アナ・ログ

2016年 ともに

佐藤 拓雄

2016/03/11

担当している番組「ともに」は、震災翌月の2011年4月に放送を始め、毎月1回、被災地の今、復興の今を見つめています。今日が60回目の放送です。

この番組の中で、南三陸町歌津地区の様子を継続的にお伝えしてきました。
毎回、歌津駅前という同じ場所の風景を撮影し、その変化を(変化がないことも含め)感じていただくということも試みています。60回の放送のうち半分近くの回で、歌津の今をお伝えしました。

写真が、その同じ場所から見た、歌津駅前の風景です。
上が2011年5月。下が、今月です。
風景は、5年で随分変わりました。
5年前は、かろうじて道路が通れるようになったものの、至る所がれきだらけでした。
現在は、かさ上げ工事の盛り土がいくつもできています。
集団移転の宅地や、災害公営住宅の建設は、おおよそめどが立ったようです。

しかし、いまだ仮設住宅を出られない方が、この歌津地区だけでも、760人。
仮設商店街は、先日、かさ上げ工事のため、場所を変えましたが、仮設から仮設への移転で、今も仮設のままです。

5年もの月日が流れて、全員が「仮設」を出る、ということすら終わっていない。
その間に、誰もが等しく5歳、年をとったわけです。

5年経った歌津の風景を見るにつけ、なんとも歯がゆい思いがします。
無力感も小さくありません。

それでも、私たちテレビ局にできるのは、伝え続けること。
それが私たちの使命、役割だと思っています。

最後の一人が「復興した」と言えるまで、「ともに」前へ進みましょう。

次は、梅島アナウンサーです。

ウインタースポーツ

佐藤 拓雄

2016/02/22

我が家の子どもたちは、仙台生まれの仙台育ち、スキー場だって、車で1時間以内のところにあるのに、幼稚園児の頃、何度か、ソリをしにスキー場へ行った以外は、まったくウインタースポーツに親しんでいません。もちろんスキーはできません。
関東や西日本の方々には、仙台なのに、どうして?と思われたりするのでしょうか。
理由は単純。学校でスキーの授業もない中、親が連れて行かないからです(苦笑)

私自身は、はっきり言って、雪や氷関係のウインタースポーツ、特にスキーには、コンプレックスありです。
東京で育ち、社会人になるまで、スキー場など行ったこともありませんでした。
高校の時、学校で自由参加のスキー教室があり、スキーに触れるチャンスがあったのですが、「行きたい」と言ったところ、親に「ダメ」と言われてしまいました。理由は不明。
クラスの友だちの多くが参加したため、とても寂しい思いをし、それ以来、その出来事への反発心があって、大学に入って仙台へ来ても、「スキーなんかやるもんか」と屈折した気持ちを持ち続けていました。
社会人になって、仕事がきっかけの一つになり、独身時代の3シーズンほどスキーにハマった時期もありましたが、その後は足が遠のきました。結局それほど好きでもないということでしょうか。

妻は、高校時代、スキー部、しかもクロカンのほうだったという、私からすると実に意外な歴史をもっていますが、結婚前から「スキーに行こう」と言ったことはありません。
妻は、雪道の運転もかなり嫌がりますし、これでは、家族でスキー場なんて、行くわけないですよね(苦笑その2)

・・・という、インドアよりな夫婦で、最近の外出というと、冬ですが、末っ子と3人で八木山動物公園。
地下鉄東西線ができて、実に身近になりました。ちょこっと行ってこられます。
冬の動物園もいいですよ~
大型動物が室内に入っていることが多く、至近距離で見ることができます。
それから、寒い地域の動物が活発です。

で、八木山動物公園では、ウインタースポーツじゃなくても、ベーブ・ルースが、いつでも豪快なバッティングを見せてくれます。お尻に次男坊が隠れています。そんな写真で、きょうはおしまい。失礼しました。

次は、青森出身の高谷アナウンサーです。

寒いからこそ!

