ともに 金澤 聡 2011/08/15 地震発生から6日後、取材のため気仙沼へ。道中は車のヘッドライトさえも暗闇に消されそうなほどどこまでも暗く静寂に包まれていて、どこを走っているのか方向感覚を失った。夜8時過ぎに到着。気仙沼の市街地を見渡せる高台に立ったが、ここでも方向感覚を失った。明かりがないので、街なのか、海なのか、全く分からない。ガソリンや重油の油の臭いが鼻を突く。2次火災の恐れがあったので、警戒にあたる1台の消防の赤いパトランプだけが、暗闇に明滅していた。車中泊した翌日早朝、日の出とともにもう一度高台に向った。眼下の光景は現実かどうかの感覚を失うほどだった。街全体が押し流されていた。がれきが3メートル以上の高さでうずたかく積もっていて、道路をふさいでいた。線路が寸断されていた。家が川の中に横倒しになっていた。車が家の2階部分に突き刺さっていた。大きなガスタンクが道路に転がっていた。高台を降りて街に向った。流された車のボンネットの上に登り、がれきの上を慎重に歩きながら何とか道路らしきところに出た。津波の被害を免れた地元の建設業者が重機でがれきの撤去作業をしていた。がれきの中に行方不明者がいるかもしれないので慎重に作業を行っていると言う。そして、テレビできちんと気仙沼の現状を伝えてほしいと作業している方が話しかけてくださった。この時点では気仙沼は停電していたため、テレビが見られないという。ライフラインが寸断され、通信も遮断。逼迫した状態が続いている中で、甚大な被害にあった地域のために自分は何ができるのか。何をしなくてはいけないのか。マスコミが、テレビが、被災地とともにできることはなにか。何を被災地から伝えるべきか。テレビの存在意義を考えさせられた。一日も早い復興を願って。今回の震災で被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。いまだ多くの方が避難所で生活されています。我々アナウンサーも皆様、そして、宮城、東北の復興の一助になることは何かを日々考えております。次回のアナログも「ともに・2」と題して掲載させていただきます。
ともに 2011/08/12 がんばってっど!この度はたくさんのご支援をいただき、ありがとうございました。復興に向け頑張ります!先日、こんなお葉書を頂きました。奥松島縄文村歴史資料館からです。ここは、東松島市宮戸地区の対策本部が置かれているところです。子供たちの笑顔、がれきの片付けや漁具の手入れをする人たち、海辺を泳ぐ鯉のぼり・・・葉書には、そんな写真が載せられています。地盤沈下した道路を不安を感じながら通行すると、野蒜海水浴場に・・・・・・慰問落語会に訪れた落語家の月の家鏡太さん、この辺りは、彼の親戚が住むところで、小さい時には、毎年海水浴に来ていたといいます。この光景に、さすがに噺家さんも言葉が出ませんでした。しかし、笑いを届けたいとやって来てくれた鏡太さん、柳家一琴さん、太神楽の翁家勝丸さんの青空寄席に集まってくれた浜の皆さんの表情には、笑顔が見られました。私もホットした瞬間でした。仕事でも、プライベートでも、微力ながら、そして末長く、サポート出来ればと思いつつ、仙台に戻りました。
ともに 梅島 三環子 2011/08/11 ご無沙汰しております、梅島三環子です。雪のふっていた、3月のあの日から季節はすっかり夏になってしまいました。もう8月なのか、まだ8月なのか、わたしも未だに複雑な思いを抱えながら過ごしています。先日、若林区荒浜の深沼海水浴場を取材させていただきました。海水浴場の入り口は、未だガレキの山。砂浜には、どこから流れ着いたのか大量のゴミがありました。海水浴シーズンというのに、だれもいない深沼は、本当に不思議な光景です。震災を乗り越え迎える初めての夏。海で遊べない夏でもあります。プールで出会った子どもたちが、海に行きたいと残念そうにしていたのが印象的ですが、皆が色んなことを色々な形で我慢する夏なのかなと思っています。出来ないことをあげれば、キリがありませんが、楽しいこともきっとあると…。みんなで、素敵な夏を過ごしたいですね。明日は、浅見アナウンサーです。
