アナ・ログ ~アナウンサーリレーエッセイ~

幼い頃に憧れた職業

2020/12/08
12月に入り、クリスマスに向けてイルミネーションやクリスマスソングなどに触れる機会が増えてきましたね(*´ω`*)
そんな中、5日放送の「あらあらかしこ」では、担当させていただいている「いまだけ」のコーナーで、「クリスマスケーキ」をご紹介しました。今回初めてスタジオに生出演させていただきましたが、あらあらかしこのスタジオも、クリスマスの装飾で彩られていて、とても可愛らしく華やかな空間でした。
写真は、そのスタジオにあった大きなクリスマスツリーと共に撮ってもらったものです(*^-^*)

さて、今回のお題!幼少期は、ただ漠然と、「お店屋さん」に憧れていました(*^^*)
7歳のクリスマス、サンタさんに木彫りのレジをプレゼントしてもらい、大喜び。周りの大人にはよく「お店屋さんごっこ」に付き合ってもらったものです。

100枚近くポイントカードを作ってハンコを押したり、意味も分からず「200%割引」ですと言っていたり、家にあるものをかき集めたお手製の福袋を売りつけたり。今思うと、「はちゃめちゃ過ぎる」お店屋さん。

にもかかわらず、振り返ってみると、当たり前のように買い物をしにきてくれた家族や親戚…
使うエネルギーはすさまじかったんだろうなと、小さい子を見守る側の歳になった今、分かります。夢の時間をたくさん味わわせてくれて、本当にありがとうございました(笑)
大切な思い出です。

現職の「アナウンサー」の夢は10代になってから抱きはじめました。兄がアナウンサーを目指している姿をそばで見ていたことに影響を受けたことや、中学2年生のときに、生徒代表でマイクを使って送辞を読ませてもらえたときに、伝え手であるアナウンサーという職業を意識し始めて、いつの間にか自分の大きな夢となっていました。
お店屋さんではありませんでしたが、夢を現実にできたことでお世話になった大人に少しは恩返しできたでしょうか(*´ω`*)

今後は、自分の夢も追いかけながら、私も子供たちの夢に寄り添える大人になりたいです(*^_^*)

これにて、「幼い頃に憧れた職業」は終了です。明日からのテーマは、「冬の楽しみ」☆
下山アナウンサーからスタートです !!

幼い頃に憧れた職業

2020/12/04
まわりの人と比べて、一度持った憧れは長続きするタイプだと思っています。

最初に憧れたのはコックさんです。現実にある職業に限れば、最初に憧れたもののはずです。幼稚園に通っていたころに持ち始めた夢だったと思いますが、はっきりとしているのは憧れていた事実のみです……
料理を手際よく、華麗に、パパっと作るという姿がカッコいいと感じていました。もともとせわしない性格だったので、鉄鍋を振りまくる中華料理などが性に合っていたかもしれません。(あくまでイメージの話ですが……)

小学生低学年の頃に憧れたのはサッカー選手。これは王道の中の王道ですね。
当時はスペイン・レアルマドリードで10番を背負うなんて豪語していました。ですので、宣言通りミランの10番を背負った本田圭佑選手を人一倍にすごいなあと感じているつもりです。

アナウンサーに憧れを持ち始めたのは小学校高学年の頃でした。寝る前に聞き始めたラジオ、前から何かと好きだった実況の真似、放送委員として校内放送をしたこと、今思えば本当に様々な要素がきっかけになっていたと感じます。
そこから10年以上夢は変わらず、ありがたいことに今その仕事に就けています。
憧れ始めていたころの気持ちを忘れずに、間もなくやってくる3年目を迎えたいと思います。

まだ少し気が早いでしょうか。

写真は古川駅前にある、黄金に輝くポストです。今では目立つ円柱状のレトロな形に圧倒的存在感のある金と、かなり目を引くポストでした。「豊穣の黄金ポスト」という名前だそうです。
米どころでもある古川、稲穂の色からこの色になったということです。ここから送られた手紙は、受け取った人の運気が上がりそうですね。

次は伊藤アナウンサーです。

幼い頃に憧れた職業

2020/12/03
今回のテーマ、2007年にも「子どもの頃なりたかったもの」というお題で、同じような話を書いていました。帽子に憧れてコックになりたかった、という話。詳しくはそちらをご覧ください。
・・・というわけにもいかないですね。

