が家に導入されてから、私が「自主的に」米を研ぐ回数が増えたような気がします。「そんなものなくてもやれよ!」と突っ込まれそうなので、このへんで。


飯田アナウンサーの「便利アイテム」は何でしょうか?

佐藤 拓雄

2015/04/16

「新」年度が始まってすぐ、非常にショックなことが相次ぎました。

ひとつは、後輩の配偶者が急逝したことです。
40歳。あまりに若く、あまりに突然でした。
小さなお子さんを遺して、さぞかし無念だったでしょう。
ご家族の悲しみを思うと、かける言葉もありません。
どうして?という思いが、今も頭の中を渦巻いています。

そして、もうひとつは、つんく♂さん。
生きるために声を失ったことを、公にしました。
シャ乱Qが大ブレイクする直前に、番組のゲストとしてお会いしたことがあり、その後も数度番組でお目にかかりました。
それをつんく♂さんが覚えているはずもないでしょうが、私は同い年ということもあり、「夕焼けニャンニャン」の話を楽しそうにしたりするつんく♂さんに、同じ年代を生きてきた同級生のような感覚で、勝手に強い親近感を抱き続けています。
そして何より、あの歌声が大好きです。
華やかで、艶やかで、色っぽく、不世出のボーカルだと思っています。
近畿大学の入学式で、強いメッセージを送られましたが、ご本人の葛藤はどれほどだったか、想像を絶するものがあります。
同時に、私が同じ立場に置かれたとしても、やはり同じ選択をしただろう、とも思います。

二人の方の生と死に相次いで接し、自分の生きている毎日がどれほどありがたく、かつ脆いものであるか、また、命には限りがある、ということを、改めて思い知らされました。
日々を大切に生きる。
当たり前の日常を大切にしたい。
…そうした思いを新たにしましたが、二人のことを思うにつけ、悲しい気持ちで胸がふさがれる、そんな新年度のスタートです。

妻が毎朝淹れてくれるコーヒー。
今朝もおいしく飲めることに感謝です。

明日からは、新たなテーマです。

卒業

佐藤 拓雄

2015/03/26

間もなく年長さんになる5歳の次男が、近頃「もうウルトラマンは見ない」と言い出しました。
何か大きな理由があるわけではなく、どうやら次男なりの「卒業」のようです。

ウルトラマン以前にも、次男自身の「卒業」はすでにいくつかあり、テレビ番組で考えても、あんなに繰り返し見ていたのに、というものを、あるタイミングから見なくなりました。

一方で、大量に所有している、ウルトラマンと怪獣のソフビ人形は、まだ卒業しないようで、日々遊んでいます。
そのソフビ人形の大半は、現在高校生の長男から譲り受けたもの。十年くらい前にウルトラマンを「卒業」したお兄ちゃんから、弟へと受け継がれた、歴史と思い出の品々です。
ほかにも、長男が卒業し、しばらくひっそりしまわれていた品々が、次男に受け継がれ、今度は、次男の中で大いに盛り上がっている、というものは多く、最近では、カードバトルゲームや、「かいけつゾロリ」の本などがそうです。

次男は、飽きっぽいどころか、むしろどんどん物事にのめり込むタイプ。
その次男の中での興味の移り変わりは、ブームが去った、というよりも、文字通りの「卒業」のように見えます。言い換えると、いい意味で、もう次男自身の成長に必要がなくなった、といったところでしょうか。

考えてみると、子どもの成長は、卒業の繰り返しかもしれません。
次男の卒業の歴史、その先を行く、長男の卒業の歴史、さらには、長男が卒業したものが次男に受け継がれていく、卒業の連続。
中学生の長女にも、同じような卒業の繰り返しがあります。
もちろん私自身にも。

卒業を繰り返して大人になるんですね。

そして、子どもの卒業の歴史の最後、クライマックスが、親からの卒業でしょう。長男の、「子どもとしての最後の卒業」は、もう数年後に近付いてきているようです。
寂しくもあり、かと言って、自分もかつてそうだったように、卒業していってもらわないといけない、今から、感傷と希望、期待の入り混じった複雑な心境です。

