東日本大震災14年 千坂 紗雪 2025/03/14 今年度、ライブニュースイットのシリーズ特集『あの日を伝える震災伝承施設』で、各地の震災伝承施設を尋ねました。この夏には、「南三陸311メモリアル」を取材し、館内のガイドの方に話を伺いました。発生当時、県外の大学生だったその方は、直接の被災はしていないものの、ボランティアとして被災地のがれき処理を行ったり、被災地のこどもたちの心のケアをしたりしてきました。そして「何か被災地のためにできることがあれば」と、3年前の開館と同時にガイドになったそうです。そのガイドの方が仰っていた言葉が印象に残っていて、それが、「震災という事実を知った上で、自分がどう思うのかを伝えるのが大事なんです」というものです。小学5年生で内陸部の大崎市で被災した私は、当時1、2ヶ月ほどで普段どおりの生活を送れるようになったため、「自分の経験をあまり話さないほうがいいのではないか」と感じることもありました。ただ、発災後に家に入れずビニールハウスで過ごしたことや、断水で風呂に入れなかったこと、家族の携帯電話の充電がなくなり連絡手段に困ってしまったことなど、どんなことを経験してどんなことで困ったのか、そして、今後起こりうる災害に向けてどのように備えているかなどを考えて伝えることで、自分のためにも誰かのためにもなるのではないかと感じました。東日本大震災発生から14年。自分なりに見聞きしたこと、経験したことを一生、言葉で伝え続け、考え続け、思い続けます。そのためにこれからも多くのみなさんの経験を伺って、東日本大震災をもっと知っていきます。写真は、先月中旬に大崎市の蕪栗沼で撮影したものです。雪の上を歩く白鳥が1羽、自然の美しさを感じられました。次回は飯田菜奈アナウンサーです。
東日本大震災14年 高橋 咲良 2025/03/13 赤や、ピンク、黄色など、あたたかな色合いの花束。(写真上段)3月11日に手向けられる、思いのつまった花束から着想を得た作品です。女川町出身の絵本作家・神田瑞季(かんだみずき)さんが描きました。神田さんは、2021年から、故郷・女川町で3月11日に合わせて作品展を開いていて、今年も、今月8日から作品展がはじまり、その模様を取材をしました。作品展の会場は、神田さんが2年前に壁画を手がけた、町内の宿泊施設。新作の「花束」をテーマにした作品のほか、これまでの作品も展示され、会場は色で溢れ、優しくあたたかな空気に包まれていました。震災発生直後に、当時高校1年生だった神田さんは、「色で町を元気にしたい」と、がれき処理場の壁に絵を描きました。あれから14年が経ち、絵本作家となった今も、「色の力で、何か少しでも、心を支えるお手伝いができたら。」と、神田さんらしい形でふるさとに心を寄せ続けています。神田さんのように、作品を通じて、震災を伝えていく人。語り部として、自身の経験を伝えていく人。震災の記憶や教訓を次の世代へ伝える方法は、様々な形があると感じますが、宮城のアナウンサーとして、私の出来ることは、1人でも多くの人の声を伝えることだと、改めて思います。続いては、千坂アナウンサーです。
東日本大震災14年 西ノ入 菜月 2025/03/12 きのうで、東日本大震災の発生から14年でした。多くの人の命日にあたる3月11日。宮城県に住む一人として鎮魂を祈り、放送人として教訓を伝え続けていく責務があると心に誓い直す日です。きのうは、石巻市の震災遺構大川小学校から、夕方の「イット!」番組内にて中継で追悼の様子などをお伝えしました。大川小では、児童と教職員、合わせて84人が津波に巻き込まれて亡くなりました。現在この場所では、地震・津波の脅威、そして子どもたちの命を守る学校防災について、遺族を中心とした語り部たちが伝え続けています。毎年3月11日に、大川小では「大川竹あかり」という追悼行事が行われています。