東日本大震災8年 寺田 早輪子 2019/03/11 「8年が経つ今だからこそ、伝えられる。伝えたい。」この言葉は、気仙沼市波路上地区の震災遺構・気仙沼向洋高校の旧校舎を取材した時に、語り部の方がお話された言葉です。3月10日に一般公開が始まったばかりの気仙沼向洋高校・旧校舎には、津波で流されてきた車や冷凍倉庫の一部、泥がついたままの教科書などが、かつて教室だったところに残されたままとなっています。そこに入ると、「8年」という月日が経ったことがうそのように、つい昨日のことのように「あの日」がよみがえります。旧校舎の周りはまだ更地も多く、がれきがなくなった一帯では、「ここが津波が襲った土地だ」という事実に驚かれる来訪者もいるそうです。津波の痕跡が消えゆく土地にたたずむ旧校舎は、静かに、津波の恐ろしさを物語ります。遺構を見学する際に、言葉を添えてくれる語り部のみなさん。直後は恐怖がまさって語り伝えることはとてもできなかったといいます。今だからこそ「伝えたい」思いが、あふれています。歴史ある波路上地区に、恐ろしい津波が襲ってきたこと。あの日、学校で何が起き、どのようにして津波から逃れたのか。どんな言葉を交わし、夜を明かしたのか。そして、あの日から今まで、人々はどう歩いてきたのか。忘れてほしくないあの日のこと。あの日からのこと。語り部の皆さんのそうした思いを聞き、あの日の気仙沼を想像し、それを、次に災害が襲ってきた時の行動にいかすこと。今、何を備えるべきか、考えること。みんなで一緒に考えましょうと、呼びかけ続けること。震災から8年。それが、今を生きる私ができることかもしれません。写真は、気仙沼の海です。アナ・ログ。続いてのお題は「好きな音楽」。下山アナウンサーからです。
東日本大震災8年 西ノ入 菜月 2019/03/08 今月の11日で、東日本大震災発生から8年が経ちます。当時私は中学3年生で、卒業式を控えていました。式準備などのために早めに学校から帰り、兄と二人で家でテレビを見ていたところ、突然の激しい揺れが。私の実家は埼玉県なのですが、埼玉でももう立っていられないほどの恐ろしい揺れで、地震がこれほどの恐怖を感じるものなのかということを初めて知りました。しかし、テレビを点けて宮城や岩手、そして福島が大変な状態になっていることを知り、何もできずにただテレビの前で立ちすくむことしか出来ない自分に悔しさを感じました。あの恐怖、そして悔しさは今でも忘れられませんし、宮城県のアナウンサーになった今、災害などの有事の際には、テレビを通じて宮城に住む皆さんの命を救うために、日々勉強し、訓練をしています。しかし、自分の呼びかけで「命を救う」のは、簡単なことではありません。本当に救うためには、知識はもちろん、技術、そして宮城に住む皆さんの8年前の記憶を胸に刻み、活かしていくために精一杯の努力をしていくことが必要だと思っています。アナウンサー歴が短いということを言い訳にせず、いざという時に情報をお届けできるように、信頼して聞いていただけるように、日々精進します。写真は、仙台放送アナウンサー最終試験の前日に行った石巻市前谷地で撮った夕日の写真です。乗っていたバスから撮影したのですが、視界すべてが鮮やかなオレンジ色に染まるほどの強い光で、本当に壮大で胸にグッときました。今までこんなに美しい夕日を見たことがありません。沢山のパワーをくれたこの石巻の夕日を一生忘れません。明日は寺田アナです。
東日本大震災8年 牧 広大 2019/03/07 先日、ヘリコプターで上空から沿岸の被災地を取材で見ました。復興道路と位置付けられている三陸沿岸道路は、小泉海岸I.Cまで開通していて多くの乗用車やトラックが行き交っていました。女川駅周辺でもシーパルピア女川を始め、きれいな建物が多く、綺麗な街がコンパクトに作られていました。圧巻だったのは仙台市の沿岸から南へずらっと防潮堤が整備されていたこと。地上から見てもおそらくその長さに驚くと思いますが、上空から見てもその防潮堤が永遠と続くかのような光景でした。南三陸町の防災対策庁舎や石巻市の大川小や門脇小など、現存している震災当時被害にあった建物は数は少ないながらも残っていました。ただ8年の時が過ぎるということもあり、そのまわりはきれいに整備されていたり、盛り土に囲まれていたりと、震災の被害、爪痕というのはほとんど感じられませんでした。私たちの生活のため、また命を守るために、この8年で多くの場所の風景が変わりました。以前の様子を知らないながらも、寂しさも感じます。被災地を見たり訪れたりすると、震災前の景色を見てみたかったなと思うこともありますが、いま私たちができることは何なのか、改めて考える機会にもなります。日々震災を経験していない自分には何ができるのか考えながら、震災でどんなことがあったのか、被災者の思いを伝え続けていくとともに、今後の復興の姿も伝えていければと思います。続いては西ノ入アナです。