コック以降、憧れた職業と言えば、漫画家です。

小学生から中学生にかけて、とにかくよく漫画を読んでいて、小遣いのほとんどを漫画につぎ込んでいました。

漫画の原体験ともいえる「ドラえもん」に始まり、「ドカベン」「ブラックジャック」といった不朽の名作をリアルタイムで読み、「マカロニほうれん荘」に衝撃を受け、「キャプテン翼」でアディダスの帽子をかぶったりしました。「あしたのジョー」や「がんばれ元気」でボクシングの奥深さを知り、矢吹丈が「真っ白な灰」になったラストシーンは、絵を描き写しました。
なかでも、「ドクタースランプ」の登場は私にとっては革命的で、鳥山明さんのような絵とギャグマンガを描きたい、少年ジャンプの漫画賞に応募しようかと、インクをつけるタイプのペンを買って、色々な絵を模写しました。

今思うと、いろんな物事にすぐ感化される子どもだったんですね。

ただ、絵を模写したり、自分で「それ風」の絵を描いたりすることは、ある程度できるようになりましたが、肝心のストーリーが全く思いつかない(笑)
漫画家ってすごいなあ、と改めて思いつつ、夢は夢のままで終わったのでした。

そんなことを書いていたら、一昨日、偉大な野球漫画家、水島新司さんが引退を発表しました。発表翌日のスポーツ紙が揃って一面トップで大きく報じていて、改めてその存在の大きさが分かります。
「ドカベン」をはじめとする水島野球漫画は、多くの人がそうであるように、私にとっても、「教科書」であり「基本書」です。さらに言えば、「ドカベン」は息子2人と親子二代にわたる愛読者です。
楽天初年度の2005年、水島さんが楽天の本拠地へ取材にいらっしゃいました。私自身も野球の取材で行っていたのですが、私にとっては水島新司さんの姿を見たことが、その日一番の出来事でした。
引退は寂しいですが、水島さん、本当にありがとうございました。

寂しいと言えば、もうお一人、「釣りキチ三平」の矢口高雄さんの逝去。本当に絵が美しく、矢口さんの描く魚たちは、生きて動いているような生命力にあふれていて、子どもながら毎回息を飲みました。
矢口さんにも感謝の気持ちでいっぱいです。

【写真】石巻で見つけた「サイボーグ009」。こちらも偉大な漫画家で宮城出身の石ノ森章太郎さんの作品です。これも面白かったなあ。

続いては、堤アナウンサーです。

幼い頃に憧れた職業

2020/12/02
アナウンサーを目指したのは、大学3年生の頃でした。
今こうしてアナウンサーとして働けていることが本当に幸せですし、日々やりがいを感じています。

アナウンサーに憧れる前は、「バレリーナ」に憧れていました。
4歳からバレエを習い始め、それ以来バレエばかりやっていたので、バレリーナに憧れるのは自然なことだったと思います。
もともと夢見がちと言いますか(笑)お姫様だとかそういうロマンチックな世界が好きだったこともあり、ふわふわキラキラのドレスのような衣装を纏い、お姫様を演じることが出来るバレエにどはまりしていました。

しかし、プロとして舞台に出て、主役を張るようなダンサーはほんの一握り。
大好きなバレエを職業にする厳しさを感じていましたし、私は技術や体形にそもそも恵まれていませんでしたので、趣味で続けることを自然と選びました。

趣味としてのバレエは、今も週に1回レッスンを受けています。クラシック音楽に合わせ、自分の身体と向き合いながら過ごす時間は、私の癒しの時間です。
スケジュールやタイミングが合えば、お教室の発表会に出演させてもらって、もう1度舞台に立つのが今の夢です。

バレエを踊るのに年齢は関係ありません。70代や80代で続けられている方もいると聞きました。一緒にレッスンを受けている私よりも上の世代の方々は、皆さん美しい姿勢・スタイルで、本当に活き活きとされているので、私もそうなれるよう頑張りたいです♪
こうして一生続けられるようなものに出会えたことに、感謝です!!

写真は、「イット!」の取材で伺った、「賀茂神社」と「瑞鳳殿」の紅葉です。
写真を撮るのは全くの素人の私ですが、それでも綺麗に撮れるほど!美しい景色が広がっていました。
日々様々な場所へ行って、色々な方と出会えることも、アナウンサーという職業の魅力ですね。

続いては、佐藤アナウンサーです!!