震災発生当時在籍していた児童数と同じ”108本”の竹灯篭に明かりを灯して鎮魂を願うもので、きのうも温かく優しい光が灯されていました。竹灯篭は、上から見ると、人が両腕を伸ばして中央部分を包み込んでいるような形に配置されていました。デザインを担当した遺族の方に理由を伺うと、「亡くなった我が子をもう一度抱きしめたいという思いから、今年はこのデザインにしました。天国から見ると、その配置が良く見えると思います。」とお話ししてくださいました。お話しを伺いながら、胸が張り裂けそうな思いでいっぱいになりました。二度と同じ悲しみを繰り返してはなりません。東日本大震災を知らない世代が増え続けていく中で、若い世代はもちろん、全国の人たちに大川小の教訓を知ってもらい、防災を自分のこととして捉えてもらえるよう、私自身も放送を通して伝え続けていきます。次は高橋アナウンサーです。
東日本大震災14年 佐藤 拓雄 2025/03/11 先月、仙台駅前のイオン仙台店が閉店しました。店のこれまでを振り返るニュースの中で、14年前の震災発生直後、店に長い列ができた映像が出てきて、当時をまざまざと思いだしました。当時は、ダイエー仙台店。津波の被害がなかった地域でも、どこの店にも商品がなくなるなか、ダイエー仙台店は発生2日後の3月13日に営業を再開しました。私は当時、ずっとスタジオから震災を伝える立場だったので実際に店に行ったわけではありませんが、取材班が撮ってきた映像で行列を知り、非常に強い驚きを持って伝えた記憶が鮮明にあります。日常が一瞬でなくなる、というのは、こういう側面もある、ということを強く感じた出来事の一つです。コロナ禍もそうでしたが、平穏な日常がいかに大切でありがたく、しかし脆いものか。きょう3月11日は、そのことを改めてかみしめる日でもあると思っています。さて、仙台放送では、きょう3月11日、夕方のニュース「仙台放送LiveNewsイット!」に加えて、震災に関する特別番組を2つ放送します。午後1時50分からは、「仙台放送LiveNewsイット!特別版「あの日をつなぐ」」、午後2時50分からは、「明日への羅針盤2025~それぞれの選択~」。私は、報道部を兼務していて、いずれの番組にも、ニュース制作の立場で関わっています。「明日への羅針盤」は、番組全体をまとめる役割で制作に携わりました。被災した岩手、福島の系列局と合同制作で毎年お送りしている番組で、今年は、3県に住む人々「それぞれの選択」をテーマに、その意味を見つめる内容です。同じ震災で大きな被害を受けたとはいえ、宮城、岩手、福島では、被災状況も復興のあり方もそれぞれで違っていますが、それでも、隣の県同士、互いの「隣人」を知ることはとても大切なことで、それが復興の「羅針盤」になると信じています。それはもちろん宮城県の中でも同じこと。隣人のことを知り、思いを馳せることが、復興につながっていくと信じ、日々のニュースを含めて、震災を伝えています。番組をご覧になった方が、何か一つでも感じ取ってくだされば、と願っています。【写真】先日、窓の外を見たら、飛行機雲が3本交差していました。この時期だからか、「千の風になって」が頭の中に聴こえてきました。明日は、西ノ入アナウンサーです。
東日本大震災14年 伊藤 瞳 2025/03/10 東日本大震災14年。この14年の間には、熊本地震や能登半島地震など、全国他の県でも大きな被害をもたらした地震がありました。宮城でも、私が入社した2020年からのこの5年間の中で、ひやっとする地震が何回もありました。30年以内の南海トラフ地震の発生も示唆されている中、あの日から月日が経つにつれて、また新しい震災に近付いているということも、考えなければなりません。家族と電話をするときに、防災に関する話題を意識的に共有するようにしています。この間は、購入した防災グッズの話をしました(写真がそのグッズです)水のいらないシャンプーや歯磨きシートを常備するようにして、その買ったグッズを紹介すると、数日後に親も同じような商品を買ったという報告がきました。