東日本大震災13年 伊藤 瞳 2024/03/26 13年前東日本大震災が発生したときは、私は中学一年生13歳。中高一貫の東京の中学校に通っていて、春休みに入り、部活動をしている最中でした。震度5弱の揺れの中、恐怖を感じた一方で、すぐさま、当時高校2年生の部長がものすごい表情で「校庭に逃げて」と誘導してくれた姿が鮮明です。その後教室のテレビで見る宮城の光景は信じられないものでした。見たこともない巨大な津波が町に押し寄せている。祖父母がいる宮城は、夏休みになると必ず訪れて目にしていて、海がきれいな場所。その宮城に何が起きているのか、映画を見ているような、半信半疑な自分がいました。東京では、「帰宅困難」事案が発生し、実家が埼玉だった私も影響を受け、学校に宿泊。乾パンを食べて夜をしのぎ、翌朝、復旧した電車で満員の人の中でなんとか隙間を見つけて、家路につきました。私の中に刻まれた東日本大震災は、こうして東京で目の当たりにしたものでした。ですが、御縁あって仙台放送に入社してから、色々な方から宮城でのお話を伺いました。テレビで見ていたあの光景が、お話を通して、すぐ近くにある出来事に感じるようになりました。教えていただくことで、「あの日の宮城」を自分の中に積み重ねることができています。震災13年とは、当時生まれた子が13歳になり、小学校を卒業するということ。制服を着て部活動をしていた私が今、社会人として働いているということ。「時の重み」を感じながらも、これからも「あの日の宮城を見つめること」を積み重ねていきます。写真は、今月11日名取市閖上の空です。雲一つない青空が広がっていました。明日からは新しいテーマです。堤勇高アナウンサーからスタートです。
東日本大震災13年 高橋 咲良 2024/03/25 東日本大震災の発生から13年となりました。震災により亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。今年は能登半島地震が発生し、変わり果てた能登の様子や、心の痛むニュースが連日報じられ、もしかしたら、いつもよりも鮮明に、あの日を思い出されたかもしれません。そうした中で、東日本大震災の教訓が生かされたという話を、ニュースなどで見聞きすると、伝え続ける大切さ、学び続ける大切さを改めて感じます。今月9日、女川町出身の絵本作家・神田瑞季さんの作品展が、ふるさと女川町で始まり、その取材に伺いました。神田さんは、2021年から3月11日に合わせて女川町で作品展を開いていて、今年で4回目を迎えました。今回のテーマは「桜」(写真がその作品です。)桜と言うと、ワクワクするようなイメージが私はあるのですが、この作品は「切なさと希望が併存する作品」と神田さんは仰っていました。たしかに、桜の上に広がる空は灰色に曇っていますし、どこか落ち着きのある作品です。この作品の製作途中に、能登半島地震が発生したことなどから、明るいだけではない、影の部分も表現したそうです。神田さんの作品は多彩な色使いが1つ特徴だと思いますが、今回は使う色も絞りました。「その方が1人1人に寄り添える気がする」そこには、神田さんの意図がありました。神田さんはこれからも、3月11日に花を供えるように色を添えていきたいと話されていて、自分らしい方法で故郷に寄り添い、震災について考え続ける神田さんを見て、私自身が出来ることを改めて考える取材でもありました。「テレビを通して、より多くの方々に伝えること」これが私が出来ること、そして使命だと思います。続いては、伊藤アナです!