佐藤 拓雄

2016/02/08

受験シーズンたけなわ。
我が家の長女もついに高校入試本番が始まりました。
入試直前のある日、6歳の次男が、折紙と鉛筆、はさみ、セロテープを取り出し、猛然と創作活動を始めました。
よくあることなので、何ができるのかとそのままにしておいたら、できたのは、これ!(写真)
「ぜったいごうかく がんばれ」
お姉ちゃんへの受験のお守りだったのです。
親バカですが、胸が熱くなりました。目頭も。

一方、高校2年で、受験の先輩である長男は、これまで、時には、分からない問題を教えてくれたり、時には、「先輩風」を吹かせたり、時には、親の私たちの方が、受験情報について長男にアドバイスを求めたり、高校生らしい、一定の冷めた距離感を保ちつつ、いろいろな関わり方をしてくれていました。
長女にとっては初戦となる、私立の入試当日の朝、長男は、自分自身の通学の支度もそこそこに、玄関付近をウロウロ。妹の出発を見送りに来てくれたのです。
「じゃ、いってきます」という妹に、ひと言「がんばれよ」
これまた親として胸が熱くなりましたが、その直後、長男の視線は手もとのスマホに。余韻も何もないのか!(苦笑)。まあ、こういう距離感がいいんでしょうね。

弟のお守りをカバンにしまい、試験に臨んでいる長女。
とにかく、ここまでに蓄えた自分の力を出し切ってほしい、と願うばかりです。

「寒いからこそ」、ちょっと温かくなるお話を、と思って書きました。
手前味噌な「親バカ我が家ネタ」で、皆様が温まったかどうかは、自信ありませんが。すみません。

明日は梅島アナウンサーです。

神頼み

佐藤 拓雄

2016/01/22

先日、妻が長女(中3)を塾の迎えに行った時のこと。
家には、私、長男(高2)、次男(幼稚園年長)の男3人。
次男にとってはもうそろそろ寝る時間でした。
その次男が、寝室に一人でずっといるので、リビングにおいでよ、と声をかけると、「ママに、お布団でごろごろしてなさい、って言われたから」と忠実に言いつけを守って、寝室から出てきません。
しばらくして、長男が様子を見に行くと、眠ってしまっていました。健気にお布団でママの帰りを待っていたのですが、力尽きた模様です。
電気を消して戻ってきた長男の一言。
「待機児童だね」
うまい!座布団一枚!
帰ってきた妻、長女とも大笑い。
結局、寝ていても我が家の「センター」は次男なのかもしれません。

ところで、塾から帰ってきたその長女は、前回も書いたように、高校受験間近。「神頼み」は、すでに済ませました。
大変なのは本人が一番でしょうけれど、親の立場で迎える受験は、二度目でも、やはり気持ちが落ち着きません。
一昨年の長男の受験のことも、このアナ・ログに書きましたが、試験後、発表までは、自分の受験のほうがはるかにマシ、という落ち着かない気持ちになりました。今回もきっとそうなのだろうな、と覚悟はしていますが、こうなると、神頼み、ではなく、神に祈る心境です。
長女が終われば、来年は長男の大学受験。そのあとまた長女の大学受験、さらには次男・・・と、一体あと何度神頼みをし、神に祈るのか(笑)
親って、つくづく無力ですが、送迎をしたり、体調を気遣ったり、あ、もうひとつ、塾の授業料とか経済面も(苦笑)、とにかく親としてできることを全力でしながら、なんとかベストな状態で力を出し切ってほしいと、これまた神に祈る毎日です。

写真:長女の勉強机にも、南三陸町特産の合格祈願お守り「オクトパス君」が鎮座しています!

次は、高谷アナウンサーの「神頼み」です。

2016年…どんな年に?

