東日本大震災12年 梅島 三環子 2023/03/14 東日本大震災から12年。最近、子供の時の記憶を語る若者たちが増えてきているように感じます。震災当時は、とても語れる状況ではなかった子供たちも時が経ち、大人になり、自分たちの言葉で災害について語っています。誰かに頼まれて語るのではなく、率先的に語る。その気持ちになるためには、相当の時間が必要だったのだと思います。そして、気づかされることがあります。子どもだったからこそ感じた、当時の恐怖についてです。大人だって、受け入れられないような嘘みたいな現実。見たこともない、大人たちの動揺する姿。先行きなんて何も分からない中、子供たちには不安しかなかったと思います。先日、震災当時小学生だった女性に会いました。彼女は、被災時に感じた子供の時の気持ちを忘れず、これから起こる災害時にも子供の気持ちに寄り添いたいと消防士の道を選んでいました。震災を経験した子供たちは、幼くして命の重みと儚さを嫌というほど突きつけられたと思います。語らなければいけない、伝えなければいけない。12年が経ち、彼らの思いを強く感じています。明日からはテーマが変わります。まずは、牧さんからです。
東日本大震災12年 佐藤 拓雄 2023/03/13 【写真】は今年3月11日の仙台放送前です。12年前のあの日、地震の後、大粒の雪が降り出しました。その中で、この仙台放送前の歩道を、それまで見たことがないほど多くの人が、おそらく家に向かってぞろぞろと歩いていた光景が忘れられません。それから12年が経ちました。去年も書きましたが、時間が経てば経った分、震災を経験していない世代が多くなります。私たち仙台放送でも、震災後の入社が毎年少しずつ増えて、アナウンス部では、現在12人のうち7人が震災後の入社、という構成になりました。震災後入社の世代が震災をどう伝えていくか、という課題は、同時に、震災を経験した私たちの世代が、どうやって次の世代につないでいくか、という課題でもあると思います。そういうなかで、去年、今らしいやり方で、震災を伝える取り組みを行いました。フジテレビ系列のアナウンサーの研修会で、オンラインによる被災地視察を行ったのです。私たちフジ系列では、系列内でのアナウンサーの研修が盛んで、これは私が入社するずっと前から続く、すばらしい伝統です。去年は、仙台放送が幹事社の当番でした。以前ならば、全国のアナウンサーが宮城に集まって、というところですが、コロナ禍でそれが叶わず、オンラインでも中身の濃い研修をと、知恵を絞ってメニューを考えました。アナウンスの技術的なことに関するメニューはもちろんですが、仙台放送が幹事で行うからには、震災のことは必ず入れたい。被災地の今、当事者の今を、全国の系列のアナウンサーたちに知ってもらいたい、という思いがありました。コロナ禍以降、オンラインによる被災地視察の取り組みがどんどん進化していて、語り部の方々もかなり習熟してきているので、語り部の方さえ都合がつけば、オンラインでお話を聞くことは全く難しくないことは分かっていました。そして、私たちの仕事はテレビ。映像を見て直感的に分かってもらうことを考えるのは本業です。そこで考えたのは、事前に現地の語り部を撮影して、それを見てもらいつつ、リアルタイムで語り部の話を聞くというハイブリッド方式。現地の様子は、実際に一緒に見て回っているような、バーチャル的な感覚になれるよう、撮影の仕方を工夫しました。現地部分を事前に撮影したのは、当日の天候が読めないためと、回線の不具合のリスクもあるからです。オンラインにしたことで、その時間だけ都合をつければ参加できるため、非常に多くのアナウンサーが参加でき、録画をアーカイブにすることで、その時間参加できなかった人が後から見られるようにもできました。また、たまたま当日は宮城県内が猛暑日で、現地を訪れていたら暑さはかなり厄介だったと思われ、これもオンラインの思わぬメリットでした。「ある意味、実際に訪れる以上のものがあったと思う」と言ってくれたアナウンサーもいて、大きな手応えを感じる研修となりました。もちろん、実際に現地を訪れて、その空気を肌で感じることも大切ですが、時間や物理的な距離を一気に縮めるオンラインは、震災を伝えることに、全く新たな可能性を広げたと思っています。テレビの放送を通じて震災を伝え続けていくことは、私たちの主たる手段であることに変わりありませんが、技術の進歩や社会の変化に合わせ、様々なツールを柔軟に駆使していくこと。できることはまだまだあると改めて思っています。明日は、梅島三環子アナウンサーです。