ともに 佐藤 拓雄 2011/08/10 2011年3月11日午後2時46分。その時、私は、本社4階アナウンス部の自分のデスクにいました。フロア中の携帯電話から「緊急地震速報」のけたたましい音が鳴り、報道フロアからも、「緊急地震速報」のサイレン音が聞こえてきました。程なく始まった揺れは、どんどん強くなり、社屋全体が、まるで列車か何かのように、北の方向へ走り出すような感覚でした。どのデスクからも物がドサドサと落ちてきます。立っているのも困難なほどの揺れ。アナウンサーとして、「とにかくスタジオに向かわなければ」と、激しい揺れの中、左右によろけながら、這うようにしてニュースセンターのスタジオへ。まだ大きな揺れが続く中で、緊急の放送に入りました。時間の経過とともに、次々に入ってくる情報ひとつひとつの、あまりの恐ろしさ、信じ難さ。一体何度、全身が凍りつく思いをしたことでしょうか。24時間体制の放送を続ける中、3日目の夜だったと思います。私はこんなことを放送で申し上げました。「仙台放送では、随時、被害状況と生活に関する情報をできる限り詳しくお伝えします。どうかご活用いただければと思います。そして、一人でも多くの方のご無事が確認できるよう、祈る気持ちで、取材・放送を続けていきます。」また、さらに数日後の放送では、こうも申し上げました。「仙台放送では、同じ被災者として、何とか皆様のお役に立ちたい、ともにこの大災害から何とか立ち直っていきたい、そういう思いで取材・放送にあたっています。」私は、これが、「ともに」の原点だと思っています。私たちローカルのテレビ局の役割、すべきこと。この非常時に、改めてはっきりした私たちの使命と、私たちの思いを凝縮した「ともに」という言葉を胸に、日々の仕事に向き合っています。末筆ながら、犠牲になられた方々に、心よりお悔やみ申し上げるとともに、今も困難な生活を送っている方々が、一日も早く元の生活を取り戻せますよう、お祈り申し上げます。続いては、スーパーニュース担当、梅島アナウンサーです。
ともに 2011/08/09 私は東日本大震災の発生の瞬間は東京におり、翌朝、東京支社から18時間半ほどかけて宮城に向かいました。当時、一般車両が走れるのは下道のみ。並行する高速道路を見上げると、走行が許されている自衛隊車両が何十、何百台と列を作っていました。不謹慎ではありますが「映画のワンシーンのようだ」、それが第一印象でした。日本全体が被災地を全力で救おうとしていると実感した瞬間でもありました。宮城に到着した翌日、私達中継班9人は気仙沼へと向かいました。被災地入りしたのが午前3時。車のヘッドライトが街中に残る潮に反射し、暗闇にぼんやり浮かび上がる本物の廃墟を見た瞬間は背筋が凍りました。この日を皮切りに1ヶ月特番があった4月11日までの間、私は被災地で移動日を含めて20泊24日間の泊まり込み、そのうち7泊を車中で過ごすことになります。取材の最中には緊張感が高まる瞬間がありました。突如発表された大津波警報。原発の爆発。目の前で搬入されていく遺体の数々。気仙沼市街地での大規模火災では、100mほど先のガスタンクまで火の手が伸びれば、私達がいる高台も吹き飛ぶのではないかとさえ思いました。そういった状況下では、消費期限が切れた水を使い、雪が舞う公園の公衆トイレで頭を洗って過ごす日々は意外と平気なものでした。そして何より避難所を訪れる際に、必ず笑顔で迎えて下さる被災者の方々には大変、勇気付けられました。物資不足のため、発災直後の数日間は1日におにぎり2,3個のみでの生活を強いられていました。それでも明るく迎えて下さり、「何も食べていないでしょう?おにぎりを食べていきなさい」と声をかけてくれました。もちろん受け取ることはできませんが、毎日、何人もの方が、そう話しかけて下さりました。誰よりも辛い状況であるはずの方々が、仕事で避難所に訪れている私達に、そういった優しさを見せてくれるのです。新渡戸稲造の『武士道』に描かれている、惻隠の情が東北の方々の心には根付いていると実感しました。助け合いの心…。世界の歴史の転換期で見えたものは、日本人の心に変わらず宿る大和魂でした。次は佐藤さんです。