東日本大震災13年 千坂 紗雪 2024/03/22 先日の休みに防災バッグを用意しました。きっかけは先月、「災害時における女性の生理」について取材をし、取材先の方の防災バッグを見せていただいたことでした。その方は全国各地で防災についての活動をされている方で「自分だけの防災バッグをつくろう!」というワークショップを開いたときには、「防災バッグには自分の好きなものを入れていいんだよ」と伝えているそうです。その言葉に感化され、私も用意することにしました。写真はその防災バッグです。大きめのビニールバッグに、懐中電灯、ドリンクボトル、アルミシート、割りばし、紙コップ、水、食料、お菓子、衛生用品などを入れ込みました。普段から衛生用品や水など無くなったら補充するローリングストックを行っていたので、保管分をバッグに詰め込むだけでしたが、「一カ所にまとめて置いておく」これだけで安心感が各段に上がりました。また、「13年前、何に苦労したか?」を考えて詰め込むことは、一人一人ができる「災害を風化させない取り組み」に繋がるのかなとも感じました。取材先の方が仰っていた言葉で心に残っている言葉があります。「まずは自助、自分のものは自分で備える、自分が備えていれば他の人にも配ることができる。自助から共助に」です。いつ起こるか分からない大災害に備えて、まずは自分から、防災の輪を広げていければと思いました。最後になりますが、13年前に被災されたみなさまのこころの傷が少しでもやすらぐことを願い続けております。次は高橋咲良アナウンサーです。
東日本大震災13年 堤 勇高 2024/03/21 東日本大震災の発生から13年。復興の中で、津波の被害を受けた沿岸部を中心に、今でも景色はめまぐるしく変わっていると感じます。たった5年前に宮城に住み始めた私ですら「この前来た時とかなり景色が変わったな」と驚くことが少なくありません。先日目にしたニュースにこんなものがありました。「今の小学6年生の6人に1人が東日本大震災の起きた年月日を正確に書けない」。時間の経過を強烈に感じたニュースでした。マスコミで働く身としては、あの日の出来事について、小さな子供にまで届けられていないことを反省しなければいけないと感じます。今年1月1日には能登半島地震が発生しました。多くの方が亡くなり、多くの方が生活に不便を強いられています。連日のニュースの中では東日本大震災で得られた教訓が活かされた面と活かされなかった面が数多く報じられました。避難の仕方、避難所の環境、現地の医療体制、復興に向けての動きなどなど……。地震を「起きないようにする」ことは現状不可能です。いつかまた大きな地震が発生した際「東日本大震災やその後の地震で得られた教訓がすべて活かされ、守れるはずの命がすべて守られた」という未来。これが私たちの目指すべき未来であり、発生から時間がたったとしても、ニュースで東日本大震災について伝える意義ではないかと感じます。写真は今年の3月11日当日の気仙沼です。風はあったものの良く晴れていて、午後2時46分には多くの方が黙とうを捧げていました。次は千坂アナウンサーです。
東日本大震災13年 金澤 聡 2024/03/19 私には息子が二人います。次男は東日本大震災が発生した2011年に生まれました。小学校を卒業し、この春から中学生になります。この年の宮城県内の出生数は18,062人です。2011年に生まれた子供たちに震災の認知度調査を行った結果、東日本大震災発生年月日を正確に回答できなかった児童が2割弱もいたという新聞記事を読みました。驚いたのと同時に改めて震災を伝える重要性と責任を感じました。宮城に存在するプロスポーツチームは、震災発生直後から支援物資の運搬や炊き出しなどの復興支援に携わり、いまでも被災地訪問などの社会活動を通じて震災復興を続けています。実際には震災を経験していない選手が増えていく中で、被災地チームの存在意義をチーム全体で共有し継承しています。毎年3月11日午後2時46分に震災で犠牲になられた方へ哀悼の意を表し黙祷を捧げています。「2011年3月11日」発生年月日とともに震災の教訓や命の尊さを伝えていきたいと思います。※写真は、今年の荒浜の海岸です次は堤アナウンサーです。
東日本大震災13年 寺田 早輪子 2024/03/18 私が長くお話をうかがい続けてきた方々の願いが、東日本大震災発生から13年を前に、ようやく形になりました。七北田川の河口付近にあった蒲生・中野地区。その歴史や自然、震災前の街の様子、そして、地区の中心にあった仙台市立中野小学校の記憶を展示・紹介する『蒲生なかの郷愁館(がもう・なかの・きょうしゅうかん)』が今年3月3日にオープンしました。震災発生後の取材をきっかけに10年以上、お話をうかがっているのは、津波で被災し、閉校した中野小学校の学区に代々、暮らしてきた住民の皆さんです。高齢のご夫婦やそのお子さんたち、お孫さんたち、そして地区の中心にあった中野小学校に勤めていた先生ともつながり続けています。明治時代の開校から143年の歴史があった中野小。