幼い頃に憧れた職業

2020/12/01
仙台放送アナルームの新しい動画が配信されています!
今回は僭越ながら私が企画いたしました!その名も「翔んで埼玉な私たち」。寺田アナ、下山アナ、伊藤アナが参加してくださいました~!! 出身地を巡った熱いトークバトルを是非ご覧ください。

さて、みなさんは幼い頃にどんな夢をもちましたか??
私が物心ついた頃に憧れていたのは、「歌って踊れるお姉さん」。
(「おかあさんといっしょ」に出演されていたお姉さんや、歌手など)
テレビの中でキラキラと楽しく歌って踊るお姉さんを見て、「わたしも憧れのお姉さんになる !!」と家族によく言っていた気がします。

私は昔から、一度心に決めるとその世界観に浸り続け、憧れている人になりきってしまう癖があるので、当時普通の生活の中でももうお姉さんになりきって大変だったそうです。
というのも、幼稚園の運動会に母が見に来てくれていた時の話ですが…

母が何か異様なものを感じ、ふと園庭の隅っこに目をやると、テントの鉄のポールを使って、何かに取り憑かれたように一人で踊り狂う園児を見つけたそうで…

みなさんお分かりの通り、そうです。私です。(冷や汗)
実は私、その数時間前のクラスの出し物のグループダンスは全然真剣にやらず、母にしこたま怒られていたのですが、一人になった瞬間にキレッキレな創作ダンスで自分の世界に没頭して踊っていたというのです…。
憧れのお姉さんになりたいなら、しっかりグループダンスもやり遂げないとダメでしょ!と昔の自分に喝を入れたいですね…。そんな自由奔放な園児でしたが、そのころからテレビの世界に憧れていたのかもしれません。

歌のお姉さん以外では、弁護士や警察官、法医解剖医、気象予報士、教師などに憧れました。これもすべてドラマや映画、テレビを観て「なんて格好良いのだろう…!」と感動したためです。そのため、大学時代はすでにアナウンサーを目指していましたが、憧れの一つだった英語の教員免許を取りました。
今では仕事で、過去に憧れたいろいろな職業に就かれている方とお会いすることがありますが、本当に素敵だなと毎度感動で胸がいっぱいになります。

ちなみにアナウンサーになりたい!と思ったのは、小学3年の時。「めざましテレビ」で当時キャスターをしていた、高島彩アナウンサーに憧れました。難しいニュースも高島アナの読みでストンと理解することが出来たり、快活に楽しく話してらっしゃる姿に憧れて、食い入るように毎朝見ていた気がします。そこから高島アナのようにハキハキ喋れるようになりたいと、小学校で学級委員を務めたりと、苦手だった人前になるべくたくさん立つようにしていたことも懐かしいです。

あすは咲良さんです(*^^)

幼い頃に憧れた職業

2020/11/30
幼い頃に憧れた職業、というより、幼い頃からずっと憧れていた職業があります。
キャビンアテンダント。

人生初の海外旅行は小学校1年生の時。行き先はオーストラリア、カンタス航空に乗って日本を出発しました。人生初の長時間フライト、人生初の海外の飛行機、人生初の機内食、人生初!飛行機の中で夜を明かす…!!
初めて尽くしでドキドキドキドキ…しながらも、興奮していた私は(笑)折り紙で”カンガルー”と”コアラ”を折って、金髪長身のキャビンアテンダントの女性に、プレゼント!
(カタコトの英語でなかなかアグレッシブだったなぁと思います、笑)
そしたらとても喜んでくださり、
「プレゼントをくれたから、お礼にコックピットを見せてあげるわ!」と、操縦席へ案内してくださったのです !!
操縦席に入ると、操縦士と副操縦士の男性が、私を見てにこっと微笑んでくださり、これまた、感動 !!!!!
たくさんのお客さんを乗せて空を飛ぶ大きな機体を操っているのは、いろんな色のボタンがたくさんある、この空間なんだ !! と胸が高まったことを覚えています。飛行機写真のポストカードも、数枚プレゼントしてくれました。

飛行機の中は、何て楽しいことがいっぱいなんだ!と、初めての飛行機搭乗で特別な体験をさせてもらった私は、それ以来、飛行機が大好きに。仕事としても、飛行機に乗っていろんな場所に行けたら毎日心躍るなぁ…と思い、就職活動中も会社説明会などに行きました、実は。
(某航空会社のスカーフをお借りして写真を撮らせてもらった時はテンションが上がりました…!!! 笑)

突き詰めていった結果、私が本当になりたいのはアナウンサーだと気づき、飛行機に乗るのは休みの日のお楽しみにとっておくことに。結果、アナウンサーとして12年、楽しくお仕事させていただけて幸せな毎日ですが、心のどこかに憧れはあります…笑

☆写真☆
会社近くの公園の紅葉、とても奇麗に色づいています!