東日本大震災12年 高橋 咲良 2023/03/10 明日で、東日本大震災の発生から12年です。12年というと、今の小学生は皆んな、震災後に生まれた震災を知らない子供たちということになります。こうした子供たちなどへ、震災の記憶や教訓を語り継いでいこうと、県内には様々な伝承施設も完成しています。そのうちの1つ、去年10月にオープンした「南三陸311メモリアル」へ、オープンしてから約1か月後に訪れました。その日は平日でしたが、午前9時の開館と同時に、団体のお客さんや小さな子供を連れた家族など、多くの人が続々と訪れていました。施設へ入ってすぐの壁には「15.5m」という表示があります。これは施設の近くにある「防災対策庁舎」を襲ったとされる津波の高さを示しています。施設がある場所は10m程かさ上げされているのですが、それでも、自分の頭の遥か上に感じられて、これほど大きな津波が来たのかと実感し、恐ろしくなりました。この施設の中心となるのは、当時、南三陸町で被災した89人の方々の証言が収められた映像です。周辺が綺麗に整備されて、当時の被害を感じられるものが少ない分、沢山の生の声を集めることで、当時を想像できるようにしたのだと、案内して下さった施設の方が仰っていました。たしかに、津波によって壊された建物を見ることで、その威力の凄まじさなど学ぶことも多くありますが、あの時どんな状況だったのか、どんな行動が生死をわけたのか、震災を経験した方々の証言にも、何にも代えがたい力があると感じます。消防署の署員や小学校の校長先生など、色々な立場や年齢の方々の証言が集まっているので、例えば、自分に境遇が近い人の体験談を聞くことで、震災を自分事として考えるきっかけになるのかもしれません。こうした施設も、そこに訪れる人がいてはじめて、震災伝承という役割を果たせます。これからも被災地に足を運び、当時の話や今の思いなど被災した方々の生の声を聞き続けることが大切であると感じます。続いては、佐藤アナウンサーです。
東日本大震災12年 堤 勇高 2023/03/09 東日本大震災の発生から間もなく12年。今も復興は進んでいます。先日、震災前の街の様子を集めた写真展を取材しました。その中で、写真展を見に来ていた、震災前からその地域に住んでいたという方に話を聞く機会がありました。その方は昔の街の姿を懐かしみながら「この姿の街はもう戻ってこないからなあ」とポツリ。復興が進む中ではありますが、決して取り戻すことができないものも数多くあると、改めて思い知った瞬間でした。一方で、震災に関する話題に触れる機会は、良い話題も悪い話題も、減っていると感じます。宮城に来て5年の私がそう感じるとなると、震災直後から宮城で生活している方はなおさらそう感じるのではないかと思います。そこで私が思うのは、3月11日という日の重要性です。日々の生活の中で、震災に関する話題に触れる頻度が減るほど、全員があの東日本大震災に思いを向ける3月11日という日の役割が大きくなるのではないかと思います。懸念されている風化も、毎年3月11日にあの日の教訓や後世に語り継ぐべきことをしっかりと確認することが、これまで以上に大切になってくるのではないかと思います。もちろんこれは、今も続く日々の復興をないがしろにしてもよいということではありません。報道に携わる者として、日々の動きにもしっかりとアンテナを張る。そして3月11日については年を追うごとに、よりしっかりとお伝えできるように、私自身の力もつけていきたいと思いつつ、今年の3月11日を迎えます。写真は以前も少し載せましたが、南三陸で取材した「化石発掘体験」の際の写真です。表面的には「人気アクティビティ」と言えるこの発掘体験も、その奥には「被災地南三陸の新たな観光資源となり、復興へ」という思いがあります。次は高橋アナウンサーです。
東日本大震災12年 金澤 聡 2023/03/08 あの震災発生から5か月後の2011年8月1日。青森県を会場に行われた北東北インターハイ、バレーボール女子決勝。古川学園の山田キャプテン(当時)は、被災地に勇気と希望を届けたいと誓ってインターハイの決勝の舞台に立っていました。相手は宿敵、バレー強豪校の大分・東九州龍谷。この年の震災発生前の1月に行われた春高バレー全国大会決勝で逆転負けを喫し、古川学園はインターハイ、国体、春高の高校主要大会3冠達成を最後の最後で逃しました。立ちはだかったのは、その東九州龍谷でした。この年の3月以降、学校の体育館が地震の被害で使用できず、寮生活だった選手たちは一時自宅へ避難。全員揃って練習を始められたのが5月。被災地が困難な状況下の中でバレーができることに感謝しながら練習を再開。インターハイは十分な練習ができないまま臨んだ大会でしたが、自分たちが勝利することで少しでも宮城が勇気づけられて元気になってくれればと恩返しの思いを胸に、気迫の勝利を重ね決勝まで勝ち進みました。しかし、決勝ではチーム力が完成していない状況で勝てる相手ではありませんでした。東九州龍谷にセットカウント1-3で敗戦。準優勝。選手たちは優勝できずに申し訳なかったと詫びながら大粒の涙を流していました。ただ、決して謝るような試合ではありませんでした。諦めずにボールに喰らいつく姿勢は間違いなく勇気を与えてくれていました。あれから12年。後輩たちはその意志を受け継ぐかのように、今年1月の春高バレー全国大会ではどんなに苦しい状況でも諦めずにチームは一枚岩となって戦いました。準々決勝では、宿敵・東九州龍谷をフルセットで下し、決勝でも先に王手をかけられましたが、フルセットまで持ち込み、持ち前の粘り強さで逆転優勝!宮城に勇気を届けてくれました。優勝後、古川学園の岡崎監督は、「正しい努力をすれば、必ず結果はついてくる。それを証明できた。宮城のためにこれからも頑張りたい」と目を細めていました。次は堤アナウンサーです。