「うちは四代続けて、家族みんな中野小の卒業生だ!」と誇らしく話す住民も多く、地域の思い出がいっぱい詰まった場所でした。七北田川の河口付近にあった集落は津波で流され、家並みの続いていた震災前の景色は、今はもうありません。中野小も津波で被災し、校舎は解体され、震災から5年後、閉校したのです。故郷を根こそぎ失われた住民の皆さん。お会いするたびに話していたのは「心の中に生き続ける故郷の様子を後世に残したい」という思いでした。住民の皆さんが中心となり、様々な協力を得て準備してきた「思い出を展示する場所」。『蒲生なかの郷愁館』は、震災後、地区に新たに建設されたバイオマス発電所内にオープンしました。展示室には、日本一低い山として知られる「日和山」やコアジサシの声が響く「蒲生干潟」などの、地区の震災前の様子を再現した模型や、中野小の体育館に掲げられていた校歌のレリーフなどが並んでいます。オープン初日に訪れた元の住民の皆さんは、それらを懐かしそうに眺めながら、思い出話が止まらない様子でした。それを見て、私もまるで故郷に帰ってきたような気持ちになりました。取材中、住民の方々に何度か聞かれたことがあります。「寺田さんって蒲生の出身なの?」「中野小の卒業生なの?」と。「違います、福島出身です」と微笑みながら伝えると、こうした言葉が返ってきました。「こんなに一生懸命に蒲生や中野小学校を取材して伝えてくれているから、てっきり、ここの出身なのかと思ったよ!」とても嬉しい言葉でした。お話を聞きながら、かつての蒲生・中野地区を想像し続けるうち、私にとっても故郷になっていたのかもしれません。この「想像する」ことが、震災を伝える上で一番大事なことだと感じます。もし、自分の故郷が、根こそぎ無くなってしまったら…思い出の詰まった帰るべき家が土台ごと流されてしまったら…大切な家族と、ある日突然、会えなくなってしまったら…そんな現実を多くの人にもたらしたのが東日本大震災でした。二度と、災害で同じような思いをする人が出ないように…今すぐに出来る防災対策は、「想像する」ことです。『蒲生なかの郷愁館』を訪れ、あなたも「想像」してみてください。☆写真は…、『蒲生なかの郷愁館』にて。中野小学校校歌のレリーフです。アナ・ログ、続いては金澤アナウンサーです。
東日本大震災13年 下山 由城 2024/03/15 3月10日にJ2第3節・ベガルタ仙台vs水戸ホーリーホックの試合が行われ、実況を担当しました。被災地のチームであるベガルタ仙台は、東日本大震災当日の3月11日か、その前後のリーグ戦がホームに設定されていて「復興応援試合」と銘打たれて行われます。試合前には犠牲者への黙とうがささげられました。特別な演出はそれ以外にはありませんでしたが、改めて思い返すきっかけとして、このホームゲームには意味があるように感じます。ごく普通に試合が行われることが、どれだけありがたいことか。1月にも同じことを思いました。1日に発生した能登半島地震。あのとき私は「春の高校バレー全国大会」に向けた取材で都内にいました。取材終わりに電車に乗ろうと駅にいたとき、速報ニュースの通知で地震を知りました。重大な事態ということを理解するまでに時間はかかりませんでした。そのときは「春高バレーの開催は大丈夫なのだろうか?」と正直不安にもなりました。実況を担当した学校の1つである富山県・高岡第一高校バレーボール部の皆さんは、地震の前に東京入りしていたことで移動においての影響は幸いありませんでした。監督や選手にお話を聞いても、身の回りで大きな被害はなかったとのことですが、「両親が応援に来られるかがわからない」と心配そうに話していたのも印象的です。結果として試合当日までには新幹線も復旧したことで、応援席にも多くの皆さんがかけつけられていたのは本当に良かったと思います。東日本大震災から13年となり、街の景色からは震災の傷跡はほとんどなくなっています。もちろん影響はそれぞれ異なります。目に見えない部分もあります。そして年明け早々の能登半島地震は、いつ大きな地震に直面してもおかしくないという現実を我々に突き付けられました。3月11日はいろんなことを改めて思い返す大切な1日として、これからも歩んでいければと思います。次は寺田アナウンサーです。
東日本大震災13年 梅島 三環子 2024/03/14 東日本大震災の発生から13年が経ちました。13年前、私が初めて入った沿岸部は名取市閖上でした。震災の直前、ホワイトデー用の商品を作っていた蒲鉾屋さんの取材で行ったばかりの閖上地区。その姿は、一日にして一変していました。あの日、目にした光景は今も鮮明に覚えています。復興どころか復旧すら想像できない町の姿でした。あの日から、様々な場所を取材してきました。いろいろな声を伺ってきました。その中、ここ数年聞かれるのが大変な被害を受けた方でも震災の記憶が薄れてきているという話です。経験している人でも、というのは正直驚く部分もありましたがそれが13年なのかなとも感じています。考えたくもありませんが、災害は繰り返し起こります。記憶は薄れていきますが、あの日私たちが学んだ教訓は忘れてはいけません。私も自分なりにあの日の出来事と向き合い、備えにつなげていきたいと思います。写真は、先日取材に行った石巻市の牡鹿半島。初めて行った寄磯浜はとても素敵な場所でした。明日は、下山さんです。