東日本大震災8年 高橋 咲良 2019/03/06 普段の取材の中でも、東日本大震災という言葉を耳にする機会は多いです。仙台市内でいちごを販売しているのは、被災した亘理町のいちご農家の方であったり、常温保存できる蒲鉾を開発したのは、南三陸町と気仙沼市の、いずれも被災した蒲鉾店であったり。東日本大震災から8年が経って、再建した、次のステップにうつった、そんなニュースも多く見受けられます。ただ、私が耳にしている、目にしているものは、ほんの一部であると感じます。東日本大震災が起きた時、私は宮城にいませんでした。震災直後の宮城の様子は、映像でしか見ていません。そんな私ができることは何なのか。宮城県のアナウンサーになって2年が経ちました。少しずつ東日本大震災で被災した方に会ったり、被災した場所に行ったりして、もっと知りたい、絶対に忘れてはいけない、という気持ちが強くなりました。大きな災害を経験した宮城県のアナウンサーとして、最後の1人が復興したと思えるまで。部長が仰っていたこの言葉を胸に、私ができることを、続けていきます。写真は、去年の冬に中継した、山元町のコダナリエです。東日本大震災からの復興への思いがこめられています。続いては牧アナウンサーです。
東日本大震災8年 下山 由城 2019/03/05 この1年は災害について学ぶ機会がいくつかありました。東日本大震災の経験を語る活動をされている方のお話を聞いたことが、1番印象に残っています。未熟なりに震災について自分で考えるという、1つ重要な時間をいただけたと感じています。先月26日に、政府の地震調査委員会が、東北地方の太平洋沖で起きる海溝型地震についての長期予測を発表しましたね。マグニチュード7を超える発生確率が、以前と比べて高まっているなどの内容でした。どんな予想であれ、日ごろからの心構えが必要です。どんな意識でも時間が経過すれば薄まっていってしまうものが多いです。そういう意味でもこういう報道が定期的にあるのは、1つ大切なことなのではないかと感じます。2018年の漢字は『災』でしたね。選出理由に「災」害の経験から、全国的に防「災」意識が高まった…との記述がありました。本当に多かったですよね。いつ何が起きるかなんてわかりません。去年9月6日に発生した北海道胆振東部地震では、多くの友人が被災しました。特にアナウンサーとして働いている友人たちは、早朝からの現地中継で相当バタバタしていたと聞きます。エレベーターが止まってしまったり、ライフラインに不具合が出ていたりと、生活面でもしばらく苦労があったようです。実は20日後に、プライベートで札幌に行く機会がありました。行こうとしていた施設の営業が再開されていないなど、影響はもちろんありました。大変な思いをされている人たちもたくさんいたと思います。それでも、観光客として現地に行った感想としては、正直ネガティブなものは無く、強く前に向かって進んでいる姿にこちらが元気をもらったような感じでした。鮮明な記憶を、友人たちから聞くことができましたし、自分の中で大切に覚えておきたいことです。東日本大震災からまもなく8年…まだ8年…もう8年、人それぞれの感じ方があると思います。私は仙台に住んで、まだ2年です。着実に歩みを進めながら、自分にできることを精いっぱいやっていきたいと思います。今回の写真は名取市のお酒『宝船浪の音 純米吟醸 玲瓏(れいろう)』です。他と比べて香りがとても華やかに感じられ、ブレがないストレートな旨味が口のなかに広がりました。おいしいお酒が宮城にはある。東北最高!次は高橋アナウンサーです!
東日本大震災8年 飯田 菜奈 2019/03/04 東日本大震災後、仙台駅の周辺は大きく変わりました。いえ、どんどん新しいビルが建ち、駅ビルの地下フロアなども順番にリニューアルされ、変わり続けています。東北初出店というお店も増え、さらに都会的に…。スタイリッシュな雰囲気は、まさに、東北の玄関口にふさわしい姿に。ただ、ここまでの復活、変化は、新幹線ホームの屋根が落ちるほど大きな被害を受け、一時立ち入り禁止になっていた、震災直後の仙台駅に取材に行った私としては…全く想像できていませんでした。すべてが当たり前ではないことを知ったあの日。スイッチ一つで、電気がつくこと。蛇口をひねったら、水やお湯が出ること。食べたい物が食べられること。スーパーで買い物ができること。洗濯ができること…挙げたらきりがないですが、これらすべてが、当たり前のようで、当たり前にできることではないんです。街の様子は変わっても、東日本大震災を経験した身として、日常生活を送れることに感謝する気持ちは、ずっと忘れずにいたいと思います。震災後から担当しているあらあらかしこ。リポーターの卒業など、寂しいこともありますが、毎週変わらず、土曜日の午前中に、楽しく明るく宮城の情報をお届けできればと思います。お次は下山アナです!