東日本大震災12年 寺田 早輪子 2023/03/07 震災の1年後の3月に生まれた息子は、今年11歳になります。いわゆる「震災を知らない世代」です。先日、息子と一緒に石巻市震災遺構・大川小学校を訪問。私がこれまで取材でお世話になった方々と、息子が直接お話させていただく機会がありました。普段はペラペラとおしゃべりな息子ですが、この日は静かに大川小の校舎やまわりの景色をじっと見つめる様子が印象的でした。特にじっくりと見つめていたのが1階の「アッセンブリホール(多目的室ホール)」の壁。津波やがれきで多くの壁や床が破壊された校舎の中で、アッセンブリホールの空色の壁紙の一部は鮮明に残っています。綺麗な空色と雲を描いた白の模様に、その空間で自分と同じくらいの子供たちが生き生きと笑いあう様子が浮かんだのかもしれません。息子は自らぐんぐん歩みを進め、「ここは何の教室だったの?」「どこに体育館があったの?」「この広場では何をして遊んでいたの?」と矢継ぎ早に質問してきました。ここには確かに自分が通う小学校と同じ、子供たちの日常があったことを確認しようとしている…、そう感じました。今は震災遺構と呼ばれているけれども、友達と勉強し、笑いあい、遊び、元気に走り回る「命」がここに確かにあったということを。命の重みを知ることは防災の第一歩です。「震災を知らない世代にどう震災の教訓を伝えていくか?」、報道機関に身を置く一人として日々、頭を悩ませていますが、とにかく「伝え続ける」ことが大事で、「東日本大震災という甚大な災害から、子供は自ら学びとる力がある」と実感した一日となりました。震災発生から12年。「風化」という言葉が聞かれるようになって久しいですが、伝えるべきことはまだまだたくさんあると確信しています。アナ・ログ。続いては、金澤聡アナウンサーです。
東日本大震災12年 下山 由城 2023/03/06 東日本大震災の発生からまもなく12年。そんななかで先月、トルコ・シリア大地震が発生しました。被害の映像は改めて地震の恐ろしさを痛感させられます。先月26日の時点で、各国のトルコ大使館などの銀行口座に寄せられた大地震支援の募金が総額4000万ドル(約54億円)に達したそうです。最も多いのは「日本」からとのこと。素晴らしいことだと思います。トルコは伝統的な親日国です。外務省のホームページに載っていますが、1999年のトルコ北西部地震で最も迅速的かつ包括的に支援を行った国の1つが日本。一方で、2011年の東日本大震災の時には、トルコ政府が32人の救助隊を送り、各国の救助隊では最長とされる3週間の活動(宮城では石巻市、多賀城市、七ヶ浜町など)を行ってくれました。トルコは恩返しという気持ちで活動してくれたそうです。未曽有の大災害のときには、このような他国の援助というのも不可欠なのだなと実感します。少し話は変わりますが、第5回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が明後日(8日)に開幕します。これまで2006年、2009年、2013年、2017年と開催されてきたどの大会にも、生涯語り継がれるほどの名場面が思い浮かびますが、個人的に最も印象に残っているのは第3回大会の第2ラウンド日本vs台湾のエピソードです。東日本大震災から約2年が経過した2013年に開催されました。震災のとき、世界で1番多くの義援金など、いち早く支援に向けて動いてくれたのが台湾だったそうです。そんな台湾に感謝の思いを伝えようと日本の一部のファンがSNSで「会場でお礼のプラカードや横断幕を掲げよう」と呼びかけ、実際に観客席では多くのプラカードが掲げられました。台湾チームはそのことに気付いたようで、試合終了後には全員がマウンドを囲むように円陣を組み、観客席に向かって脱帽して深々と一礼しました(詳しくは様々な報道がされているのでぜひ調べてみてください)。国際試合の真剣勝負のなかで、勝ち負けに関係なく相手を尊重するという素晴らしい出来事だったと思います。国と国のつながりを知ることで、前進することもあるかもしれません。そんなことも考えながら…WBCは2009年(もう14年前ですか…!)以来の世界一を期待して応援します!お次は寺田アナウンサーです!