佐藤 拓雄

2016/01/14

今年は初詣を2回しました。
2回目は「初」詣じゃないか。

それはともかく、1回目は、元日の午後、ほぼ毎年恒例の、いわゆる普通の初詣。写真がその様子です。それなりに混んでいました。
今年は、何年かぶりに、家族が全員元気で落ち着いたお正月を迎えられたこともあり、お昼前から父と楽しく気持ちよく飲んで、結構酔っぱらった状態でのお参りとなってしまいました。神様には申し訳ないような気もしますが、平和で健康だからこそ、ということで、お許しください。

2回目は、翌2日の夕方、長女と二人だけで行きました。
長女は間もなく高校受験。当然、合格祈願のお参りはしたいところですが、元日だと混雑が予想され、寒い中で長時間となると好ましくないし、人ごみで風邪などをもらってしまうのもさらに好ましくない。
かと言って、元日は元日でみんなでお参りしたい。
ということで、折衷案。
元日は長女だけ留守番、翌2日、正月早々の冬期講習帰りに、さっとお参りしたのです。
作戦通り、混雑を回避し、合格祈願の絵馬も書いて、短時間で帰ってくることができました。

2年前、長男の高校受験の時も、やはり二人で元日ではない日にお参りし、絵馬を書きました。長男は無事合格したので、この「ずらした初詣」は縁起もいい、と勝手に思っています。

話はちょっと変わって、私の今年の初夢には、富士山と茄子が登場しました。
鷹も出てきたような気もしますが、これは記憶が定かではありません。

「一富士二鷹三茄子」。その意味には諸説あるようですが、富士山は、末広がりと日本一で子孫繁栄・商売繁盛、茄子は毛がない、つまり「ケガない」、家内安全、というような説があるそうです。
占いや縁起担ぎは、自分に都合のよい所だけをとればいい、というのが私の流儀なので、この↑説、採用です!

そんな一年になればいいと思っています。

続いては、稲垣アナウンサーです。

今年の漢字2015

佐藤 拓雄

2015/12/10

生きていること、について考えさせられた一年でした。

今年は、いつになく訃報が多かったように感じます。
同世代の知人など、早すぎる訃報、突然の訃報が多く、何度も言葉を失いました。
他人事ではない、という思いで、いつまでも、皆さんの訃報を忘れられません。

有名人の方の訃報にショックを受けたこともいつも以上に多かったような気がします。
女優の川島なお美さん、俳優・今井雅之さん、元大関貴ノ浪の音羽山親方、柔道の斉藤仁さん、元プロ野球選手の盛田幸妃さん、電撃ネットワークの三五十五さん、といった方々は、私と10歳も違わない、同世代です。

訃報だけでなく、命にかかわる病気になったことやその闘病生活を公表された有名人もたくさんいらっしゃいました。
つんく♂さん、北斗晶さん、生稲晃子さんなど、同い年、同世代の方々の闘病に、とても動揺しました。皆さん、つとめて前向きなお話をされますが、やはり他人事ではない、という思いを強くします。

つくづく感じるのは、自分が生きていること・生き続けられることは、本当に奇跡的なことであり、言い換えれば、何の保証もない、はかなくもろいものなのだ、ということ。生命に限りがある、という当たり前のことを、またしても思い知らされた、とも言えます。もちろん、これまでも、そういうことを感じる経験はいくつかありましたが、今年の感じ方は、そうした以前の感覚とは少し違っているように思いました。(念のため、私自身に今現在何か健康の問題があるわけではありませんので、ご心配なく。)

先日、母の七回忌と曾祖父の五十回忌(!)の法要がありました。ご住職の「今こうして在るのは全てご先祖様のお陰」という言葉が胸に響きました。

漢字一文字で、というお題に従うなら、「生」かもしれません。ただ、そんなふうにまとめてしまうのは、余りにも不遜で謙虚さに欠けるような気がしてなりません。

【写真】先日、初めて訪れた出雲大社です。正式には「たいしゃ」でなく「おおやしろ」というそうです。あいにくの雨でしたが、こうした場所では、「清めの雨」として縁起がいいとか。

次は、高谷アナウンサーです。

”断捨離”

佐藤 拓雄

2015/11/26

断捨離。
心を動かされる言葉です。
余計なモノを捨て、さっぱりシンプルに暮らしたい、という潜在的な欲求を見事に突かれた感じがします。
多くの人にとって、そうなのではないでしょうか。

同じカテゴリーで、最近、「ミニマリスト」というものにも大いに興味があります。
ある意味、究極の断捨離といったところでしょうか?
・・・それぞれよくご存じの方には「違う」と怒られるかもしれませんが、不勉強は見逃して下さい。