お次は西ノ入アナです!

幼い頃に憧れた職業

2020/11/27
幼稚園児のときに「たこ焼き屋」って書いた記録が残っています。
書いた記憶はわずかにありますが、なぜ書いたかはまったく覚えていません。たぶんどこかで食べたたこ焼きが美味しかったのでしょう。もしくは、たこ焼きを作る経験をして楽しかったのかもしれません。今はお店で買うたこ焼きが好きですね。写真は去年、大阪で食べたときのものです。

プロ野球選手に憧れたときもありました。
これは小学生のときだと思います。巨人戦が毎日のようにテレビ中継されていた影響はあるでしょうね。あと、両親がよく東京ドームに連れて行ってくれました。初めて行ったのは1995年9月1日の巨人vs広島で5対5の引き分けでした。とにかく試合が長かった。(笑) 当時は延長が15回までありましたからね。試合時間はかなり伸びそうですが、そこまでやれば引き分けも珍しいもの。今年は異例のシーズンで、延長は10回までだったので引き分けの試合を結構見ましたよね。
正直、初観戦の試合内容は全然覚えていません…(笑) ホームランで球場が沸いたシーンがあったような…。(広沢選手の満塁ホームランだったような…。)
ゲームよりも印象的だったのは父親がコーラを買ってくれて、球場で飲む美味しさをはやくも7歳で気づいたことでしょうか。大人になってコーラがビールに変わりましたけどね!(新型コロナの影響で今年はそれができなかったなぁ…。)

そんなことを思い出しながら調べてわかったことなのですが、当時は引き分けると再試合が行われていたのですね。1990年~2000年までセ・リーグで採用されていたとか。
私の初観戦の引き分け再試合(1995年10月8日)が、原辰徳さんの現役引退試合になったそうです。それはテレビで見ていた気がします。いろいろ懐かしい。

時は流れて大人になり、アナウンサーとして憧れたプロ野球の中継に関わることができているのは本当にうれしいです。来シーズンに向けて自分自身のスキルアップに励みます。
来年はプライベートでも球場に観に行きたいですね。それが気軽に可能となることを祈ります。試合を見ながらビールを片手に、せっかくだからツマミはたこ焼きでも買いましょうかね(笑)


お次は飯田アナウンサーです!

幼い頃に憧れた職業

2020/11/26
幼稚園の卒園アルバムに、「テニスプレーヤーになりたい」と書いてありました。今振り返っても、一度もテニスはやったことが無いのですが不思議なものです。
中学生の時も定員オーバーではじかれましたが、テニス部を希望していました。何となく幼いころから、テニスができる人はかっこいいという憧れがあったのでしょうね。そこまで憧れているならやればいいのに未だに手が出ません。

その後憧れていたのは、獣医。小学生の時はずっとこれでした。
しかし、私は犬が好きなだけで鳥は苦手。爬虫類は、見るのも苦手です。ましてや血も大の苦手で、全くもって向いていないのではないかと中学生くらいでようやく気づきました。子どもの夢なんてそんなものでしょうか。

また職業ではありませんが、幼いころから大きい外車を乗りこなす髪の長いかっこいい女性になるのも憧れでした。こちらも叶うことはありませんでした。努力すればできたのでしょうが…。もはや諦めの境地。
ゴールド免許の更新に、地下鉄とバスを乗り継いで行くくらいなので、もう何年と車すら運転していません。

私の憧れは、憧れで終わるようです(笑)

写真は、唐桑の牡蠣。絶品でした。
明日は下山君です。

幼い頃に憧れた職業

2020/11/25
小学校3年生から中学1年生までサッカーをやっていたということもあり、もちろん憧れた職業はサッカー選手でした。
02年の日韓ワールドカップの日本の活躍に刺激を受け、04年ユーロで応援していたポルトガルの準優勝の悔しさを感じるなど、(一時期サイドハーフをやっていたので、フィーゴとクリスティアーノロナウドのサイドハーフが大好きでした)サッカーとともに過ごした少年時代でもありました。