一方で、実家では寝ているときに地震がきたときのために、寝室にもヘルメットを置くようにしたそうです。私も取り入れました。停電したときにも明かりを灯せるように、コンサートの時にしか活用しないペンライトをオブジェのように飾っているのも、実家とお揃いです。こうして家族と会話をしたり、グッズを生活空間に置いたりすることで、自分の防災意識が「日常」になったような気がします。明日で東日本大震災14年。あの日の出来事に思いをはせる1日になると思います。ですが、未来の震災から命を守るためには、3月11日のみならず、「日常」から意識することも、改めて大切にしていきたいと思います。明日は、佐藤拓雄アナウンサーです。
東日本大震災14年 堤 勇高 2025/03/07 先日南三陸町にある「農漁家れすとらん 松野や」を取材しました。お店は今年で73歳になる松野三枝子さんが切り盛りしており、新鮮な海鮮をつかった料理やどこか懐かしさを感じる料理のほか、「デカ盛り」メニューでも人気です。例えば、写真は先日いただいた松野やのから揚げ定食です。から揚げの個数も大きさも味も大満足の一品でした!お店を営む松野さんは普段非常に明るく、パワフルで、お店に行けばこちらも元気をもらえるような雰囲気があります。しかしこれまでの人生の中では、「余命無し」とまで宣告された末期がんを克服し、東日本大震災当日は入院していた病院の屋上に避難して間一髪で津波被害を免れた経験を持ちます。「命の危機」を2度乗り越えた松野さん。そんな松野さんに取材の中で「伝えたいこと」を聞くと、ぐっと力を込めるような口調で「災害や事故にあっても、命を大切に、とにかく生きること。生きていれば夢もかなうし様々なことに出会える」と話していました。末期がんと震災を乗り越えた松野さんが言う「とにかく生きる」には本当に重みがあると思ったと同時に、「とにかく生きる」は、やはり震災の教訓の根本だと感じました。いままで取材や放送の中で、多くの方の教訓を伺ってきました。「どう逃げるか」「どう備えるか」など、それぞれの経験によって様々な教訓があると感じます。松野さんと全く同じ思いの方も、時が経つにつれ変化している方もいると思います。そのどれもが非常に貴重で、受け継がれなければなりません。その上で、ほとんどの教訓は「災害時に生きる・生き残る」ため、その前提を忘れてはいけないと思いました。災害時にどう行動するべきか、どう備えるべきか、有事平時問わずお伝えする機会も多いですが、その前提には生きる・生き残ることがある。あくまでもそこにつながるように、日々の放送からお伝えしなければいけないと再認識した取材となりました。次は伊藤アナウンサーです。
東日本大震災14年 梅島 三環子 2025/03/06 今年も3月11日が近づいてきました。今日からテーマは「東日本大震災14年」です。写真は先月撮影した、「がんばろう石巻」の看板です。この日も風が強くとても寒く感じられました。被災地に立ち、この強風と寒さを感じると、あの日被害にあった方々はどれほど寒くそして恐ろしかったことだろうと考えさせられます。復興どころか、復旧すら想像できなかった震災直後。沿岸部の光景は、今も目に焼き付いて離れません。避難所で聞いた、家族を探す声。今も忘れられません。時間の経過とともに薄れる記憶もありますが、何年経っても鮮明に覚えていることもあります。今年は3月11日を前に、石巻市門脇地区で被災し10日目に救出された当時16歳の男性を取材しました。避難しなかった後悔を胸に、彼は今もあの日の出来事を事細かに語り続けています。自戒の念を込めて語ることで、次世代に「命を守るためのバトン・知識」をつなぎたいそうです。命を守るためのバトン。何年経ったとしても、このバトンだけはつなげていかなくてはなりません。明日は、堤さんです。