ともに 林 佳緒里 2011/08/08 今日は仙台七夕最終日です。今年の開催は、多くの人が待ちわび、多くの人にとって忘れられない七夕になったのではないでしょうか?皆さんはご覧になりましたか?さて、アナログ上では大変ご無沙汰しておりました。この間、あの未曾有の大震災が発生し、全てが一変しました。私自身、あの日に起きたことが今でもどこか信じられずにいます。震災で大切なご家族やご友人をなくされたり、ご自宅を失った方にとっては、月日がどれだけ経とうと、そのお気持ちが簡単に休まることはないと思います。どうか無理はなさらず、心も体もゆっくり休めてください。まもなく震災から5ヶ月がたちます。いろんな意味で地域間の温度差がでている中、被害の大きかった地域でも、そこに住む皆さんは自分達で前へ前へ進もうとしていらっしゃいます。取材でうかがった塩釜市の離島、浦戸諸島・桂島に住む皆さんもそうでした。震災で亡くなられた方は一人もいませんでしたが、多くの家屋が全壊、流出し、生活は一変。主要産業「ノリの養殖」も大きな被害を受け、養殖いかだ、ノリの製造機、加工場などを失った生産者も多くいました。どんなに大きな被害をうけても生産者の皆さんから出るのは、「自分達にはノリしかない!ノリがある以上は、何があっても島に残る!」という強い言葉。もう個人で養殖を立て直すことは出来ません。今を乗り切るためには、仲間との作業が必要です。それでもいい!と、生産者たちは、初めての共同養殖を始めました。大きな決断でした。ともに今を乗り切り、前に進もうという思い。助けを待っていてもいつになるか分からない、だったら自分達で動こう。この姿には、本当に感心させられました。この心の強さはどこから来るのでしょうか?私もこうした皆さんの姿を追い続け、伝え続けなければならないと強く感じました。時間がかかっても、着実に前に進んでいけることをかげながら応援させていただきたいと思っています。続いては広瀬アナウンサーです。
ともに 飯田 菜奈 2011/08/05 8ch Clubの個人ブログ内では、震災後も日々の仕事のことや、感じたことを書いてきましたが、アナログに文章を書くのは震災以降初めてとなります。アナログを読んでくださる一人一人が、異なる生活環境に置かれている中、感じ方も人それぞれだと思います。この場で何を書いたらいいのか‥、悩むところではありますが、テーマに沿って私なりに綴らせていただこうと思います。先月下旬に、旅番組のロケで塩釜・松島・登米の方へ行ってきました。“塩釜”と“松島”へは、震災前に何度か訪れたことがありますが、震災後は初めてでした。風景が変わってしまったところも多く、瓦礫が撤去されたとはいえ、まだ震災の爪あとが残っているのを感じました。でも、営業を再開しているお店の店員さんは本当に明るく元気で、私達を歓迎してくれました。『津波があの線のあたりまで来たんだよ。当時は、そりゃもう大変だったけどね』なんて話しながらも。私達がロケをしていたのが平日ということもありますが、観光スポットであるはずの場所は、以前よりも静かでひっそりとしているように感じました。日本三景のひとつである松島、そして美味しいお寿司が有名な塩釜。いつかはきっと、震災前のような状態に戻ると私は信じています。そのためにできることは、営業を再開したお店に足を運ぶこと! せっかく営業を再開しても、お客さんが来なければ復興にはつながらないと思います…。元気にお店を再開させ、頑張ろう!としているお店の方々に出会い、”ともに”できることは何か考えさせられ辿り着いた答えが、『また近いうちに松島、塩釜に遊びに来よう!何度でも足を運ぼう!』ということでした。次回は、林アナウンサーです。