東日本大震災13年 飯田 菜奈 2024/03/13 先日、かわまちテラス閖上に行ってきました。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた名取市閖上地区に、ランドマークとなるような、たくさんの人が集まる場所を作ろうと、2019年にオープンした商業施設です。ニュースや「あらあらかしこ」など、VTRでは何度も見ていましたが、訪れるのは初めて。家族づれでとても賑わっていました!飲食店や、海産物、パン、お野菜、食べ歩きにもぴったりなスイーツなどを販売する25店舗が軒を連ね、あれこれ見ながら散策しているだけで楽しかったです。この日はお昼過ぎに訪れたため、みたらし焼き団子、食べられるお皿(えびせん)付きを食べ、しらす・ちりめんの老舗でお土産を買って帰ってきました。次回、ランチをここで食べよう!と目星をつけてきたので、また近いうちに絶対訪れたいと思います!東日本大震災から13年。震災を知らない世代の子どもたちにとっても、震災を経験している人にとっても、楽しい場所、美味しいものがいっぱいの場所、きらめく名取川を眺められる場所としての思い出が、どんどん増えていくと良いなと感じました。お次は梅島アナウンサーです。
東日本大震災13年 西ノ入 菜月 2024/03/12 きのうで、東日本大震災の発生から13年が経ちました。亡くなられた方々へ心よりご冥福を申し上げます。きのうは、写真の南三陸町の防災対策庁舎、そして、石巻市の震災遺構 大川小学校から中継でお伝えしました。13年前のあの日の沿岸の地域は、雪が降る本当に寒い日だったと聞きます。しかし、きのうは穏やかな天気で、朝から澄み渡るような空でした。時の流れによって、被害を受けた沿岸部には新たな施設が出来たり、かさ上げ道路が完成するなど、ハード面の復興が進んでいます。一方で、震災当時の教訓を伝える場所が少なくなってきていることも事実です。南三陸町の防災対策庁舎、石巻市の大川小学校は、津波の被害の痕跡が13年前の姿のまま残されています。どちらも、頑丈な建物が破壊され、一部が激しく折れ曲がった状態で、静かに私たちに訴えかけてきます。あの日、いかに津波の威力が凄まじいものだったのか。今を生きる私たちが、災害から命を守るためにはどんな備えが必要なのか。もう二度と同じ悲しみを繰り返さないためにできることは。この3月11日という日が来るたびに、残された「当時の教訓」から、災害・防災・命について考え、学び続けていくことが大切なのだということを感じます。あすは飯田アナウンサーです。
東日本大震災13年 佐藤 拓雄 2024/03/11 きょうで、東日本大震災の発生から13年となりました。多くの方の命日にあたります。心からご冥福をお祈りします。13年経ったということは、今の小学生以下は、全員が震災後の生まれということになります。先日、地元新聞に、独自の調査結果が掲載されました。宮城県内の小学6年生(つまり震災後生まれ)の17.7%(6人に1人)が、東日本大震災の発生年月日を正確に回答できなかったといいます。震災伝承の課題と現状を表す結果に、驚かされました。分かっていることとは言え、震災を文字通り「知らない」世代がここまで増えていることに、13年という時間を感じさせられます。一方で、そのことだけで評価できるものでもないのもまた事実。これからますます増えていく震災を知らない世代に、何を、どう、伝えていくのか、震災を経験した一人として、伝えることの模索を続けていかなければと改めて思います。去年の秋、愛知県の大学生たちに、震災のことを話す機会がありました。ゼミの研究の一環で、被災地や被災地のメディアを取材しているとのことで、震災を伝える一人としての私自身の体験や感じていることが話の中心です。実はご縁があり、この大学の学生たちに話をするのは初めてではないのですが、毎回とても熱心で感心しています。今回の学生たちは、大学2年生で、2011年は小学校低学年、しかも皆、震災の被災地出身ではありませんので、ほとんど記憶はないということでしたが、発生当時の状況や葛藤から現在に至るまで、多岐に渡って、熱心に質問し、話を聞いてくれました。十数年が経った今、他の地域に、強い関心を持っている若い人たちがいるのが、大変頼もしく、私の話もついつい長くなってしまいました。自分たち以外の人々を取材してテレビで伝えていくだけでなく、私たち自身の経験を、様々な形で伝えていくことも、私たちにできること・すべきことであり、震災伝承の一つだという思いを、年を重ねるごとに強くしています。【写真】震災伝承施設の一つ、旧気仙沼向洋高校の伝承館です。震災遺構や震災を伝える施設の存在も、今後さらに重要になっていくと思います。明日は、西ノ入菜月アナウンサーです。