東日本大震災8年 金澤 聡 2019/03/01 去年、番組のロケで気仙沼市の離島・大島へ行きました。1日16往復する定期船を利用しました。大島は震災で孤立状態になりました。そのため国の復興事業で、今年4月7日に開通する気仙沼大島大橋の整備が行われています。わずか二百数十メートルの距離の島と本土が橋でつながります。いつでも車で乗り入れられるようになります。ただ、島内の宿泊者数は震災前よりまだまだ少ないと言います。架橋によって往来が便利になれば、宿泊客も減少するのではと、ロケ先で宿泊した旅館の方は心配されていました。東日本大震災からの復興の象徴となるであろう気仙沼大島大橋の開通は、島の方の生活は改善しますが、観光面では負の打撃も考えられます。ロケ先で知り合った方々は、様々なアイディアで島の魅力を引き出そうと知恵を絞っています。地元の魚介をどんぶりに敷き詰めた鶴亀丼。大島の高台から見える圧巻の星空。景観や、食、自然など1日では回れないほどの観光スポットがありました。震災から8年。あの日孤島となった大島が、今年転換期を迎えます。気仙沼大島大橋が、震災前の賑わいを取り戻す架け橋になることを願って…。次は、飯田アナウンサーです。
東日本大震災8年 梅島 三環子 2019/02/28 先日、今年開通したばかりの区間を使い、三陸道で気仙沼に向かいました。あれから8年。こんなにもスムーズに気仙沼に入れるんだなとしみじみ感じた瞬間でした。三陸道は、もちろん震災前から使っています。松島や石巻など、いわゆる観光地での取材の際に使うことが多くわくわくした気持ちで乗ることが多い道路でした。それが、あの日から被災地に入るための道路に変わってしまいました。震災後の三陸道は時間がまるで読めなかった記憶があります。全国からの自衛隊の車両が列をなし、救助へ向かう姿は今でも忘れません。それからしばらくして、工事車両で大渋滞。復興公営住宅が立ち並び、道路沿いの風景がどんどん変わっていった驚きも未だにしっかりと覚えています。8年で、いろんなことが変わりました。8年前の被災地を見たときに、今の県内の風景を想像できた人は、それほどいないと思います。その時々の今としっかりと向き合い、これからも伝えていきたいと思います。写真は、先日出会った「ホヤぼーや」。ぬくもりを感じるぼーやでした。明日は、金澤さんです。
東日本大震災8年 佐藤 拓雄 2019/02/27 今年の3月11日で、東日本大震災は8年となります。今回は、私たちアナウンス部、それぞれの震災への思いを綴ることにします。私は、震災の翌月から「ともに」という震災の番組を担当しています。来月で丸8年。今年の夏には、放送回数が100回になります。今は、番組を続けていること自体も、一つのメッセージになっているのではないか、と思っています。取材の中で出会った、印象的な言葉を改めて思い起こしました。「2011年の3月11日は特別な日だけれど、これからの3月11日は、前を向いて歩いていく365日のうちの一日でしかない」震災2年という時に、ある若い漁師さんはこう言いました。逆に言えば、震災とは、3月11日のことを言うのではなく、毎日が震災なのです。8年が経とうという今なお、仮設住宅で暮らす人が700人以上もいます。行方不明のままの方は、1200人以上。震災発生当時、復興は途方もなく長い道のりだろうと思った一方で、8年経っての今のこの状況までは想像できていませんでした。震災は今も終わっていません。この震災について、この仕事をする私たちができること、しなくてはならないことは、当初からはっきりしています。9年目に入っても、それは変わりません。震災直後から肝に銘じているのは、「最後の一人が『復興した』と言えるまで伝え続けること」です。加えて思うのは、「最後の一人の復興」の次にも、私たちがすべきことはあるということ。それは、震災を知らない世代に、震災を伝えていくことです。私たちのすべきことにゴールはなさそうです。【写真】岩手県宮古市の宿泊施設に掲示されていた絵。宮古市役所周辺を襲う津波を、市民の一人が描いたようです。記憶を形にして残し伝えていくことの重要性を感じました。明日は、「ともに」を一緒に担当している梅島さんです。