ともに 寺田 早輪子 2011/08/04 「暑中お見舞い申し上げます。…」先日、親しい方々へ暑中見舞いのお手紙を書きました。ふと、思いました。あの日、3月11日、まだ雪の降る頃に発生した東日本大震災から、間もなく5カ月。季節は冬、春と巡り、被災地ではもうセミの声が聞かれる季節になったのだな、と。もう、5カ月。まだ、5カ月。感じ方は様々だと思います。毎日、ニュースに触れている私にとっても、それは同じです。避難所で暮らす方の声。「もう、5カ月も経つのに、いまだ仮設住宅に入れない。」東北六魂祭が開かれた仙台市中心部の街の声。「まだ、5カ月しか経っていないのに、仙台は観光客で大変な賑わい。震災前の姿を取り戻した。」同じ宮城県でも、ここに来て「復興のスピード」に差が出てきたと、強く感じます。先日、石巻市・門脇小学校の1学期終業式を取材してきました。津波と大規模火災に見舞われた小学校です。「あの震災の直後は、こんな風に、いつもの年と同じように夏休みが取れるなんて、思っても見ませんでしたね。」先生は、児童達にこう、話しました。じっと黙って先生を見つめる児童達。無言のまま、先生の言葉に強く同調していたのだと思います。突然の大地震、大津波、火災で学び舎を奪われ、新学年への期待に胸を躍らせるはずの春休みは、「学校は再開するのか?」そんな不安な思いでいっぱいだったことでしょう。やっと迎えた新学期は、別の学校を間借りしてのスタート。別の街へ転校をせざるを得なかった児童もいました。小さな子供たちが経験するには、あまりに過酷だったこの5カ月間。どうか、この夏休みは、いつもの年と同じように楽しい思い出をたくさん作れますように…。子供たちの夏休みが笑顔であふれたものになりますように…。心から祈っています。続いては、飯田アナウンサーにバトンタッチです!
ともに 2011/08/02 アナ・ログをご覧のみなさま、お久しぶりです。原英里奈です。およそ5ヶ月ぶりのアナ・ログですが、まずはこの場を借りてご報告です。私、原英里奈は先月7月末日をもって(株)仙台放送を退社いたしました。仙台放送のアナウンサーとして走ってきた6年と4ヶ月。スポーツ、情報リポーター、報道、制作、イベントMC、ナレーション…。振り返れば本当に様々な分野を担当させていただきました。何もできない私でしたが、取材で宮城県内さまざまな所に行き、皆さんから沢山の事を学び、先輩に叱咤激励されながら、伝える喜びに目覚め…不器用でしたが真心をこめてお仕事をしてきました。楽しかったこと辛かった事…、思い出があり過ぎて何から書いて良いのか分かりません。ただ文字通り「宮城に育てられた6年4ヶ月」だったと、感謝の思いでいっぱいです。実家でぬくぬく育った私が、時に悪戦苦闘しながらもやってこられたのは、ここ宮城県、そして仙台放送だったからに違いありません。いつの頃からか帰省や出張帰りの新幹線から鉄塔を見ると「ああー仙台に帰ってきた!」と思うようになっていました。この街の都会なのにすぐ側には広瀬川や山や海がある何とも言えない住みやすさ、海の幸・山の幸、美味しいお米にお酒、豊かな自然と大好きになった温泉!そして何より、人の温かさに助けられました。本来であれば地デジ大使として7月24日の地上デジタル放送への完全移行を見届けて卒業するはずでした。しかし、3月のあの大震災。一夜で全てが変わりました。犠牲になった方々のご冥福をお祈りすると共に、今も避難所生活をされている方々、復興へ向けて闘っている方々の一助になれば…と仕事をしてきました。今後は宮城を離れ、実家のある東京でフリーランスで仕事しながら復興に向けて歩んでいる皆さんのお役に立てるよう、精進していきます。宮城はもちろん、1つの国に生きている私達ですから絶対につながっています、負けません。そして「ともに」笑顔の輪を広げていきましょう。微力ながらお役に立ちたいと思っています。本当にありがとうございました。2011年7月末日原英里奈さて続いては、期待の新人★稲垣龍太郎くんです。