しかし、そんな言葉に心を動かされながら、モノが増えるばかりの自分の生活という現実に目を向けると、時々、不思議な気持ちになることがあります。
日々「豊かさ」を追求しているはずなのに、一方では、そうした物質的豊かさは邪魔だと言わんばかりの考え。断捨離は、物欲を断って心の豊かさを、ということでもあるのかもしれませんが、どこか自己矛盾している感覚になります。そして、物欲の何がいけないんだ、と開き直った気持ちまで沸き起こってきたり。
どっちなんだ?と言われれば、「どっちもです」と答えるしかありませんし、要するに、バランスなんでしょうが、おいしいものをお腹いっぱい食べたいのに、ダイエット、というのとそっくりですね。

物質的豊かさがなかった時代や食糧難の時代に、断捨離もダイエットもなかったでしょうし、物欲も食欲も人間の本来的な欲求だと思いますので、現代日本特有の現象なのだろうなあ。
飽食の時代、「飽物」の時代、そんな言葉も頭に浮かびました。

どちらも捨てきれないから、私はいつまで経っても凡人なのでしょうし、あちらこちらへ心を動かされてしまうのでしょう。
言うならば、そういう全ての煩悩を超えた、達観した心境で暮らせたらどれほど心が平穏なのか。
まあ、そんな日は一生来ないと、なかば諦め開き直っていますけれど。

通勤途中、そんな煩悩を忘れさせてくれるような、初冬の風景に出会いました。でも、この柿、まず収穫できないだろうな、おいしそうなのに、と早くも食欲という煩悩が(笑)

明日は、梅島アナウンサーの断捨離です。

「“特別編”浅見アナ卒業」

佐藤 拓雄

2015/11/17

私が仙台放送に入社したのは1993年。
計算してみると、その当時の浅見さんの年齢を私はいつの間にか超えていました。
にわかには信じられません。
当時の浅見さんは、アナウンス技術はもちろんのこと、貫禄があり、オーラがあり、落ち着いていて、全てが大ベテランの風格だったからです。
当時は、自分も20数年経つとこうなっているのかなあ、と思ったりしましたが、それは甘い考えだったようで、結局今の私は、その足元にも及んでいない気がします。

さて、浅見さんの思い出はいくつもありますが、私の結婚式の時のことを思い出しました。
私は結婚式を町の教会で挙げたのですが、浅見さんも来てくださいました。
フォーマルをビシッと着こなし、教会に現れたオシャレな浅見さん。
話がそれますが、浅見さんのオシャレな姿は、男性アナウンサーの鑑だと妻がよく言います。私も全く同感で、アナウンサーはこうあれ、という姿を自ら示していらっしゃったと思います。
で、結婚式にいらした浅見さん。
開口一番「いやー、そこを通りかかったら、『佐藤拓雄・岡田(妻の旧姓)明子結婚式』って書いてあったから、びっくりしてつい来ちゃったよ」。
一同が大爆笑したことは言うまでもありません。
式を終えて、私たち夫婦がハイヤーでその場を失礼するとき、あのよく通る大きな声で、
「拓雄君、明子さん、バンザーイ!」とその場の全員を巻き込んでの万歳三唱。
うれしかったですね。

それから思い出すのは、有名スポーツ選手などの出身校にとんでもなく詳しいこと。
特に出身高校ですね。
「誰々選手」というと、「○○高校出身な」と返ってくるのです。
もっと面白いのは、甲子園の時期。
例えば私は西東京地区の出身ですが、西東京代表が出てくると、どの学校であっても、「お!拓雄さんの母校!」。
なので私は、東東京代表校を「浅見さんの母校勝ちましたね」と返すのです。
こんなやりとりを浅見さんは会社中の人としていました。
中には、「僕の母校はそこではありません!」とマジ返しして、浅見ギャグについていけない若手社員もいたりしましたね。