小学校の卒業式に自分の夢を話して卒業証書を受け取るのですが、サッカーをやっていた友達はみんな
「日本代表になりたい!」「ワールドカップに出たい!」
そう宣言している中、私は
「Jリーガーになりたい!」
と大声で話しました。夢の話なので日本代表ぐらい大きな夢を語ってもいいと思いますが、当時の私は、自分よりうまい友達が日本代表と話すので、
「自分なんかがいうのはおこがましい」
と卑下し
「でもサッカー選手にはなりたいからまずはJリーガー目指そう」
そんな思いで、卒業式で宣言した記憶があります。
今思い返すと、もっと気持ちを強く持ち、
「今は下手だけどこれからもっとうまくなってやる、だから日本代表を目指すんだ!」
そのぐらいの威勢をもって話せれば、その先はまた違ったのかなぁと思います。そんな気持ちが弱い選手がプロになれるわけないと今は感じますし、そもそもJリーガーになることがどれだけすごいことか、過去の自分に喝を入れたいくらいです笑

結局サッカー選手になることは気持ちも弱かった中学生時代にあきらめてしまいましたが、笑
現在好きだったサッカーに関われる仕事に就けていることを幸せに感じます。
サッカーが好きな方はたくさんいる中で、私自身もサッカーファンの一人として、サッカーの楽しさ伝えるアシストが少しでもできればと思っています。

続いては梅島アナです!

幼い頃に憧れた職業

2020/11/24
小学5、6年生の頃にはもうアナウンサーに憧れていましたが、小学3、4年の頃は『歌手』になりたかったなあ。
フジテレビ『夕やけニャンニャン』のオーディションコーナーを、毎回、胸をときめかせて見ていました。「高校生くらいになったら、私も出場しておニャン子クラブに入るんだ!」と、ちょっと本気で思っていました。
でも、小学5年生の頃に『夕やけニャンニャン』が終了…。
私の夢も破れたり…。

それよりもっと幼い小学1年生の頃は、『演歌歌手』に憧れていました。父が演歌が大好きで、居間にある8トラックでいつも大川栄策さんの『さざんかの宿』を聞いていました。それで私も自然と歌詞を覚え、家にあるカラオケセットで、父と一緒に大熱唱していました。

当時は意味も分からず歌っていましたが、今、改めて歌ってみると、とっても大人な歌詞ですね……。
ははは…。

☆写真は…。
ある日の私服。ドット柄が高橋咲良アナウンサーとかぶりました。

「アナ・ログ」 続いては、牧広大アナウンサーです♪

幼い頃に憧れた職業

2020/11/20
さて「アナ・ログ」は新しいテーマとなります。
今回は『幼い頃に憧れた職業』です。
私は40年も前の夢の掘り起こしなので、海馬を刺激しながら書き綴りたいと思います。笑

卒園式を終えると、お祝いだといってレストランに連れて行ってもらいハンバーグ付きのナポリタンを食べ、入学式の後は、お祝いだといってお寿司屋さんで好きなものを食べました。人生の節目を迎える度に、自分の大好物をご馳走してもらえることにとても心躍ったのを覚えています。
と同時に、こんな美味しいものを作る人に憧れを抱きました。自分が作ったものをおいしいと言って食べてもらえるなんて、こんな幸せな職業はないのではないかと。

小学生のときに、お寿司屋さんやレストランに行くときは必ずノートと鉛筆を持って行くようにしました。
どうやって寿司を握るのか、酢飯はどうやって作るのか、ネタはどこから仕入れているのか。ナポリタンのケチャップはどこのケチャップを使っていてどのくらい使用するのか、などなどお店の人に質問してはノートに書き込んでいたと思います。
果たしてこのノートは夢に繋がらず、専ら食す側のみ。いま料理が得意かと言えばそんなことはなく、強いて言えば、カレー、シチュー、ボルシチと圧力鍋で作れそうなものは良く作ります。それ以外は…。

いずれにしても人に喜んでもらえる職業は、大変素敵な職業だといまでも憧れはあります。

<写真>
YouTube動画
【公式】仙台放送アナウンサーch. そこで『ベガルタ研究所(ラボラトリー)』というものをやっています。
ゲストに元ベガルタ仙台・日本代表の岩本輝雄さんなどをお招きし、ベガルタ仙台やサッカーについて語っています。お時間あればご覧ください。
※写真は岩本輝雄さん出演回の撮影前の様子です。

次は、寺田アナウンサーです。