明日は、寺田アナウンサーです。

2015年 ともに

佐藤 拓雄

2015/02/26

東日本大震災の発生から、まもなく4年になります。
今回は、仙台放送の震災復興キャッチフレーズ「ともに」をテーマに、震災への今の思いを綴ることにします。

去年秋、私自身の家の修理がやっと終わりました。
地震で、壁紙や壁板に大きな亀裂がいくつも入り、キッチンの扉と壁は、落ちた電子レンジの直撃で穴が空きました。
それらが修復され、震災3年半にして、ようやく家の中が、震災の影響を感じない状態に戻りました。

私の家はマンションで、建物全体は一部損壊の判定を受けました。
集合住宅なので、建物も内装も、基本的に管理組合で全体として取り組まなければならず、勝手なことを自分ではできませんが、これほど時間がかかるとは思ってもみませんでした。
人手と資材の不足の中、震災全体の中で言えば被害は小さい方で、かえってこのために後回しにされてしまった、という状況もあったようです。

私の被害などあまりに小さなものですが、それでも、毎日、部屋の中の被害を目にしながら生活するのは、それなりの負担感がなかったといえば嘘になります。
私でさえこうなのですから、家を失った方、今も仮設住宅で暮らす方、半壊した自宅で暮らし続ける方…こうした方々のお気持ちは察するに余りあります。

阪神大震災のあと、兵庫県が行った「生活復興調査」をみると、「自分が被災者だと意識しなくなった」人が過半数となったのは、震災1年となっています。住宅の被害状況別では、一部損壊の人で1年、半壊の人で3年、全壊の人は10年。これが過半数ですから、実際には、もっと時間がかかっていることになります。同様の調査は、宮城県では行われていませんので比較しにくいのですが、感覚的には、私たち東日本大震災からの生活復興のほうが、ペースは遅いように感じられます。

震災や被災者であることを意識しなくなることも、ひとつの復興で、全員が一日も早くそうなってほしいと願います。
一方で、意識しなくなることと、忘れることは違うとも思います。
生活から震災のにおいが消え、それでも、震災を忘れない。大切な人を失った方には、そんなことができるはずもなく、都合のよい考えなのでは、と思いながらも、できれば、誰もがそういう心持で暮らせるようになってほしい。
それが4年経った今の私の気持ちです。

あすは木下アナウンサーです。

(そういう季節なので…)寒い記憶…

佐藤 拓雄

2015/02/16

もう18年も前になってしまいましたが、1997年の1月、NBA観戦のためにアメリカに行きました。
NBA愛好仲間6人で、バスケットを観て、バスケットに関する場所を観てまわる、「三昧」な旅行です。
当時は、マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズの二度目の全盛期。
とにかく、「神様」マイケル・ジョーダンを、どうしても、生でこの目に焼き付けたい、というのが、一番の願いでした。

(写真のように、会社のデスクでは、今も「神様」を毎日拝んでいます。)

この旅行に関しては、2007年5月1日付の、当アナ・ログで書いていますので、改めて自分でも読み返してみましたが、まあ、ハイテンションな旅行でした。
「一生の思い出」の一つと言えるものだったなあ・・・

それとは対照的に、低いなんてものじゃなかったのが、気温でした。

この時は、ミルウォーキーに一泊して、ブルズのアウェイの試合を観戦。
翌日は、シカゴに移動してホームの試合。
そのあと、ダラスに飛んで、さらにもう一試合(これはブルズではなかったですが)、という日程でした。

ダラスは南部なので全く気候が違いましたが、北部の町である、ミルウォーキーとシカゴは寒かった。ただでさえ真冬、しかもこの時は、寒波が到来していて、連日、最高気温が氷点下10度くらい。北海道の方々にとってはなんでもないことかもしれませんが、仙台あたりに住んでいると、氷点下10度なんて、ほとんど経験しませんからね・・・
防寒対策はしっかりしていたのですが、頬など、露出しているところがピリピリ痛い。反対に、建物の中の暖房が強くて暑いくらい。
中と外の温度差の大きさには困惑しました。

とはいえ、こちらは、そんなことは軽々と越えてしまうくらいのハイテンション。痛いくらいの寒ささえも心地よく感じられます。
あの空気の冷たさ、感覚も含めて、「一生の思い出」です。

心頭滅却すれば火もまた涼し・・・ではないか。意味が違いますね。

旅行先では、寒さも楽しい記憶になるという、当たり前の結論です。
失礼しました。

次は、飯田アナウンサーの「寒い記憶」です。

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