思い出話は尽きませんが、まだまだ今後もお世話になると思います。
よろしくお願いいたします。

では、明日、その浅見さんにご登場願います。

ご飯のおとも

佐藤 拓雄

2015/10/28

先日、生まれて初めてという体験をしました。
コイン精米機による、玄米の精米です。
当たり前のように使っている方には笑われそうですが、コメ農家に親戚も知人もいない私にとっては、お米は、この歳まで、スーパーか米屋さんで買うしかない、そういうものでした。
今年の新米のシーズン、コメ農家の親戚がいるという知人から、玄米を分けていただき(もちろん買ったんですよ)、30キロの大きな袋を車に積み、妻と二人で精米に行ったのです。
いかにも不慣れなコイン精米未経験者が二人、そもそもの説明書きを読むところからですから、客観的に見ると、ずいぶん滑稽だったかもしれません。
当初私は、30キロが重いのと、なんだか面倒くさいのとで、文句を言いながら精米に行ったのでしたが、ひとたび機械を動かしてお米を投入してみると、なんといい香りがすることか!炊いていない生のお米が、こんなにいい香りがするんですね~。そして、精米され出てきたばかりのお米があたたかい!こういうのも、当たり前の方には、何をいまさら、ということなんでしょうね。
そして、もう一つ驚いたのは、精米度合いもいろいろ選べるようになっていて、「無洗米コース」まであること。面倒くさがりの私と、冬場の手荒れに悩む妻は、「無洗米コース」を選択。あたたかく、香り高いお米を再びよいしょと車に積んで、心まで温かく帰宅しました。

ごはんの「おとも」じゃなくて、ごはんそのものの話が長くなりました。
「おとも」の方で、真っ先に思い浮かんだのが、長男の大好物、「だし」です。山形の郷土料理で、分かる方には説明不要ですが、分からない方には、なんだろう?きざんだ漬物、と言ったらいいんでしょうか。
私ももちろん大好きですが、とにかく、長男は、ごはんがすすまない時でも、これさえあれば大丈夫、というくらいです。
我が家はもっぱら売っているものを買うだけですが、長男の同級生の家では、山形出身のお母さんが手作りした「だし」を食べているとか。山形のご家庭では、当たり前に作るようですね。
ふと思いたって、クッ○○ッドを検索してみたら、レシピがたくさんありました。今度作ってみようかな。

明日は稲垣アナウンサーです。

運動会

佐藤 拓雄

2015/10/06

青い空に、白い雲、そして、万国旗。
この秋、子どもの運動会で、お、これはこのテーマの写真になる、と思い撮っておきました。

自分の運動会の記憶をたどって思い出されるのが、40年以上前、自分が幼稚園のときの「はじめのことば」です。
開会式での、「これから、うんどうかいをはじめます。ぼくたちは・・・」という、選手宣誓的なものです。
年長組の時、どういうわけか、これを私が一人でやるよう指名されました。

今でこそ、こういう仕事をしていますが、子どもの頃は、人前で話すことが得意なわけでもなく、この子は将来アナウンサーになるにちがいない、などと言われたことも一度もなく、したがって、私の才能を幼稚園の先生が見抜いて、ということは決してなさそうです。

そんな6歳、いや、誕生日前で5歳か?ともかく、そのころから真面目なだけが取り柄だった私。宿題などの、やれと言われたことはとにかくやる、そういう子どもだったので、毎日練習し一生懸命覚えて当日を迎えました。

しーんと静まり返った広い校庭で、マイクを通って反響する自分の声と、無事終わった時の解放感は今でも記憶の片隅にありますが、そのことによって、人前で話す快感を知り、今に至る・・・なんていう、できすぎたストーリーはまったくなく、その後、数々の挫折を経ていくつもの夢が破れ、紆余曲折の末、40年前には思いもしなかった今の私がいます。

ごちゃごちゃどうでもいいことを書きましたが、小さいころから短距離走は得意だったので、運動会は大好きでした。徒競争だけでなく、リレー、騎馬戦、組み体操、棒倒し・・・どれも大いに張り切って取り組んだなあ。でも今は、子どもの運動会の保護者競技にすら、怪我をしそうなので出場しません(苦笑)

明日は、高谷アナウンサーの運動会です。

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