東日本大震災12年 伊藤 瞳 2023/03/03 時間は刻一刻と過ぎ、東日本大震災発生から時間が遠ざかっていくのを毎年のように感じます。それと同時に新たな地震が近づいているのかもしれないそんな胸のざわめきもあります。先日、これまで行ったことのなかった海沿いの建物に行きました。一緒にいたメンバーでこんな話になりました。「もし、今、地震が来たら、どこに逃げたら良いのか」その日は、北海道で大きな地震があった翌日でそんな話になりました。幸い、メンバーの何人かが土地勘があり、避難タワーの場所などを分かっていたため事前の想定は出来ましたが、もし、自分一人だったら。もし、誰も分かってない状態だったら。それを考えると恐怖でしかありませんでした。東日本大震災発生以降、「自分が住みなれた場所で地震が起きたら」の想定は多くの人が出来ている状態になったのではないでしょうか。ただ、住みなれていない場所に行ったときの避難まで想定できているかというとそうではないかもしれません。南海トラフ地震や首都直下型地震など近い将来起こる可能性を示唆されている地震もあります。あらゆる場面まで行き届いた想定を常に当たり前にできることが、命を守ることにつながると思います。東日本大震災12年の中で得た教訓と共に、改めて、大切にしていきたいです。写真は、3月1日おとといのよく晴れた空です。次は、下山アナウンサーです。
東日本大震災12年 飯田 菜奈 2023/03/02 3月に入りました。まもなく、東日本大震災の発生から12年です。どんなに月日が経っても、あの大きな揺れ、混乱、当時目にしたもの、感じたことは忘れることはありません。地震が起こるたびに当時の恐怖が蘇ります。トルコ南部で起きた地震のニュースを見ていても、胸が苦しくなり、とても他人事とは思えません。ただ、地球上に生きている以上、いつどこで地震が起こるかわかりません。そのためにできることは?このタイミングで改めて、自宅の非常食や防災グッズの確認をしたいと思います。非常食は賞味期限が長めなので、一度買うと安心してしまって、いつのまにか期限が切れていたということがありますからね。さっそく見てみたら、2リットルペットボトルの水の期限が今月まででした。買い足さないと…。そして、今日できることは今日のうちに。明日やろう!と思って先延ばしにはせず、ちょっと疲れていても、ちょっ面倒くさいという気持ちが芽生えてしまっても、怠けずに、今日のうちに。洗濯や、食器洗いなどの家事をするとき、自分に言い聞かせています(笑)今年の3月11日は土曜日なので「あらあらかしこ」の生放送があります。いつも通り、明るく楽しい番組をお届けしたい…と思っています。”いつも通り”放送ができることに感謝しながら。”いつも通り”土曜日の午前を、あらかしを見ながらゆっくり過ごしてもらえたら…。その”いつも通り”が当たり前だと思わず、大切にしていきたいと思います。続いては伊藤アナです。
東日本大震災12年 牧 広大 2023/03/01 12年というと、干支が一周したことに。年月が経つと、いろいろなものが変わっていきますが、沿岸部の景色もその一つです。先日、ニュースの中で「あの頃に会いに行く 南三陸の暮らし展」というイベントを紹介しました。震災前の街並みや行事でにぎわう様子の写真が飾られています。当時の様子を思い出せる、地元の方たちにとっては貴重な機会と感じますし、当時を知らない人たちにとっても、この場所がこんな感じだったのかと、震災がもたらした影響の大きさを知る、きっかけの一つになると感じました。写真は私の故郷の街の様子を川の対岸から。小学校高学年ごろ、再開発がすすめられ、子供のころと比べると、だいぶ景色が変わりました。たまに実家に帰るとき街中を散策しますが、昔よく行ったお店がなくなっていたり、新たにおしゃれなお店ができていたり、帰るたびに楽しさ半面寂しさも…。昔の街並みの写真を見て、懐かしむ時間が欲しくなります。続いては飯田アナです。
東日本大震災12年 西ノ入 菜月 2023/02/28 12年前、宮城県石巻市の北上川川沿いに位置する大川小学校では、児童と教職員合わせて84人が津波の犠牲となりました。学校防災が大きく見直されるきっかけとなり、遺族の皆さんなどが、全国の学校関係者などに「命を守る学校防災の在り方」について伝える活動を行っていらっしゃいます。その大川小学校では、去年から、命を守るための教訓を未来に繋ぐことなどを目的に企画された追悼行事を3月11日に行っています。「大川竹あかり」という行事で、竹に穴をあけて中から明かりを灯すものです。この行事のボランティアを募集していることを知り、先日休みを利用して、その竹に穴を開ける作業に参加して参りました。冷たく強い雨が降る中にも関わらず、午前の部には、写真のようにたくさんのボランティアの方が集まりました。直径10センチほど、様々な長さの竹に、穴あけ目安となる丸が書かれた紙が貼られてあり、穴の大きさに適したドリルを付け替えながら開けていきます。一つの竹に開ける穴の数は、大小合わせて大体100個ほど。参加された皆さんとともに、一生懸命、助け合いながら穴を開けていきました。私が慣れない手つきでドリルを動かしていると、「こうやって力を入れると穴を開けやすいですよ」と、教えてくださった方がいました。お話を伺うと、現在埼玉県で学校の教師をされている方で、以前、修学旅行で宮城県に来た際、震災学習で大川小学校の語り部をされている方にお話しをお願いしたのだそうです。「今日はその時の御礼がしたくて、埼玉県からやってきたんです」とおっしゃっていました。その方に様々なお話を伺って、語り部をされている方の思いは東北以外の教職員の方にもしっかり伝わっていることを感じたほか、その「バトン」を受け取った方がこうして再びこの場所に来て、ともに作業をなさっていることにとても胸が熱くなりました。震災発生から12年が経とうとしている今、問題なのは「当時の思い・記憶が風化してしまうこと」だと思います。同じ悲しみを繰り返さないためにも、こうして全国の方に教訓を継承していくこと、そして、全国で次の災害に生かしてもらうことが本当に大切なことだと感じました。明日は牧アナウンサーです。
東日本大震災12年 千坂 紗雪 2023/02/27 きょうからのテーマは「東日本大震災12年」です。今年の3月11日で東日本大震災は12年となります。あらためて、あの日に思いを馳せて、気持ちをつづっていきます。12年前、私は宮城県大崎市で被災しました。震度6強を観測した大崎市ですが、内陸部なので直接的な被害は免れました。ただ、被災後、衛生面でとても苦労した記憶があります。私の住んでいた地域はライフライン、特に水道が復旧するまでに時間がかかりました。復旧するまで給水車が来ていましたが、もらえるのは飲み水として使う分のみ。風呂にはずっと入れずで、だんだんと気分が沈んでいきました。そのような中、母が大量の水を復旧していた親戚のところからもらってきてくれました。ゴミ袋いっぱいに何袋分ももらってきた水を、少しずつキッチンで沸かしてお風呂場へ。これを何十回も繰り返して、ようやく、久しぶりにお風呂にありつけました。お風呂でゆっくりとはいかず、結局ささっと体を洗うだけでしたが、とても気持ちよかったことを覚えています。この経験も含め、当時を振り返るたび普段の生活のありがたさに気づくことができます。今回載せたのは、被災した直後に使っていたノートの写真です。避難行動や日記などが書き留められてあり、このノートを見て当時を思い返すこともあります。これからもずっと、あの日を忘れず、一日一日を大切に過ごしていきたいです。そして最後になりますが、災害などで日常を失ってしまった方々の一日でも早い復興を心から祈っています。明日は西ノ入さんです。